前編
初めまして。
拙いお話ですが読んで頂ければ幸せです。
マーガレットにとって王子様と言えばずっと四才年上の兄のアレックスのことである。
二人の父は伯爵としていつも忙しくしていたし母も出かけることが多かった。
マーガレットが物心つく頃には兄といることが多くなっていたのも仕方ないだろう。
アレックスは時に保護者であり、また時には友達でもあった。
マーガレットが二人でした一番楽しかった遊びは物語を演じることだ。
お気に入りの絵本や時には自分で作ったお話の登場人物に成りきって遊ぶ。
当然、彼女はお姫様。アレックスは恥ずかし気に顔を赤らめながらも王子役をしてくれたものだ。
真っ直ぐの明るい金髪を風で揺らしながら、涼しげなエメラルドブルーの瞳でマーガレットを見つめ、柔らかく微笑むアレックスは正に理想の王子様だった。
兄の姿にうっとりしながら彼女は決めていた。
(いつかこの王子様と結婚するんだ。)
まあその夢は、成長するにつれて消えてしまったのだけど。
だがアレックスが彼女の王子様だということは、もうすぐ十四になろうとする今でも変わらないままだった。
そう、アレックスがいなくなった今でも。
*
鏡を覗くと、きつめの癖毛が目立つ白く見える金髪と地味なダークグリーンの瞳、低い上に小さな鼻の女の子が映っている。
マーガレットは少しだけがっかりした。アレックスと比べると平凡な顔だが紛れもない自分の顔だ。
だが彼女はいつも鏡の中に美しい少女がいることを期待してしまう。
実際は当たり前だが昨日と同じ自分の顔がある。
(ある日突然、サラサラと背中に流れるように降りた金髪に変わってお兄様みたいな澄みきったエメラルドブルーの瞳になるの。それから桜色に染まった頬と摘みたての苺のような瑞々しい唇をした妖精のような美少女になれたらいいのに・・・。)
そんなことは現実には起こらない。
だけど頭の中では可能だ。だから空想はやめられない。
空想の中だったら、理想のヒロインにもなれるのだから。
それから彼女は自分の癖毛を見た。
鏡の中の白いふわふわの髪の毛をじっと見ていると別の生き物に見えてくる。
「・・わたしって犬みたいに見える?」
「えっ。」
思わず出たマーガレットの呟きにメイドのマリアが振り向いた。
「なんでもないわ。」
マーガレットは慌てて鏡の前から離れてソファーに座り、マリアが入れてくれたお茶を飲む。
鏡を見てるとふいに今みたいに思い出してしまうのだ。彼女に『ベス』と話しかけるブラウンの瞳を揺らして笑った・・・顔。
マーガレットは気付かぬ内に眉間に皺を寄せていくのだった。
マリアはそっとマーガレットの様子を伺う。
彼女はカップを手にしたまま何かを考えているようでお茶を飲む気配はない。マリアの視線にも気付きそうもなかった。
マーガレットがぼうっとしたまま何もせず考え事をすることはよくあることなので驚きはしない。
確かに行儀がいいことだとは言えないがメイドの自分と二人しかいないので特にひどいとも思わなかった。
それにそんな時のマーガレットは瞳が輝いていることが多く、時には頬を薄くピンク色に染めて微笑んでいることもある。
そんな彼女は本当に可愛らしくマリアは密かに後二・三年もすればお嬢様は美しいレディになるわと親しいメイド仲間と話していた。
そしてしっかり聞こえていた先程のマーガレットの言葉を考える。
成る程彼女の姿は小さな可愛い小型犬に見えなくもない。
あくまでも、マーガレットの白く輝くふわふわの髪の毛がそう見せているような気がするだけなのだが・・・。
そんな後ろ姿の彼女も愛嬌があってマリアには愛しかった。勿論本人には絶対に言えないことだが。
マリアが心の中だけでこっそり思ってるだけのこと。
それにしても、最近のマーガレットは考え事をしていても輝いていない。
何故だろうとマリアは不思議に思っていた。
マリアはマーガレットより一才年上のメイドだ。年が近いのでメイドと言うより友達や姉のように感じる時もある。
彼女はマーガレットの話す異国の王子と王女の物語や姫と騎士のおとぎ話を笑ったりせずに聞いてくれる。そして一緒に胸をときめかせてくれる、言わば大事な同士だ。
