ことの始まり二
そのうち日が暮れてふつは行灯を灯す。
弥次さんが茶漬けを食べようとすると、入り口に五十あまりの旅装束の侍が立っていた。
侍「突然だが、駿河の府中からやって来た弥次郎兵衛はここかね」
ふつ「はい、そうですが、どちら様で」
侍「いやいや、気になさるな」
そう言って、侍は上がり口に腰かける。その後ろには三十近い女性。何事かと、出てきた弥次さん、それを見て肝を潰す。
弥次「これは兵太左衛門さま。妹御をつれてどうして御出府なさいました」
普段のだらしない態度もどうしたのやら、えらく畏まって出迎える。
兵太「もっと愛想良く出迎えていいものを。妹を貴様のところに、嫁入りに連れていってやったのさ」
弥次「どういうことで、ございましょう」
兵太「説明しよう。貴様は国元で俺の妹のお蛸と関係があったそうだな。俺としては腹立しいが、たった一人の妹だ。好いたやつと添い遂げたいという願いを叶えてやろうと、わざわざ貴様のところに連れてきてやった。これからはこの妹を大切にしてやってくれ。まずは祝いの酒だ。さあさあ、はやく」
ふつ「おやおや、おめえさんはどなたか知らないが、とんでもない。大体男というものは本当らしく女に来世の約束までして騙すのが、女を落とす方法なんだから。それをまんまと信じて駿河からわざわざやって来るなんて馬鹿げたことですよ。また、妹さんも、妹さんね。私は仕方なしに添ってはいるが、全くもっていい男じゃない。色は黒くて目が三角で、口が大きくて髭だらけで、胸から腹には田虫ができて、足は年中湿疹で、それでまた寝息も臭くて……」
弥次「やいやい、こいつめが。亭主をさんざんに言っている」
ふつ「オホホホ、そのうえ女ったらしでどんな女でも放っておかない。きっと上手くいった人もいたでしょうが、いい男じゃないからね、あなた方のようにあとを追ってきた人は今までいませんことよ。この狭い家に女房が二人も三人もいたら、大家から床が抜けると追い出されてしまいますわ。今のうちに、はやくお帰りなさいな」
兵太「ええい、さっきからその女中はべらべらと良く喋るが一体なんなんだ」
弥次「はい、私、弥次郎兵衛の女房でございます」
兵太「なに、女房だと?見たくもない。これ、弥次郎兵衛、女房をもったのか。やれやれ、もういい、縄にかかれ。国へ連れて帰ろう」
そう言うと懐から縄を取り出して弥次さんにかけようとする。弥次さん慌てて立ち上がって食って掛かる。
弥次「なに?縄にかかれとはどういうことだ。俺が女房を持ったからって、捕まらなければならない道理はない。そんななまくら刀二本差してたって怖くはないぞ」
兵太「いやいや、お主、あまり横柄な態度をとるな。今度妹をつれてきたのは御家老の指図によってだぞ。訳を話してやろう。御家老の横須賀利金太様より、妹を貰いたいと言う話があった。この身にとっては過分の縁談、早速受けて結納まで進んだ。ところがこの妹が弥次と夫婦の契りを結んだから、例え親兄弟の指図でも他に縁付きたくないと。こっちは魂消たもんだ。あぁ、どうしようとその利金太様に使いを出した。妹めが弥次郎と密通してたのを知らずに結納までしてしまった。それなのに妹めは密通した男でないと添い遂げないと」
弥次「はぁ、そうですか」
兵太「先方にはこうなったら、妹めの首を差し出すといったんだが、もうお蛸を嫁に貰うと周りに言ってしまった、こっちにも世間体と言うものがある。女の首ひとつ貰っても仕方ないと言われた。そういうわけで、俺も妹も討ち果たしを覚悟した。ところが家老中より双方を召され、殿に年来仕えて人を私怨で討ち果たすとは殿に不忠だ。それに妹が兄に隠して夫を持ったのだ。兄の不届きとはいえまい。まだ婚礼もしていない、一人の男を大切にする妹の貞節に免じて許してやれ。との御意、有難く受けてここまで来たのだ。ここでその男に女房がいたとすごすご妹を連れと国に帰っては、武士兵五左衛門の面が立たない。嫌と言うなら縄をつけてでも国に連れ帰る。さぁ、諦めて縄にかかるのだ」
弥次「はぁ、事情はよくわかりました。しかしそれは、貴方様の勝手な話。この身が三枚におろされようが、切り刻まれて塩辛になろうとも、我を大切にしともに辛酸を舐めてきた女房は捨てられない。仕方ない。どうとでもして下さい」
弥次さん、覚悟して縄にかかろうと両手を後ろに回す。兵五左衛門が後ろに立って縛ろうとすると、おふつが止めにはいろうと、兵五左衛門(兵太左衛門?)に縋り付く。
ふつ「もしもし、お侍様。お話を伺いましたところ、おっしゃることは御もっとも。それでも今夫めが縄にかかり、道中恥を晒し、お国でももしも命に関わることがあっては、私は悲しい。お前さんの言うことには、たとえこの身はどうなってもともに辛酸を舐めてきた女房は捨てられない。そう言ってもらえたら、私は満足。もう何言いませぬ。私にお暇をください。あの妹御が駿河にいるときからの仲と言うなら私より先のこと、添うというのも無理はない。もし、私に暇を下さらずお侍様の手にかかって死ぬと言うなら、まず私が先に死にます」
というと、おふつは泣く泣く台所から包丁を持ってくる。弥次さん、慌てておふつをおさえる。
弥次「こりゃこりゃ、何をする馬鹿者めが」
ふつ「いえいえ、それでも、私は……」
弥次「はてさて、それほどまで思いつめたことなら仕方ない。ちょっとの間、暇を取って、親元にでも行っていてくれ。大事の女房を捨てるなど夢にも思わなかった。儚い別れをするのもみんな俺が悪い」
さすがの弥次さんも女房が可哀想になり、隅へ連れて行きいろいろ宥めすかし言い含め、硯箱を取り出して三行半(離縁状)を書いてやる。貧乏人の気安さ、着のみ着たまま、櫛箱と風呂敷一つ掴んでおふつは泣きながらしおしおと出ていった。