雪の日
試験明けの午後は眠い。疲労感と充実感の中で、私はとろりと溶けていく。昨夜必死に暗記した数式も、私の中から溢れていく。曇った窓を挟んで、ちらりと白い光が見えた。ふわふわと重力を感じさせないそれは、けれど確実に降下していく。
綿菓子みたいだ、と思う。誘われるように窓を開けたとたん、肌を切られるような痛みを感じた。窓枠を持つ指が震える。
「そう甘いものじゃないか」
呟いた声が水分を含んで、少しだけ白く残る。声が具現化したみたいでおもしろかった。幼いころ、冬の始まりの合図は白い息だった。
私の家はマンションの九階に位置しているので、地面を歩く人はミニチュア人形みたいに見えた。傘をさして歩く大人たちの中で、ブランコに一人で揺られている子供がひどく目立つ。そういえば私はいつから雪の日に傘をさすようになったんだろう。雪が降ったら嬉しくてはしゃぎまわっていたはずなのに、いつの間にかそれを避けるようになっていた。
五分ほどぼんやりとしていたのだけれど、さすがに身体も冷えてきたので、窓を閉めてそのままベッドへ倒れこんだ。スプリングが少しだけ弾んで鈍い音を生む。
後期試験が終わった。明日からは長い春休みに入る。当分大学に足を運ぶこともない。
ベッドにうつ伏せた状態のまま右手を鞄に伸ばして、黒色に鈍く光る携帯電話を取り出す。メール着信を知らせるグリーンのランプが規則的に点滅していた。液晶には二文字が表示されている。この文字を目にするたび、嬉しい気持ちとともに得体のしれないもやもやとした恐怖を覚えるのが不思議だった。人差し指が震えた。
メールの内容を確認すると、ふっと肩の力が抜けたのがわかった。緊張していたのか、と苦笑する。
アドレス帳を呼び出して、通話ボタンを押す。もう手は震えていない。何を怖がっていたのだろう。あいつ相手に緊張するなんて莫迦げている。
「もしもし、京一? メール見たよ」
私はベッドから起き上がって縁に腰かけ、もう一度窓の外を見る。ここから自転車で十分のところに母校がある。
『ども。バスケしません?』
低いハスキーな声は相変わらずだったが、少し息があがっている。
「私テスト明けで睡眠不足なんだよね……京一、今練習中なの?」
『五対五やりたいんすけど、人数足らないんで及川さん来ねえかなと思って』
京一は高校二年生で、私の後輩だ。2年前の春、ひょろりと長身の男が体育館に現れた。こんな人学校にいたかな、と思っていたら、話をきくと1か月前まで中学生だったというのだからすごく驚いたのを覚えている。大人っぽい外見とは裏腹に、年相応の子供っぽさを併せ持つ、不思議な男だった。
「私もバスケはしたいよ。でもそれと同じくらい眠い。というかそもそも私は女子だし」
『眠いとか言い訳? 現役時代は男子と一緒にやってたじゃないっすか、男子も女子も部員不足だし。隆も来いっつってるし、来てくださいよ』
隆というのは私の弟で、京一の同級生だ。彼同様、バスケットボール部に所属している。
「んー……。そうだね。最近顔出してなかったしね。……可愛い後輩にも会いたいし」
『俺は別に会いたくないですけどね。で、来るの、来ないの?』
「なにその言い方。じゃあ電話するな」
『だから数合わせだって。及川さん相変わらずうぜー』
「あのねぇ……先輩にうざいはないでしょう。15分後、覚えておくように」
そう言って電話を切ろうとしたとき、京一がポツリとつぶやく。
『ゆき……』
「ん?」
『雪、降ってますね』
リビングで読書していた母親に出かけることを伝え、靴を履いて玄関を出る。
相変わらずの白い世界。息を吐く。白い。
今日は傘はいらない。かさついた左手の中で、自転車の鍵をくるりと回した。チリンと鈴の音が響いた。
「なんで姉貴がいんの」
体育館に現れた私を見て、弟は開口一番に不満そうな声を漏らした。
「京一に呼ばれた。……聞いてない?」
「まったく」
手前のコートではスリーオンスリーが始まっている。京一が話していたように人数不足のようで、男女部員合同で練習に取り組んでいた。シューズと床が擦れてキュッキュと鳴らす音が心地よい。