マリアは兄のアレックスと入れ違うように館にやって来た。
彼女がいたからマーガレットは兄の不在に耐えられたのかもしれない。
マーガレットにとって、とても頼りになる大切な人には違いない。
だけどそのマリアにだって理解してもらえないことだってある。
例えば今のマーガレットの気持ちだ。
「はあ・・・。」
マーガレットはとうとう大きなため息をついた。
お茶はとっくに冷めきっている。
「お嬢様、どうされたのですか。今日はアレックス様がお帰りになりますのに。」
マリアが冷めたお茶を温かいものに代えながら聞いてきた。
だがマーガレットはその一言に目に見えてびくついた。
アレックスは二年前から王都にある寄宿学校に入っている。
マーガレット達の住むウィリンガム王国では良家の男子は年頃になるとこの学校へ入学するのが普通だった。
兄が館を発つ時はかなり寂しかったのだが学期の間にある長期休暇には必ず戻ってきてくれていたので、マーガレットはそれをとても楽しみにしていた。―――はずなのだ、この間までは・・・。
「ねえ、マリア。お兄様はお一人なの?」
「いえ。確かご友人がご一緒と伺っています。」
「・・・何方かしら。」
マーガレットはおそるおそる聞いてみた。
「春の休暇の時もご滞在された方です。お名前は・・・」
「レイモンド様ね・・・」
そう、その方ですと満面の笑みを浮かべるマリアとは対象的にマーガレットはむっつりと不機嫌な顔になった。
「楽しみですわね、お嬢様。アレックス様とレイモンド様、お二人とも素敵な方々ですもの。」
マリアの瞳は喜びで輝いている。彼女もアレックスの帰宅を心待ちにしていた。二年前に初めて休暇で帰郷したアレックスを見てから憧れているのだ。
この館には主である伯爵と奥方、マーガレットの他には使用人しかいない。しかも若くて麗しい男性は皆無だったのでメイド達も皆浮き足立っていた。
浮かれているマリアをよそにマーガレットはどんどん無口になっていく。春以前の休暇だったらマーガレットだってマリアと一緒に喜んでいた。
もしかしたらお得意の物語だって兄をモデルに新しいのを披露してたかもしれない。
だけど今回は、正確には前回もだけど、もう一人いるじゃないか。マーガレットは兄の帰宅をあまり喜んでいなかった。
(・・・また来るんだ、あの人。)
マーガレットの憂鬱の原因、それはアレックスと共にやって来る兄の友人レイモンドだった。
*
マーガレットとレイモンドは数ヶ月前の春の休暇の時初めて会った。
彼は艶やかな黒髪に意志が強そうなブラウンの瞳が印象的な青年で落ち着いてはいるけれど華やかな金髪のアレックスとは対象的な姿をしていた。
レイモンドはアレックスと楽しげに微笑を浮かべて話していた。
そんな彼を見た時マーガレットは心臓の鼓動が早まるのを感じていた。アレックスとはまた違う惹かれる笑顔だった。
幼い頃から同世代はおろか兄の友達とも接したことがなかったので彼女はひどく緊張していた。
アレックスに促されてレイモンドの前に立った時には彼の顔など見ることができなかった。マーガレットは震える声で精一杯挨拶をした。
「・・初めまして、い、妹のマーガレットと申します。・・・ようこそお越し下さいました。」
腰を追ってお辞儀までなんとか出来た時、彼女は嬉しくて思わずレイモンドを見上げた。
しかしレイモンドは一瞬驚いたような目をしてマーガレットを見た後、いきなり大きく吹き出したのだった。
「アレックス〜、この子がお前の自慢の天使なの?」
「そ、そうだけど、レイ。マーガレットがびっくりしてるじゃないか。ここでそんな話やめてくれないか。それに笑うなんてひどいだろ。」
アレックスが顔を赤くして抗議をするが彼の笑い声は止まらなかった。
「天使と言うより、くっくっ、『ベス』だよ。そっくりだよ。俺達の可愛いあいつに。」
そして、呆気にとられて固まっているマーガレットの頭をがしがしと乱暴に撫で回した。
「なあ、アル。」
レイモンドはアレックスの方を見てにやりと笑った。
その笑顔は最初にアレックスと話しながら見せていたものとは違い、幼い少年のような人懐こいものだった。
「いい加減にしろっ、レイモンド。マーガレットから手を離せ。」
