音色と薔薇
引っ越しの日はすぐにやって来た。ピエロは小学校の友達にさよならを告げ、母とともに故郷を離れた。汽車の中ではリュックから思い出の品がつまった木箱を取り出し、友達と撮った何枚もの写真を眺めてしばらくの時間を過ごした。たくさんの写真に埋もれてはいたが、その箱にはあの国旗のネックレスもきちんとしまわれていた。汽車は汽笛を鳴らしながら山沿いを進み、谷を越えて草原を走り続けた。だんだんと民家が増えてきて、それからしばらくすると、もうすっかり街の中を走っていた。ピエロは口の中でキャラメルを転がしながらその変わり行く景色を楽しんだ。汽車から降りるとそこには、父がいた。今度は父が駅に来てくれたのだ。家族はお互いに抱き合い、これから一緒に暮らせることを心から喜びあった。父が着ていた服は前に会った時よりも上等になっていた事はピエロにも分かったが、それ以上に父の顔に刻まれた皺と、白髪が多くなったことが目についた。それでも父は去年と同じように、ピエロに同じことをして再会を喜んでくれたのだった。
新しい家はとても立派で、ピエロの部屋まであった。前の家と違って木のにおいはしなかったが、ピエロが走り回っても軋む床などどこにもなかった。母はというと、キッチンが狭くなったと文句を言っていたものの、オーブン付きの調理台を見た瞬間に目を輝かせながら夫にとびついた。そんな二人を見て父も満足げに真新しいソファに腰かけた。知らぬ間に成長し、元気に走り回る息子の姿を見ていた父は、いつの間にか自分の視界がぼやけている事に気がついた。それが嬉し涙なのか悔し涙なのか、拭ってみても、彼にはわからなかった。
父はまもなくして自ら会社をたてた。それもすぐに軌道にのり、一家はたちまち裕福になった。そのおかげでピエロは何不自由なく成長し、勉学に励んで一流の高校にもなんなく合格した。ただその頃になるとピエロも親に反抗するようになり、家にいることが少なくなった。そういう時は必ずあの路地へ行くのだった。ここへ引っ越して来てからも、学校の帰りがけに度々来ていた。学校の先生に行ってはいけないと言われても、ピエロはこっそり来ていた。
この路地を新品の服に身を包んでうろつくピエロは目立ってしょうがなかったし、周りの痩せこけた人々からじろじろ見られた。そんなピエロにいつも声をかけてくれる青年が一人いた。小学校の頃にピエロが出会った、同い年の友人だ。その青年もあの彼が好きだった。青年はいつも、路地に入って三つ目の角に置いてある錆びた青いドラム缶に座っていて、この日も一人でいた。
「おい、今日は来ると思うか?」
青年が言った。
「来てくれなきゃ困る。今日はもう、しばらく家に帰りたくないんだ」
ピエロはふてくされながらそう答えた。ピエロはこの頃ずっと同じことを言っている。青年が初めて彼の口から、家に帰りたくない、と言う言葉を聞いた時は、帰る家があって羨ましいと思ったが、今はピエロにもピエロなりの悩みや苦労があるのだと理解していた。例えそれが自分と逆の境遇から生まれるものであろうと、青年は理解するように心がけていた。もちろんピエロも同じだった。だから二人は逆の世界にいても、友人という同じ立場で生きていたのだ。
二人はしばらくお互いの愚痴や悩み、最近起こった出来事などを話しながら薄暗い路地をうろついた。ピエロは高校のテストで学年の一番になった事や、母と父がうるさい事を青年に話した。青年も新聞配りのバイトをしている最中に、悪態をついてきた男に蹴りを入れたら大事になったという事や、パチンコで路地の向こうに置いた空き瓶すべてに命中させることができた事を話した。そして、二人に共通していた話題は、これから先の事だった。ピエロは父の会社を継ぐことになるだろうが、ピエロはそれを快く思っていなかった。一方青年は十分な教育をこれまで受けることができなかったため、世間が羨むような職に就くことは難しいと思っていた。二人ともこれといった将来への目標や夢はなく、いつも通りの毎日を生きていくだけだった。
