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虎視と笑顔

 ピエロは今夜も泣いていた。

 夜も更けたというのに、灯りの一つ点いていない部屋は何があるのか、部屋があるのかさえ分からないほどだった。軋む廊下で足を止め、さび付いた扉の、それもそのちょうどその前で耳をひそめなければ、ピエロのすすり泣く声は誰にも聞こえない。もっとも、そのすすり泣きを耳にしても、扉を開ける者などはこの世に誰一人としていなかった。ピエロは孤独なのだ。埃まみれのベッドにはノミやダニがわき、毎晩の涙がシーツに汚らしくシミをつけていた。床には手つかずのリンゴや、わずかな食べ物がぽつりぽつりと転がり、倒れたコップから流れ出た水は、うける光もなく静かに床に染み込んでいった。ピエロはそれらになりたいと何度思ったことか。同時に、どうしてもそれができないことを恨めしく思っていた。そして左腕のない肩をさすりながら、過去における自らの過ちを悔やみ、嘆いた。窓から、欲しくもない金色の朝日が今日も差し込む。


 ずっと昔、まだ両の腕がある子どもだったある日、ピエロは母に連れられて街に出かけた。朝早くに家から小さな駅まで馬車を走らせ、そこから汽車に乗った。途中で母からもらったキャラメルを舐め、昼過ぎに街に着いた。そこで父は働いていたのだ。ピエロは母と一緒に父の働く会社まで歩いた。その会社は街でも有名な企業で、駅の近くに立派なビルを構えていた。そのロビーで、ピエロは久しぶりに父と再会した。田舎で畑仕事をしながら暮らす母とは違い、父は色白で痩せていた。一瞬、ピエロは父が病気なのではないかと思った。けれど父はピエロを抱くと、腕をいっぱいにあげて高い高いしてくれた。それから三人は家族そろって、遅めの昼食をとりにレストランへ出かけたのだ。


 ピエロがレストランに入るのはそれが初めてだった。いろんな人が席に着き、いろんなものを食べている。制服に身を包んだ人に食べたいものを言って少し待てば、その通りの料理が目の前に置かれる。ピエロは今までこんな場所があるなんて考えたこともなかった。最初は緊張していたピエロも、目の前に置かれたお子様ランチには素直に目を輝かせた。いや、お子様ランチの小さなオムライスに刺してある、小さな旗に目を輝かせた。そしてその旗を持って帰ってもいいと母に言われると、ピエロはテーブルの端に置いてあるペーパーナプキンで大事そうにそれを包み、ポケットにしまった。それからは久しぶりに家族そろってのご飯を堪能した。父の仕事は順調で、このままいけば近いうちに重役になれるだろうと彼は妻に話した。もちろん重役になればなるほど仕事の量は増える。この日も父は午後から会議があると言って、会計を済ませると駆け足で会社に戻ってしまった。次に父に会えるのがいつになるのかはわからない。


 父と別れると、ピエロと母は街を散策することにした。ガラス越しに見えるマネキンには立派な衣装が着せられており、それと同じくらい立派な衣装を着た人が、店の中で品定めをしていた。立ち並ぶ建物はどれも立派で、個性的だった。そのほとんどがピエロにとって初めてで、ピエロは母の腕を引っ張りながらどんどん街を進み続けた。ふと気が付くと、彼らは混雑した街の中心部から離れ、人の少ない場所に来ていた。そこは先程までの世界とはまるで違った。少し前までは、道端に人がうずくまっていたりはしなかった。少し前までは、家にはきちんとした扉が付いていた。少し前までは、こんな風にこもって鼻をつくような匂いもしなかった。全てが薄暗く、灰色に見えた。

「ここは違う街なの?」

 不安げに尋ねるピエロの頭を撫でながら、母は、同じ街よ、と答えた。ピエロはそれ以上何も聞かずに、入り組んだ灰色の路地を母と一緒に進んでいった。しばらく進むと子どもたちのにぎやかな声が聞こえてきた。


 声がする方に行くと、そこにはたくさんの子どもと何人かの大人がいた。集まっている人たちはみんな痩せていて、服も決して高価なものではなかった。けれどその人たちは、笑ったり驚いたりしながら目の前にいる色とりどりでおかしな格好の人物を見ていた。白地に水色のストライプが入った帽子、赤い髪。真っ白な顔には、髪と同じ色の丸い鼻とぷっくりとした唇があって、目の周りには花の絵が見えた。洋服は帽子と同じ柄で、先が上を向いて曲がっているへんてこりんな靴を履いていた。それからカセットテープで愉快な音楽を流し、それに合わせていろんな芸をする。たくさんのボールを二つの手で器用に操ったり、細長い風船でいろんな動物や草花を作って子ども達に配ったりしていた。


 ピエロは母の腕を引っ張り、彼の方へと足を速めた。たくさんの人でピエロは彼を見ることができなかったが、周りにいた大人たちが道を開けてピエロを前に行かせてくれた。間近で見る彼の芸は本当に素晴らしかった。しばらくの芸が続くと、突然彼がピエロに握手を求めてきた。ピエロは彼のふっくらとした白い手袋の上から握手を交わした。そして、彼が、もう片方の手の人差し指を、口元にたててにっこりと笑うと、握手をしていた方の手を放した。すると彼の手中には小さな国旗がいくつかあった。そしてその中の国旗には、さっきピエロがポケットにしまっていた国旗と全く同じものがあった。とっさにピエロがポケットから国旗を包んだはずのペーパーナプキンを出すと、その中には国旗の代わりに空気の入っていない緑色の風船があった。彼はそっとその風船を取り、一息で膨らまして輪っかを作った。それをピエロの首にかけると、ふっくらとしたその白い手袋をはめた手で、優しくピエロの両耳を塞ぎ、先程と同じ笑顔で笑った。その瞬間に風船は割れ、ピエロの首には今まで彼が握っていたはずの国旗でできたネックレスがかけられていた。


 ピエロは嬉しくて嬉しくて、思わず彼に抱き着いた。これには彼も驚いたが、自分のおなかに抱き着くピエロはそのままに、背筋を伸ばし、さらに両腕を揃えて前に伸ばした。それから両手の人差し指をたてると、顔の前から両手を離していった。そして、両腕を広げる形になった瞬間、一気にパチンと手を叩き合わせた。その音にびっくりしたピエロは、彼から離れた。振り向くと観客全員の首に色とりどりの花でできたネックレスがまかれていた。みんな驚き、割れんばかりの拍手を彼に送った。彼は優雅に一礼すると、前輪だけ大きな自転車を小さなトランクから引っ張り出して、それに乗ってどこかへ行ってしまった。彼の姿が見えなくなると、観客だった人々もばらばらと帰りはじめ、五分も経たないうちに他の路地のように寂しくて薄暗い場所になった。ピエロも母と一緒に帰路についた。

 帰りの汽車の中でピエロは自分の首から下げている国旗を順々に眺めながら母と何度も彼の事を話し、家に着くと暖炉の上にそれを飾ってもらった。


 それからちょうど一年後、父から一通の手紙がきた。

 内容は、仕事が順調に進み、都会でも家族全員で暮らせるくらいの家を借りれることになったので、すぐにこちらに越してきて一緒に暮らしたい、というものだった。この手紙に母は涙ながらに喜び、その日から引っ越しの準備を始めた。ピエロも父と再び暮らせるのが嬉しくて仕方がなかった。


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