アレックスの声を軽く無視し更に続ける。
「でもさ、俺、アルの妹ならどんな美人かと思っ」
さすがにそこで慌てた兄に口を塞がれ黙ったがマーガレットにはしっかり聞こえていた。
彼女は黙っていられなかった。なんて失礼な人なんだろう。
「・・・教えて下さい、『ベス』って誰ですか?」
レイモンドに髪の毛をぐちゃぐちゃにされ、うつ向いて怒りの為震えるマーガレットがそう訪ねた時、二人は青ざめて顔を見合せた。
「ベスはね、実は犬なんだ。」
アレックスがレイモンドに代わり彼女に説明する。少し気まずげに言い淀んでいたがマーガレットの肩を抱いて続けた。
「僕らの住む寮に時々迷い込んで来て、レイモンドは特に可愛がっているんだ。・・あぁ・メグ、そんな顔しないで。本当にすごく可愛いんだよベスは・・。僕も大好きで・・」
兄は彼女を愛称で呼んで抱き締めたが、マーガレットにはアレックスの声も聞こえなくなっていた。
十三才の少女にとって、犬と似てると笑われてはショックの方が大きかったのだ。
最悪の初対面のせいでマーガレットはレイモンドに懐くことはなかったが、彼の方は気にならなかったらしく彼女を見掛けるたびに声をかけてきた。
そして「ベス」と笑顔で言いながら頭を撫でて行く。マーガレットが嫌がっていることには気付いていない。
アレックスの横には必ず彼がいるので彼女は兄の側にも行けなかった。
マーガレットの住む館は彼女の父の伯爵が所有する王都からは離れたのどかな田園地帯の領地にある。
王都育ちのレイモンドは田舎の暮らしが珍しく楽しいものだったようだ。アレックスと毎日のように外で子供のように遊んでいた。
マーガレットは楽しみにしていた休暇なのに兄を取られた気がして寂しかった。
だから二人が学校に戻るという日にとうとう爆発してしまったのだ。
その日、マーガレットは兄とレイモンドを見送る為彼らと館の前庭まで出ていた。
彼女にとっては散々な日々だったが兄と別れるのは辛く名残惜しげに長い間アレックスに抱きついていたのかもしれない。
しばらくするとレイモンドが苛立つように言うのが聞こえてきた。
「ベス、もういいだろう。」
そしてマーガレットをアレックスから強引に引き剥がした後いつものように彼女の髪の毛をぐちゃぐちゃにした。
マーガレットはカッとなって彼を見上げた。レイモンドは笑ってこちらを見ている。
その時マーガレットの中で溜まっていた不満が怒りとなって弾けた。
「ひどいわ。何の権利があってお兄様から引き離すの?あなたのせいでわたしはお兄様とあまり話せてないのに。・・またしばらく会えないのに・・。そっ、それにわたしの名前は『ベス』じゃないっ。あなたなんて・・・あなたなんて大嫌い!もうわたしの前に現れないで。」
真っ赤な顔で一気に叫んだマーガレットにレイモンドは言い返しはしなかった。
彼の笑顔だった表情が静かに変わっていくのをマーガレットは不思議な気持ちで見ていた。
レイモンドはうつ向くように下を向いた後、一瞬彼女の方を見て
「悪かった。」
とだけ言った。
その後、学校まで送る為に用意された馬車にアレックスを置いてさっさと乗ってしまった。そして二度とこちらの方を見ることはなかった。
彼が一瞬だけ見せた顔、休暇中には一度も見たことがない顔。
それはひどく傷ついたような目をしていて・・、マーガレットにはまるで彼女を責めているように見えてしまっていた。
(わたしの方が傷ついたわ。)
マーガレットは手近にあったクッションを両手で掴むと胸の前でぎゅっと抱き締め顔を埋める。
彼のことを考えると、とても嫌な気持ちになってしまう。
(大嫌いよ。あんな人。)
(だけど・・・)
不意にマーガレットは顔を上げた。
どうして、レイモンドはまた来るのだろう。彼だって嫌な思いをしたはずなのに。
マーガレットは彼の歪んだ口元を思い出す。
彼女の言葉に翳った瞳を。
気まずい最悪な別れ方だったのだ、彼にとっても。
彼女にはレイモンドの気持ちが理解できなかった。
*
「お帰りなさい、お兄様。」
マーガレットはアレックスの胸に飛び込んだ。
「ただいま、メグ。」
アレックスは優しく彼女を抱き締めてくれる。
マーガレットは兄を実感して嬉しくなってきた。