しかし今、いつの間にか一番星が輝きだしていたように、はたまた、真っ白だったはずの紙に、ふと落ちてきた絵の具が滲んでいくように、色のない一日を色づけるような音色が、どこからか二人の鼓膜に響いた。それは、二人が最近ずっと聞いていなかった音色で、ずっと聞きたかった音色だった。途端にピエロと青年は、音の鳴る方へ無我夢中で駆けていき、灰色の路地で鮮やかな芸当を繰り広げる彼を見つけた。しかし客の盛り上がり方や芸の内容から察するに、もう終盤のようだった。
「遅かったか。もう終わるな」
青年が近くにあった空き缶を蹴りながら言った。ピエロも小石を蹴りながら舌打ちをした。青年の言う通り、二、三分も経つと彼はいつものように、小さなトランクからあの前輪の大きな自転車を引っ張り出し、それにまたがった。その時、青年がピエロににやりとしながら言った。その目はまるで、簡単な獲物を狙う獣のようだった。
「なあ、ちょっと追いかけてみないか?あいつ、あんなへんてこな自転車に乗ってどこまで行くんだろう。な?行ってみようぜ」
ピエロは少しためらったが、このまま家に帰っても仕方がないので賛成した。
彼が乗る自転車は、そんなに速くはなかった。二人が軽く駆ければすぐに追いついただろう。しかし、それなのにどういう訳だか、彼が乗る自転車は少しずつ二人から離れていく。最後には路地に入って来た車が目の前を横切り、車が去った後には彼の姿もなかった。二人は同時に地団太を踏んで、つまらなそうに車の通った後を睨みつけた。
だが、いつの間にか輝きだした星も、一度紙に染み込んだ色も、突然に消えることはない。
「残念だったね」
急に後ろからそう言われ、二人はとび上がった。振り向くと、そこには一人の若い男性が立っていた。すらりとした長身を紺色のスーツがきっちりと包み、夕日のような赤毛がよく映えている。肌は死人のように青白いが、琥珀色の両眼には生気に満ちた光を爛爛と輝かせていた。
「誰だよ」
青年がポケットからパチンコを取って、足元の小石を拾いながら言った。それは一瞬だった。一方ピエロは警戒するその友人の陰に隠れながら、目の前の男性を注意深く観察していた。二人の鋭い視線を受けながらも、その男性は微笑みながら一歩前に出た。その瞬間、青年は思わず男性に向けてパチンコを放ってしまった。されど狙いは正確で、小石は一直線に男性の左目へと飛んだ。ピエロは思わず目をつむったが、男性のうめき声は全く聞こえなかった。恐る恐る目を開けると、男性は今までの微笑みを崩さずに、左目の前でこぶしを握っていた。小石はその手中にあった。
「私を探していたんじゃなかったのかい?」
男性は小石を片手で弄びながら近づいてきた。青年の腰は引けていたものの、大声を張り上げて言った。
「お前なんか知らねえよ」
さっさと消えねえと次は本当に小石をぶつけるぞ、と青年が言おうとした時、男性は小石を持ったまま、自分の口に人差し指を当てた。赤い前髪が垂れ、琥珀色の瞳を隠す。残された唇は不気味に微笑み続け、青年は思わず口をつぐんだ。すると男性はその手を前に突き出し、ふと、一輪の真っ赤な薔薇を出した。青年の目はその真っ赤な薔薇にくぎ付けになっていた。ピエロもそうだったが、すぐに視線を目の前の男性に戻した。赤い前髪の奥で琥珀色の瞳が笑っていた。ピエロは言った。
「そういう手品、教えてくれよ。あんた、路地で魔法みたいな手品やってるピエロだろ?」
彼は最初と何ら変わらない微笑みで答えた。
「私は魔法使いでも手品師でも、はたまたピエロでもない」
するとその彼は二人に向かって深々と一礼すると、強く吹いてきた秋風とともに消えてしまった。