死人の息
「おい、起きろよ」
青年に軽く揺さぶられてピエロは起きた。太陽は真上にいた。ピエロは崩れた髪を手で整えながら声の方を向くと、そこにはシチューとパンの乗ったトレイを持った青年が笑って座っていた。その向こうでテントの入り口が少し開き、あのオーナーが中に入ってこようとしたのが見えた。しかしオーナーは青年とピエロがいるのを見ると、何も言わずに再び外へ出て行った。
「食べよう」
青年の声が少し遅れて耳に届き、ピエロは差し出されたホワイトシチューを口へ運んだ。程よいとろみのおかげで野菜にシチューが絡まり、噛むとうまみとあまみが染み出てきた。スプーンを置いて皿からそのままシチューを飲んだが、あまりの熱さにピエロは耳が痛くなってしまった。しかし喉を通りすぎていくシチューは胸の奥で熱くとどまり、それはピエロにとって、とても嬉しかった。一方青年は一口ずつスプーンですくって食べており、その仕草は一つ一つに気品があふれ出ていた。
「変わったな、お互い」
ピエロはパンをシチューに浸しながらそう言った。青年もシチューをスプーンでかき混ぜながら頷く。昨日の夜は再会をあんなに喜べたのに、どういう訳だか今日は沈黙が多い。そう感じたのは青年も同じで、話題を見つけてはすぐに切らし、見つけては切らしという流れがしばらく続いた。勿論その沈黙は気まずさから生まれるもので、その気まずさも気遣いから生まれるものだった。
「じゃあ、俺は打ち合わせに出てくるよ」
今まで一口ずつスプーンですくって食べていた青年は、皿から直接飲み干してピエロにそう言った。引き留める理由もなかったピエロは、黙って青年の背中を見送り、自分は残りのシチューをパンに浸しながら食べ続けた。冷えるこの季節では熱々だったシチューも、もう冷たくなっていた。
ピエロは皿を床に置き、片手で食べ、片手を懐に突っ込み、温めながら食事を続けた。青年が出ていく時に入ってきた風は乾ききっていて、死人の息そのものだった。
「彼は忙しいね!何しろ一流だからさ!そしてその一流を育てた私は、一流を育てる一流だ!一流の親なんだ!でも彼はいい人だよ!」
再び死人の息が吹き込むと同時にまたオーナーが入って来た。ピエロはやがて、このオーナーの存在をいよいよ疎ましく思うのだ。青年とピエロが二人きりでいる時にはそっとしておいてくれているのだろうが、ピエロはそれが気がかりだった。青年とピエロが二人きりでいる時には必ずこのオーナーは離れていくのだ。青年やピエロが気づかないわけではなかった。まるで、どちらかが自分に気づいたのを確認すると離れていくようで、さりげなく気を利かせているのを見せつけているかのようにピエロは思えてならなかった。だからこの時、ピエロは笑顔でオーナーに話しかけた。
「ええ、彼が一流になったのは嬉しいです。ところで、あなたはこのサーカスのオーナーになる前は何をしていらっしゃったんですか?」
「君は何をしていたんだい?」
質問を質問で返されたことに少し戸惑いながらも、ピエロはどうして今自分がここにいるのかという事をかいつまんでオーナーに説明した。途中途中で相変わらずの相槌を打ちながら聞いていたオーナーは話が終わると、大げさな拍手をしながら変わらぬ笑顔でこう言った。
「じゃあやっぱり君と彼は、昔からの友人だったんだね!きっと彼も喜ぶだろう!」
ピエロは苦笑しながら先程の質問をもう一度尋ねてみたが、オーナーは笑いながら、仕事がある!と言って象の集まるテントの方へ去って行ってしまった。
サーカス団は相変わらず鬼気迫っている雰囲気だった。たまに見かける青年にも、ピエロは声を掛ける気さえ起きず、来る日も来る日もカードを切った。日に日にかじかんでいく手を息で温めながらテントの中から青年を眺める。ここにたどり着いてから二週間もすると、ピエロは昔からいた人間のようにサーカスが陣取る土地の中で過ごせるようになった。それと同時に雑用を手伝うようになり、雑用係に教わりながら掃除や洗濯、料理を作るようになった。この雑用係はこのサーカスの団員の中で一番老いぼれていたが、雑務をこなす事においては、体力も腕前も一番に見えた。美しく長い銀の髪と髭はいつでも上品に輝いて、深く刻まれた皺も優しかった。ピエロとこの雑用係はすぐに打ち解けた。それを見て安心した青年は再び仕事に戻って行った。
「いい腕じゃないか。経験でもあるのかい?」
言い回しはオーナーそっくりだったものの、この雑用係は口調に温もりがあった。深く温かみのある声で、いつも穏やかで落ち着いている。彼に会う前までは雑用係と聞くものだし、慌ただしく忙しいと言い続ける人間だと思っていたから、ピエロは正直ほっとしていた。素早く仕事をこなしながらも、ピエロには丁寧に作業の進め方やコツを教えてくれた。歳は雑用係の方が七十も年上だったが、お互いにそんなことは気にしなかった。空いた時間には語り合い、ピエロは雑用係から歌や昔話を教えてもらった。まるで老人が小さな子どもを相手するように聞こえてくだらないと思うかもしれないが、実際にそうでありながらもピエロにとっては、大変すばらしい時間だった。そして一日中忙しく駆けまわる青年をすれ違いざまに励ましながら、ピエロも自分の雑務をこなす日々が続いた。その間も雑用係はピエロを支え、良き相談相手になってくれた。ピエロがまともに会話を交わすのは、この老人だけだった。相変わらずオーナーは今すぐにでもこのサーカスに入らないかと聞いてくる毎日だが、ピエロは首を横に振りながら適当に流していた。入りたくないという訳ではなかったが、やはりショーを一度見てみたかった。何より青年はここにいるわけだし、時間はいくらかかっても構わなかった。