昼を少し過ぎた頃、アレックスは館に帰ってきた。
彼は道中の疲れも感じさせないほど爽やかで、兄の帰宅を歓迎して館は一気に華やぐ。マーガレットも朝から悩んでいたことなどすっかり忘れてしまっていた。
アレックスは彼女の頬に優しくキスをしてくれる。
マーガレットはこの瞬間が大好きだ。だって王子様が姫にしてくれてるんだから。それは彼女の心の中だけの秘密だけど。
その時、マーガレットの瞳にアレックスの後ろに動く人影が見えた。
「メグ、レイモンドだよ。覚えているだろう。」
アレックスが気がついてマーガレットから手を離す。
兄の影からレイモンドが黙って姿を現した。
彼女は思い出していた。
(そうだ。この人もいたんだった。)
「彼をまた招待したんだ。ほらっ、レイ。こっちに来て。」
レイモンドは渋々といった様子でマーガレットの前に来る。
そして小さな声で
「よろしく。」
と言った。
マーガレットは驚きで何も言えなかった。
レイモンドは感じが変わっていた。艶のある黒髪は春よりも少し伸びていて特に前髪が伸びていた。その為、意外と綺麗なブラウンの瞳が隠れて見えない。
だが彼の表情も隠しているので少年のような感じが消え大人びた雰囲気を出していた。
マーガレットが何も言わないのでレイモンドは横を向く。彼の綺麗に通った鼻筋と形良く閉じた唇が見えた。彼女は始めて彼の顔をまともに見たのかもしれない。
咳払いが聞こえて彼女は我に帰った。彼の顔はうっすら赤らんでいる。随分不躾な視線だったらしい。
マーガレットは急に恥ずかしくなった。
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
彼女は慌てて挨拶をしたが自分がとても礼儀知らずに思えて声は小さくなった。
レイモンドはマーガレットの方を見ない。
それが余計に嫌な感じがした。彼女はやっぱり彼が嫌いだと強く思った。
*
館では二人の客人を招いて遅い昼食会が開かれた。
いつもは家族が揃うことの方が珍しいのだが今日は父と母もいる。
マーガレット一人を除いて和やかな会話は進んでいた。
父の伯爵はアレックスの成長を喜び、母の伯爵夫人もアレックスとレイモンドの学校での生活を興味深く聞いている。
そんな中マーガレットは疎外感を感じていた。彼女は会話の中から弾かれている。
いつものことだけど面白くない。
原因はレイモンドだ。
彼はマーガレットの前と同じ人物とは思えない。
伯爵夫妻と穏やかに談笑していた。
その姿はマーガレットを犬の名前で呼び、笑い者にした失礼な人には見えない。
だが、そこで彼女はあることに気付いた。
(レイモンドはわたしには笑いかけていない。)
笑顔どころか、視線すら合わせていないことに。
*
昼食の後マーガレットは一人庭園にいた。彼女が目指すのは庭を抜けた奥にある林だ。
夏の午後は日差しがきつい。帽子を被らずに出たことを後悔したが部屋に戻る気にはならなかった。
部屋にはマリアがいる。彼女と話をするのも今はなんだか憂鬱だ。彼女はアレックスと彼のことを聞くだろうから。
そんな気力は今のマーガレットにはなかった。
額に汗が浮いてきた。
マーガレットはそれを手の甲で拭いどんどん進む。その足取りに迷いはない。 林に入るとすぐに小さな小屋が見えてきた。
マーガレットは小屋の木の扉を開けて中に入る。中には誰もいない。
彼女はふうっと息を吐いた。
ここは近くの農夫達が普段使わない農作業の道具を閉まっている所だ。収穫期ぐらいしか彼らもここには来ないのでマーガレットはこっそり自分のお城にしていた。
もちろん館の人間は誰も来ない。ただ一人マリアには見つかってしまってるが、彼女はマーガレットがよっぽど遅くならない限り捜しには来なかった。
この小屋は林の中にあるので夏場は涼しくていい。
彼女はお気に入りの本や人形を持ち込んでここで空想遊びを楽しんでいた。
マーガレットは小屋の中にある、木で出来た道具箱に隠してあった古い本を取り出した。
それは幼い頃に母から貰った彼女の一番大好きな絵本だ。ページを捲りながら道具箱に腰掛ける。そしてあるページで手を止めた。
絵本には姫君と騎士が描かれていた。
