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木枯らし

 その日以来、ピエロと青年は手品や様々な芸を勉強し始めた。街の本屋やそれらしい店を回って本や道具を掻き集め、薄暗い路地で必死になって練習した。二人は別に魔法使いや手品師、ましてはピエロになりたい訳ではなかった。ただあの時を境に、彼を無意識に新たな目で見るようになったのだ。ピエロは買ったばかりの本を何度も読み返しながら手元のトランプやハンカチをいじっていた。しかし青年はろくに文字を習ったこともないので、ピエロほどには本を読みこなすことはできなかった。図解を見てなんとなく真似してみたものの、細かい方法までは呑み込めずに、いつも失敗した。そんな毎日を繰り返すうちに、二人の間には差が生まれてきてしまった。それは月日が流れるうちに広がり、いつしか青年はそれらを投げ出してしまった。横で鮮やかな技を次々と成功させるピエロを羨ましそうに眺め、たまに拍手や歓声を上げるだけだった。それでも青年はピエロが好きだった。青年がお腹を空かせている時には、ピエロが持ってきたおやつを分けてくれるし、みすぼらしい青年に軽蔑の目を向ける輩から守ってくれたからだ。二人はお互いにお互いを必要としながら、毎日を一緒に過ごした。時には彼の芸を眺め、時には彼を追いかけた。しかしあの日以来、二人と彼が言葉を交わすことはなく、いつしか彼はこの路地に来なくなった。

「最近ぜんぜん来ないよな」

 ピエロはトランプをきりながら呟いた。

「ああ」

 青年も無気力に頷く。

 次の日から今度はピエロが路地に来なくなってしまった。路地の人間は、はじめから暇つぶしだったんだ、親がもっと金持ちになったんだよ、と青年に言ったが青年はそんな言葉を始めは全く信じなかった。あいつはそんなやつじゃない、きっと何かあったんだ、と不安になりながらいつものドラム缶の上で毎日毎日ピエロを待った。一週間が経ち、一カ月が過ぎた。しかしある時ふと、青年もそろそろ潮時かもしれないと思った。ピエロが社会人になれば、結局はこの路地に来なくなるだろう。遅いか早いか、それだけの違いだ。


 青年はドラム缶から降りた。


 ピエロも友人の無気力な相槌を最後に、会えなくなるとは思っていなかった。あの日、ピエロが家に帰ると、そこには父の靴があった。いつもならもっと遅くに帰宅する父は、ピエロと顔を合わすことさえまず無かった。ピエロも別に父の顔を見たいとは思っていなかった。二人の数少ないやり取りは、将来についての喧嘩で終わる。いや、喧嘩にもならない。父は自分の会社を継げと言っても、やがて息子から返ってくるのは言葉ではなく、乱暴に開け閉めされるドアの音だけになっていたのだ。

 だからこの時もピエロはむっつりとした顔のままリビングに入って行った。しかし、いつもダイニングテーブルがある場所にそれがなかった。代わりに組み立て式の簡単なベッドが置かれ、そこに青白い顔をした父が横たわっていた。その傍らで母はハンカチを雑巾のように絞りながら泣いていた。ピエロは一瞬で何が起きたのか理解した。父の亡骸の側によると、母が気づいてピエロを抱きしめた。

「会社で突然倒れてね、過労死ですって。ついさっき業者の方や会社の皆さんが帰って行かれて、私、とても心細かったのよ。死んでしまったわ。死んでしまったのよ」

 そう言いながら母は再び床に泣き崩れた。信じがたい程に悲しんでいた。だがピエロはちっとも悲しくなかった。ただ、日常に少しいつもと違うことが起こっただけのような気がして、それ以外どうにも思うことができなかった。ピエロは母をリビングに残し、自分の部屋に姿を消した。


