火の粉と薔薇
扉を開けると冷たい秋風が唸りをたてながら吹いた。乾いた落ち葉を荒々しく押し、寂しげな街路樹に残っていた葉さえも、もぎ取って行った。それが通り過ぎた道は一層寂しくなった。ピエロはおろしたての靴を鳴らしながらあの灰色の路地へと足を運んだ。
しかしいつものドラム缶の場所に行っても、青年は居なかった。ピエロはそのあたりを歩いて青年を探し始めた。途中、道端にうずくまっていた初老の男に青年のことを聞いた。男は寒さで身を震わせながら答えた。
「ああ、あの子ならついこないだここを出て行ったよ。仕事を探すとかなんとかね。若いから力仕事なら何とかできる。今年の冬はとても寒くなるそうだ。食べ物でも洋服でも何でもいいから手に入れないと死んじまう。まあ、老いぼれの俺は今年限りの命だろうよ。今夜だってほら、もうこんなに寒いんだ。がちがちなる歯ももう少ない」
ピエロは男にパン一個と自分のコートを渡し、礼を言って再び歩き出した。男はそんなに礼はいらないと言ったが、ピエロはそれらを押し付けた。青年を知っているだけで、もはやそれだけのものに思えたのだ。そしてコートを渡して、初めて寒いことを知った。青年はどうしているだろうか。この寒さに耐えられるような暮らしを送れているのだろうか。その不安が巡り巡るように、ピエロは路地をさまよった。人に会えば青年の事を聞き、なんとか情報を手にしれようとした。だが行先まで知っている者はおらず、やがて日が暮れた。この時になって初めてピエロは不安になった。てっきりここに青年がいて、自分の金でどこかの宿屋にでも泊まり、お互いに語り合うつもりだった。しかし青年はおらず、自分の金も青年の事を教えてくれた人たちにお礼として渡してきたため、懐にはほんのわずかしかなかった。それどころか今のピエロには、もう帰るべき家はない。ピエロは初めて、文字通り、路頭に迷った。
凍り付くような路地で一晩を過ごしたピエロは、今日も青年の事を訪ねて回った。灰色の路地は朝も昼も変わらぬまま薄く靄がかかっていた。ピエロは腹を空かせ、乾いた喉に唾を流し込みながら冷え込む路地を一人、さまよい続けた。そして今日も、いつの間にか一番星が輝き始めていた。今夜も路地で眠るのかと思うと、ピエロはその場に座り込んでしまった。おろしたての靴も今や汚れ、ところどころ剥げていた。
「なりそこないだな」
顔を上げるとそこには一人の男がいた。暗い色のスーツは薄暗い路地にほとんど溶け込んでいたが、青白い顔と、それに映える真っ赤な髪と琥珀色の瞳はくっきりと輝いていた。ピエロは思わず腰を抜かした。てっきり生首が宙に浮いているのかと思ったのだ。男はそんなピエロを見て、あの時と同じように微笑んだ。そしてそのままピエロを立たせると、自分のスーツを着させてやった。男がスーツの中に来ていたのは白いワイシャツだったので、ピエロはやっと男の人間らしい体の形を認識することができた。ピエロはトランクを地面に置き、男の方を向き直ると深々と一礼した。
「お久しぶりです」
すると男は頷きながら言った。
「あの勇ましかった青年も、君と同じようにするだろうね」
ピエロは頷くことができなかった。ピエロは今まで青年がどんな人間か、どんな事をするかなんとなくわかっていた。きっとそれは青年も同じだとも思っていた。しかし今日、出会ってから初めて、ピエロと青年はすれ違った。今まで喧嘩もこんなすれ違いもなかった。今になってすれ違うと同時に別れるとは。もしずっと前に小さな喧嘩を何回かしていたら。もし今まで数日間だけでもお互いに思い違いをしていたら。そしてそれらをともに整理し、理解し合えていたら。ピエロも青年も今一緒にいたかもしれない。いや、それとも初めからこうなる運命だったのだろうか。
「もしも君たちが数年先も友人同士で、その数年後の今日に大きなすれ違いをするとしよう。そしてそれが本当の別れになるようなすれ違いだとしたら、きっと今と同じことを思う。だが数年後から見たら今は過去だ。今の出来事は今までから生まれたように、未来の出来事もそれまでから生まれる」
突然に男は言った。そして足元に落ちていた小石を拾うと、少しの間それを弄び、ふと一本の真っ赤な薔薇を出した。
「あの時君が私を追いかけていなければ、この薔薇はただの薔薇だ」
「お願いです、居場所を教えてください」
どうしてだか、ピエロは無意識に青年の事を聞いていた。だが男は微笑みを崩さぬまま、ゆっくりと指差した。それは丘の向こうを指していた。いつの間にか、二人は路地を抜けていたのだ。そしてその方角のずっと先には、もやっとした温かな光があった。
「君は少々芸ができるようだね。ちょうどいい。あそこに雇ってもらえ。この辺りに来るサーカスだ」
男の意外な言葉にピエロはむっとした。
「私にそんなことをしている時間はありません。どうして知っているのかはわかりませんが、この芸当はサーカスに入るために身につけたものではないんです」
それでも男はピエロの話など聞いていないように、先程出した薔薇を星空にかざして遊んでいた。そして、どこからか取り出したマッチで薔薇に火をつけた。一本の薔薇なのに、それは激しく燃えた。
「望まぬ場所に、望むものはある」
その言葉を残し、男は炎とともに消えた。星空に向かって舞う火の粉の二つが、男の目に見えた。やがてそれは輝きながら、夜空で無数に輝く星たちの中に溶け込んだ。
ピエロは再び一人になった。しかし先程とは違って今は行く先がある。ピエロはトランクを握り直し、丘の向こうの光を目指して再び歩き出した。男はどこからか、ピエロの後ろ姿を見ながら、静かに首を振るのだった。ピエロが望んでいたのは、再び青年に会うことだった。それだけだった。ピエロは青年と過ごしたあの日々を、渇望していたのだ。
目的地は思っていたよりずっと近くにあった。丘のてっぺんに着いた時から華やかな音楽が耳をくすぐり、色とりどりの人間や動物がせわしなく動き続けているのが見えていた。街の人間であれば、ここにどう入ればいいか戸惑っただろう。人の家にあがる時とは違い、ここには敷地の境や呼び鈴はおろか、扉すらないのだから。広場に人だかりがあり、気まぐれにたてられた小さなテントがいくつもある。自分が今いる場所もすでに彼らの縄張りだと思う者もいるだろう。だがピエロは違う。昔の灰色の路地で、唯一の友人に会いに行く時と同じだった。だからピエロはすれ違う人間に対して、怯えることも、必要以上に警戒することもなく進んだ。ここに来てまず初めに誰に会えばいいのかはわからなかったが、あの男の言う通りならば、青年はここにいるとピエロは思った。本当はいつも通り、あの薄暗く湿った路地でドラム缶の上に座っている所に会いに行きたかった。いや、でも、それ以上にここにいる。そう思えるだけでピエロには十分だった。