高い天井から吊るされた防球ネットで仕切られた奥には、女子バレーボール部が活動をしている。
これこそ部活だ、青春だ。まるで高校時代に戻ったような光景で、わくわくする。
「隆。ほら、ストレッチ」
床にぺたりと座って前屈を始める。背中押して、と弟に催促すると、聞えよがしなため息が漏れる。しぶしぶ私の背中を押し始めたのだが、姉弟がゆえに遠慮はない。痛いぐらいにぎゅうぎゅう押されてしまう。
コート内外からは指示や声援が響いている。しかし、ボールのバウンド音はそれに掻き消されることもなく空気を振動させて、心臓にドシンと響く。集団から一つ頭の飛び出した長身の男にパスが回されると、そこからは一瞬だった。ディフェンダーをフェイントで抜き、ゴールに背を向けた状態からくるりと振り向きざまにジャンプシュート。ボールはきれいな弧を描いて、ゴールネットに吸い込まれる。ナイッシュー、と声が響く。
「姉貴試験終わったばっかじゃん。ほんと暇人だな」
はい終わり、と最後にひと押しすると、隆は私の隣に腰を下ろして胡坐をかいた。床に転がっていたボールを右手で手繰りよせて、地球儀のようにくるくると操っている。
すると、先ほどジャンプシュートを決めた男が、流れる汗を滴らせてずかずかと大股で近づいてきた。隆のボールをひょいと取り上げる。
「サボんなよ、隆」
「ほーい」
弟はすっくと立ち上がると、男に手渡された蛍光色のビブスを身に着け、コートの中に消えた。
「京一、調子いいね」
男は隆と代わって私の隣に腰をおろした。流れ落ちる汗が少し長めの黒髪をぬらしている。
「……別に」
コートに視線を向けたまま、京一は言う。先ほど私を呼び出した電話の主だ。スポーツタオルで額の汗を拭う。
「試験は?」
「ま、どうにかなったかな。明日から春休みなんだ、羨ましいでしょ」
私はけらけらと笑って、先ほど隆が遊んでいたボールを手にとった。ざらざらした皮の感触を確かめてから、小さくバウンドさせる。
由希子さんだ、と名前を呼ばれて振り向くと、左手にノート、右手にボールを抱えた小柄な少女が立っていた。マネージャーの小野加南子だ。オーバーサイズのジャージがよく似合っている。
「ちび加南子じゃないの。お疲れさま」
からかいの声をかけると、ムッと頬を膨らませるのがかわいい。
「あ、聞いてください! 私身長0.5センチ伸びてたんです。成長期突入ですよ!」
瞳を輝かせて語る彼女の頭にポン、と手を置いて、「よかったね、いやぁよかったよかった」と笑う。
「由希子さん……バカにしてますー? 隆くんにもいつもチビ呼ばわりされるんですよ」
気のせいだよ、と笑って、隣の男を見る。私たちの会話には全く興味がないようで、じっとコートに視線を注いでいる。彫の深い顔立ちで、どこか日本人離れしている。
「このでかいのに比べりゃ私もチビよ」と京一の肩を小突くと、あからさまに嫌そうな顔をする。
「アンタが小さいだけだろう。そもそも女だし」
確かにそうだ、と加南子が笑う。
「京一、もうちょい先輩を敬いなさい。加南子ちゃんも罰としていつもの持ってきて」
加南子はくすくすと笑いながらレモネードをコップに注ぎ、どうぞと私に手渡した。ひんやりと冷たくて、すっきりとした甘さがおいしい。
しかし体育館は思いのほか冷える。コップが空になったとき、身体がぶるりと震えた。
「先輩、勝負しますか」
にやりと口元をゆがめて、京一が私を見た。
※
雪はすっかり止んでいた。部室の鍵をしめて、ぞろぞろと駐輪場へ向かう。足を踏み出すたびに、ぬかるんだ土がぺちゃぺちゃと音を立てた。部室棟に隣接したグラウンドでは、サッカー部の活動が続いており、ときおりキャプテンのものと思わしき声が響いている。
「俺ココアがいいっす!」
後輩の石田の声をきっかけに、コーヒーや紅茶の注文が飛ぶ。
「きみらに遠慮ってもんはないの」