 それからしばらくは、たとえ悲しくなったとしても泣いている暇などなかった。父の葬儀はもちろんだが、大会社の跡取り息子として父の遺した会社で働くのか、と会社の人からしつこく聞かれたり、父の死を知らぬ取引先から催促の電話が家にまでかかってきたり、手紙が郵便桶にごった返したりした。母もあの日以来すっかり元気をなくし、何も口にしなくなった。日に日にその体は痩せ細っていき、このままだと母の葬式を行うのも時間の問題だった。それでもピエロの頭の片隅にはいつも、あの青年の事があった。いつ会いに行こう、あったら何から話そう、何から聞こう。母の命がか細くなっていくにつれ、その思いは気がつかぬ間に大きくなっていた。そして初めてピエロは気が付いた。自分がどこかで母の死を願っているということに。両親がいなくなれば自分はいよいよ自由になれる。一人で好きな場所で好きに生きられる。そう思えた。同時に、そんな考えをする自分に嫌気がさした。今までの自分を作ってくれたのは両親であり、両親のこれからを作るのは自分であるべきだ、その義務と情とを放り出すだけでなく、恩人ともいえる両親の命が消えることを喜ぶのか。ピエロは両方と一つの思いを毎日のように頭の中で駆け巡らせながら、必死に平然を装った。決して簡単なことではなかった。そして一週間はあっという間に過ぎた。いつの間にか一カ月も過ぎ去っていた。母も衰弱しながらではあるものの、一年が経ったことも、認めざるを得なかったのだ。


 そして新月の夜、母は自分の、ピエロは母の命が、今日で終わるだろうとうすうす感じながら過ごしていた。だからピエロは、最後に母を笑わせてみたかった。父が死んでから絶望と心細そうな表情のままだった母に、今一度、昔の生気に満ちた温かな優しい笑顔を。ピエロは過去の思い出話をたくさん母に話した。しかし、しばらく話していくうちに、母の目から一筋の涙がこぼれ始めた。ピエロははじめ、うれし涙かと思いさほど気にかけなかったが母の言葉を聞いて口をつぐんだ。

「あなたとの思い出はこんなにたくさんあるのに、あの人との思い出はちっともないわ。私、あの人が死んだ時、あんなに泣いて、あんなに愛していたんだと初めて知ったの。それなのに、あんなにも愛していたのに、私はあの人の側にいる事さえなかった。なんて馬鹿だったのかしら。大切なものは失ってから気づくなんて言葉、私とは無縁だと思っていたのに」

 彼女の涙は次第に増え、いつしか体が空になるほど涙していた。ピエロは母の背中をさすり、水を飲ませた。咳込みながら彼女は水を飲み、泣いた。ピエロは母が落ち着くまで根気強くそれを繰り返した。やっと彼女が泣き止むと、ピエロはふと思い立った。小走りに自分の部屋から焦げ茶色のトランクを持ってきた。そして紳士のように母の前で一礼した。彼女はきょとんとしながらも、愛しの我が子を見つめた。

 ピエロは静かに微笑んだ。そして、新月の夜空に瞬く星々を縫うように響く、透き通った声でこう言った。

「ご覧あれ」

 それからピエロはトランクから一枚の布をだし、それを頭から自分にかぶせた。次の瞬間、彼女の前に現れたのはあの彼とそっくりな格好をしたピエロだった。ピエロはあの彼のように普通の芸当よりも手品のほうが得意だった。もちろん彼とまではいかないが、並みの手品師や道化師よりはるかに優れた技だった。次々に繰り広げられる技に彼女はあっけにとられた。まさか自分の息子がこんなことに熱中していたとはちっとも知らなかった。それでもピエロの鮮やかな技が決まる度、彼女の口角は上がっていき、しまいには今にも折れそうなか細い手を思いっきり叩きながら笑顔で愛情と歓声を送っていた。目には生気が宿り、口元は力強く上を向いている。ピエロは感じた。母の笑顔を甦らすことができた、と。ピエロは意気込み、さらに芸を続けた。しかし、ある時から、ピエロは歓声が消えたことに気が付いた。ふと目をやると、彼女は息を引き取っていた。体を起こし、笑顔で、手を叩く形のままで。それでもピエロは最後まで芸をやり通し、はじめと同じように一礼をして、母を横たわらせた。その傍らに、あの国旗のネックレスを置いて。

 そしてピエロは家を出た。


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