柔らかそうな長い髪の美しい姫君が優雅に微笑んで立っている。
姫君の前には凛々しく麗しい騎士が跪いている。
騎士は姫君の手を恭しく取り、その甲に優しく口付けていた。
マーガレットは絵本を開いたまま目を閉じた。
これは彼女の最も憧れている場面だ。
彼女はいつかこの姫君のように騎士に跪かれてみたいと絵本を手にした頃からよく夢見ていた。
この絵を見ているとどんな時でも幸せな気分になれる。
だが今日のマーガレットはお気に入りの絵本を見ても心がときめくことはなかった。彼女は諦めたように本を片付ける。
こんなことは始めてだった。
空想の世界に入っていけないなんて彼女は経験したことがない。
とても心細い気がする。まるで一人ぼっちになってしまったみたいに。
「もう館に戻らなきゃ。マリアが心配してるかも。」
マーガレットはなんとなく声を出してみた。
なんだか本当に彼女を捜すマリアが目に浮かぶようだ。少し元気も出てきた気がする。
扉を開けて外へ出ると、まだ太陽は高い位置にあるようだった。
思ったほど時は過ぎていないらしい。
(これならゆっくり帰っても大丈夫そうね。)
彼女は館の方角へ歩き始めた。
「どこまで行くんだよ。」
その時、前方から声が聞こえてきた。
マーガレットは驚いて思わず近くの木陰に隠れるように身を潜めた。
(レイモンドの声だわ。)
「おいっ、アル。」
声は彼女の横を通り過ぎて行く。
「うん。この辺りでいいだろう。」
兄のアレックスの声もする。
二人は先程までマーガレットがいた小屋の前で立ち止まった。
「こんなところに何の用があるんだ?」
レイモンドは苛立ったように訪ねた。
「ここには、うちの館の者は来ないからね。秘密の話をするにはうってつけなんだ。」
アレックスは小屋を見た。
「秘密のだって?」
レイモンドは兄を訝しむような視線で見る。
「ああ。」
アレックスはレイモンドに近付くと彼を見て笑った。それはマーガレットが今まで見たことのない冷たい笑みだった。
「僕の言いたいこと、わかるだろう?レイモンド。」
彼は笑顔のままレイモンドから視線を外さない。
だがその顔は相手を不安にさせるものだ。
レイモンドは急に変わった兄の変化に戸惑って怯えたような目でアレックスを見る。
「ア・・ル?」
「いったいどういうつもりなんだい?君は僕の言うことを聞くんじゃなかったの?」
アレックスは言いながらレイモンドにどんどん近付く。レイモンドはとうとう小屋の壁際に追い詰められてしまった。
彼は身動きが取れないまま必死に逃れようとする。
だがアレックスに拒まれ観念したように懇願した。
「・・・頼む、・苛・め・ないでくれ・・」
マーガレットはレイモンドの掠れた弱々しい声を始めて聞いた。
彼の前髪から覗く瞳が揺らぐのを見た。
だがアレックスは逃がさないとばかりに壁に手をつき更にレイモンドを追い詰める。
「苛めるだって?誰が?誰を?僕が君のことを大事に思ってるのは知ってるよね。」
「ああ・・知ってる。」
レイモンドは泣きそうな顔をしていた。
アレックスは優しく彼の髪の毛を手に取り囁く。
「君は僕の言うことを聞いていたらいいんだよ。僕に全て任して・・・」
まるで悪魔の囁きのようだった。
レイモンドは震える瞳でアレックスを見ていたが、いきなり彼を突き飛ばした。
そしてアレックスから逃げ出すと彼を振り返って言う。
「すまない。アル。」
そのまま青い顔をして走って行ってしまった。
アレックスは呆然とレイモンドの走り去った方向を眺めていた。
そして頭をかくと大きくため息をついた。
「上手くいくと思ったんだけどなあ。」
それから小屋の周囲を確認でもするかのように振り返って見る。マーガレットは息を詰めて体を固くした。
やがて彼は納得したのか頷いて微笑んだ。いつもの兄の笑顔だった。
「僕も戻ろう。今後は上手にやらなきゃな。」
マーガレットは放心したように座り込んだままだった。
アレックスが彼女の側を通り過ぎてかなりの時間が経過した後も、彼らから身を隠した同じ場所にずっといた。
なかなか帰ってこないマーガレットを心配して捜しにきたマリアに声をかけられるまで、彼女はそこから動けないでいた。