アルバイター
わたしは大きな黒塗りの楽器ケースを背負って、ある場所を目指している。○○市○○〇町六丁目。大野さんが与えてくれた感情マーカーの示す経緯度は、おおざっぱにではあるが、こんなところである。
大通り沿いに北へと進んでいく。あたりはそれなりに人通りも多くて、商業ビルもちらほら。休日の昼下がりだから、親子連れもカップルもサラリーマンも浮浪者も、ありとあらゆる人間がわたしとすれ違う。サークルにも入らなかった大学一年生の日曜、恋人つなぎの同世代らしき二人を見かけて唇を尖らせ、しかしわたしは健気に歩き続ける。
今日で勤務一か月だが、というかわたしはアルバイトの立場ではあるのだが、もう既に悶々とした気分で業務に臨む日々を送っていた。
この仕事に携わるうち、いろいろ考えることはあったけれど。
雇用主はとにかく「半年間は辞めてくれるな」と強く言ってくる。それに、アルバイトにしては破格の賃金だ。そういうことも後押しして、なんとなくだらだらと続けそうな予感はしている。
おあつらえ向きな雑居ビルを見つけて、わたしはずかずかとそこへ乗り込んだ。すぐさまエレベーターへ向かい、五階へ。見当をつけていた辺りに、やはり女子トイレがある。ふふん、さすがわたし。トイレの場所を当てただけで鼻高々である。実際には、排気口の位置関係からなんとなく推測したら、まぐれで正解だっただけではあるが。
別にお花を摘みに来たのではないが、わたしはでっかいケースを引きずりこむようにして、最奥の個室へと入った。運よく、そこから開錠して窓を開けることに成功した。
「さて」
窓を開けると、いよいよ目標物が視認できる。道路の一角、電信柱の近くに十数人ばかりの人だかりができている。礼服を着ている人たちばかりだった。
そして彼らの足元にはたくさんの献花、食品や飲料物などが供えられている。
ほんの数日前、あの場所は悲劇の舞台となった。
わたしも詳しくは知らないけれど、被害者は高校生らしい。未来ある若者の死とあっては、残された者にとっては無類の悲愴に違いなかった。まったく無関係であるわたしすら、彼には追悼の意を示さなければ気が済まなかった。それほどに、現場一帯の憐憫たるオーラは、この場所からでも強く感ぜられたのだ。
これだから。
これだから、わたしはためらうのだ。悲劇が非日常的であるからこそ、わたしは悲しみを残酷なものだと捉えがちだ。そしてそれは間違っていないかもしれない。けれど、わたしはもっと重大なことに気がついてしまったのだ――悲劇から生まれた悲しみが、一瞬のうちに、まるで泡沫のようにはじけて消えてしまうことにこそ、真の恐ろしさが潜んでいるのだということに。
わたしは楽器ケースを開ける。こんなところで金管独奏を始めるつもりなど毛頭ない。中に入っているのは楽器ではなく、銃。
正確に言うと、ライフルタイプのエモーショナル・エクストラクタ。指向性で、銃口の先に百メートルの範囲を射程とする。この範囲内であれば、対象を一人に絞ることもできるし、集団からまとめて感情を抽出することができる。
米国製のM4カービンをモデルとしたそれは、銃身長も四十センチに満たず、女性にもそれなりに扱いやすいよう工夫が施されている。専用のメモリーチップを挿入し、グリップを握った。もう片方の手でハンドガードを支え、ストックを肩の付け根に当てる。あまり嬉しいものでもないけれど、そこらの一般人よりはよほど構え方を心得ているのだと思う。職業柄がこうでは仕方がない。
「……慣れてるなー、わたし」
一旦構えをやめて、わたしはため息をついた。こうやって正体の知れないおぞましさにビクビクしているうちは、まだマシなのかもしれない。戦場の兵士たちが最初の一人を殺すのと、百人目の敵を殺すとでは、その意味合いも大きく異なってくる。殺人が作業に変貌する瞬間。わたしもいずれは、その時を迎えることになるのだろう。