半笑いで呟くと、「由希子さんが優しいってこと、みんな知ってますもん」と加南子のフォローが聞こえたと思ったら、「勝負事に先輩後輩は関係ないっすよ」と私を負かした張本人の声が続く。
「まぁいいけどね。京一は何がいいの?」
「アンタと同じのでいいよ。でも勝ったのは俺じゃん? なんで他の奴らにも奢るの」
不満そうに声を上げる。こんな姿を見ると、やっぱりまだ子どもっぽい。
「なんで笑ってんだよ」
「べっつにー?」
言って、自動販売機に紙幣を入れる。
ホットココア、ホットコーヒーに炭酸飲料、スポーツドリンク。
ガラガラと音を立てて取り出し口に落ちてくる缶やペットボトルを、後輩たちに手渡していく。
「さすが大学生はリッチですねー」
「まぁ、バイトしてるしね。そんなに余裕はないけど」
「ありがとうございます。生き返りました!」
大げさに礼を言う後輩たちを見送る。
自販機の前には、加南子、隆、京一と私が残った。
「俺もいいの?」
遠慮がちに隆が言う。こういうときはまじめな弟だ。
「いいよ、好きなの選んで」
じゃあ、と隆はホットコーヒーのボタンを押した。
「由希子さん、私は遠慮します」
そう言って小さく振った加南子の手は真っ赤に染まっている。手袋もつけていないし、きっと寒いはずだ。
「いいよいいよ、一緒にあったかいの飲もうよ」
「大丈夫です! 由希子さんに会えて元気出ましたから。……では、失礼します!」
加南子は隆の手をとって、私に何も言う隙を与えずに駆け出していってしまった。
「みんな行っちゃったね」
私は京一と二人、取り残されてしまった。
辺りはすでに真っ暗で、自販機の光がぼんやりと周囲を照らしている。
「……何飲むの?」
京一はそう問いかけると、なぜか自らの財布から五百円硬貨を取り出した。
「何してるの?」
勝負には京一が勝った。だから私が飲み物をご馳走する。そういう約束のはずだ。
「ジュース買うんだよ、先輩の」
「どうして?」
「俺が買いたいから」
「なんで?」
「質問ばっかだな。いいんだよ、俺が先輩のを買いたいの」
言って、彼は硬貨を自販機に投入した。
そして視線を私に向ける。
まっすぐに、私を見る。
私は、それに捕まる。
何も言えなくなる。動くことすらできなくなる。
こくりと唾を飲み込んで、そのタイミングで視線を逸らした。
京一と二人きりになるのは苦手だった。
これまで何度か同じことが起こった。
私は京一に見つめられると、身体が思うように動かなくなってしまうのだ。
「コーヒーでいい? 雪、降ってたし……寒いだろ」
そしてこういうときはいつも京一から口を開く。
まるで何事もなかったかのように、普段通りに会話を始める。
「うん、ありがとう」
ほっとして、いつものように言葉を続ける。
「京一って優しいね、学校でもモテるでしょう」
そこで私は安心するのだけれど、今回は、違った。
「なんで先輩って、いつも俺の目を逸らすの」
「……え?」
予想外の言葉に、面食らう。
「……どういう、意味」
「言葉通りだけど」
そう言って京一は私を見る。
私は彼の言葉に閉じ込められる。
どうしよう。
鼓動が速くなる。
何か、言わなければ。
どきどきして、何も考えられなくなって。
自分でも、どうして京一の視線が怖いかがわからない。
京一の顔を見ていられなくなって、視線を地面に向ける。
ぬかるんだ土に、スニーカーが柔らかく沈む。
……私は逃げていたんだ。考えることから。
「雪……」
京一の声で顔をあげる。
「止んだんですね、雪」
彼は顔をあげて、暗くなった空を見上げていた。呼吸するたびに白い息が浮かぶ。
私は頷いて、「京一は雪が好きなんだね」と言った。
「好きだよ」
ああ、まただ。
京一の目が私を捉える。
「……こんな日は、先輩の名前を口に出しても変じゃないだろ」
私は彼に捕まって動けない。
「好きだ、由希子さん」
2013.3.25 少し気になる点があったので改稿いたしました。
2013.4.4 加南子視点のサイドストーリー『涙の日』を投稿しました。