もう一度、正式な手順に倣った構えを取った。今度は銃口を、外の世界に向ける。
悲涙にくれる人々に向けて、わたしは静かに照準を合わせた。
引き金を引く。
「せめて銃声でもあれば、また違うのに」
エモーショナル・エクストラクタを下ろして、わたしは独り言をつぶやいた。誰が聴いている訳でもないのに。いやむしろ、自分に言い聞かせるための言葉だったのかもしれない。
メモリーチップを抜いて、わたしは元のようにエモーショナル・エクストラクタを楽器ケースの中に収納する。これで今日の仕事はほぼ終了。終わってしまえばあっけない。
トイレを出て、わたしは薄暗いビルの連絡通路で立ち止まる。塗装がはがれた壁はほとんどコンクリート打ちっぱなしと変わらない。やけに黄みをおびた蛍光灯が不規則に明滅するのが、どことなく不気味だ。
わたしはスマートフォンを取り出して、あらかじめ登録してある連絡先に発信する。
二回のコールで、彼は出た。
「おつかれさまです、大野さん」
『お、七海ちゃん。おつかれさん』
「どうも。それであの、十二名の『悲』感情抽出に成功しました」
『へぇ。もしかして例の交通事故? 確か、現場は七海ちゃんの住まっている辺りだったね。七海ちゃん、けっこうやり手だね』
どきりとした。
わたしは……やり手なのか。もう。
「ど、どうも……」
『ん? ずいぶんな釣果にしては元気がないね。まだ確認してないからはっきりとは言えないけど、それだけのデータなら万は下らないと思うよ』
「お金のことじゃなくて……いや、まあお金も関係あるんですけど」
『どうしたの。相談があるなら乗るけど』
「……上手く、言えないんですけど。やっぱりわたし、怖いんです。いくらこれが人を傷つける仕事ではないとしても、わたしはきっとそれ相応の悪事を働いている気がして」
わたしの仕事は盗人だ。
他人の感情を盗んで売りさばく。喜怒哀楽のすべてが、わたしのお金になる。
『気に病むことはないさ。法律はね、他人様の命と所有物は盗むなと言っている。だけど感情を盗んではならないなんて、どこを探してもそんなものは載っていないよ』
「でも、やっていることは同質のような」
『楽をしてお金を稼ぎたい、でも法にも裁かれたくない。そんな都合のいい手法があるとすれば、それは法を逸脱したところにしかありえないんだ』
大野さんは定められた台本を読むように、わたしを優しい口調で諭す。
『七海ちゃんはなにも心配することないよ。感情を奪ったとして、それで歴史が変わるかい? 記録が変わるかい? ぼくたちはただ、感情を抽出しているだけだ。きみがいつも送ってくれるメモリーチップだって、未来の技術に活用するために使われている。きみは社会に貢献しているんだ。だからなにも気に病むことはないさ』
わたしは黙りこくっていた。
しばらくして、
『話はそれだけかな。じゃあ僕はこれで切るから。例のもの、よろしく頼むよ』
ツー、ツー。わたしはスマートフォンを握っていた手をだらりと脱力させる。
「わたしは……」
わたしは。ひどくめまいがして、寄りかかった壁にすべてをゆだねる。自重でずるずると腰がおりてゆき、ぼすん、と尻もちをついた。
つらい。つらいが、こんな割のいい仕事を手放す勇気もない。この仕事のおかげで、わたしは自分の生活を維持できている。並のバイトでは、とても追いつけない。
どこまでもお金に貪欲な自分が恨めしく、ひどく嫌悪感が湧いた。今ごろあの人たちは、いったいどんな表情をしているのだろう。父親は。母親は。最愛の息子が不慮のうちに亡くなった事故現場を目の前にして。悲しみの在りかさえ見つけられないままに、理解できないままに、ただ、手を合わせているのだろうか。
わたしは歯噛みをした。前に進むことも、かといって交代することもできない。わたしは所詮、留まることしかできない。
――こんな感情、いっそのこと。
再びわたしは、楽器ケースに手を伸ばす。