給食後の寸胴鍋の怪
クラブ活動は長引くことなく、いつもの時間に終わった筈だった。
それでも小学校の玄関から下駄箱越しに見える外はもう、藍色に染まりつつあった。
「冬場は日の入りが早いからねぇ」
風さむぅ、と大袈裟に縮こまってみせる友達と、その仕草を笑う僕の後ろで、クラブの先生が優しい声をふわりと零す。入口から中へ吹き込んでくる風は、冷蔵庫を開けると漏れ出すそれと同じくらいキンキンに冷えていた。
まだ居残り中らしい先生に『気を付けてね』と見送られて校門を出た後は、いつもの通学路を部員の皆とお喋りしながら歩いていく。まだ眠っていたい思いで渋々歩く朝と違って、この時間に歩く通学路は何だかワクワクする。週一のクラブ活動がある日の下校時は特に。
「そういやさ。今日の給食、全部食えた?」
部員皆と別れて二人きりになったタイミングで、カイ君はひそりと僕に話を振ってきた。
「食べたよ。お腹空いてたし」
「えぇマジぃ? だってほうれん草も出たのに?」
お前すげえな、と吐き捨てるように言って、カイ君は顔のパーツを更にくちゃくちゃ歪ませる。言わんとしていることを察して、僕はちょっと得意げな顔を繕って『まぁね』と返す。
「僕、ほうれん草は別にフツーに食べれるから」
「げえ。あんな雑草みたいな味のやつ、よく食えるよ」
カイ君は気分悪げに告げてくる。
彼の家へ遊びに行ってそのまま夕飯を一緒に食べたいつかの日に、ハンバーグの横に並んだグリンピースと人参を食べる僕を見たカイ君のお母さんから、『野菜もちゃんと食べれて偉いね』と褒められた時をふと思い出して、また嬉しい気持ちになる。
「おれ、皿に盛られた量まんま鍋ン中捨てたら先生に見付かっちゃってさ。休み時間ぶっ続けでお説教コース」
「ああ、だからカイ君なかなか体育館来なかったんだ。大変だったね」
「ホントだよ。先生だってピーマンが苦手だとか言ってたくせに、自分のこと棚に上げてさ」
カイ君がトクベツわがままってわけでなく、皆が皆、給食を残さず食べきる良い子なわけじゃない。
苦手な料理だったり、量が多かったり、ダイエット目的だったり、とにかく色々な理由で給食を残す子は各クラスに結構いる。
その場合、食べ残しはスープが入っていた寸胴鍋に捨てられる。
スープ自体綺麗にさらえないまま最後まで放置され続けることもあって、上から重ねて他の料理がどばぐちゃ入れられていくことになるから――給食の時間が終わる頃の鍋の中は、それはもう凄い色になっている。
僕だって野菜は平気だけど他に苦手なものはあるから、カイ君の気持ちはよく分かる。
例えば牛乳なんかはあんまり好きじゃないから、いつも半分は残してしまう。
そういう時、授業中は先生の厳しい声が間近で聞こえて嫌になる教卓の傍の席が、都合の良い場所になるわけで。
「そういやお前もこの前、牛乳捨ててたじゃん。見付からなかった?」
「うん。先生がよそ見してるスキにビャーッてやった」
給食の時間になると、その週の当番になった人達が折り畳み式のテーブルと教卓を使ってセッティングをし始める。ボウルやバットが台の上へ順々に並べられる中、寸胴鍋はいつも配膳台の一部になった教卓の隣、用意した椅子の上に置かれる。
僕の席はそのど真ん前。
「席替えでお前が当てた席、丁度目と鼻の先に鍋がくる位置だもんな」
いいなあ、とカイ君が羨ましそうに言うその通りで、嫌いな食べ物の後始末が楽な席に当たったのは、運が良かったと思う。授業の時は気が抜けないからキュークツだけど、先生が偶に言う『何事にも長所や短所がある』ってやつがコレなのだろう。
「次またほうれん草が出たら、教えてくれたら僕が代わりに捨てとくよ?」
「マジ? やりぃ。そうするわ」
悪いことを約束しちゃったなあ、と、ちょこっとだけ思った。
残さず食べろ、とは親からも先生からも標語みたいにしつこく言われてるから、なおさら。
でも、食べられるものなら僕もカイ君も皆も、ちゃんと残さず食べている。偶に食べられない日があったっていいじゃないか。偉そうにしている大人だって嫌いなものくらいあるんだろうし、分かってもらわなきゃ。
昼休みを丸々潰されたカイ君を気の毒に思った僕がつい出した提案は、カイ君をとても喜ばせた。
そうして盛り上がっているうちにT字路が迫り、明日の休み時間こそ皆でドッジボールをやろう、と改めて約束を交わして、僕らは別れた。
T字路を曲がればもう、後は真っ直ぐ歩けば家に着く。
ずらずらと並ぶよその家は皆窓が明るく光っていて、換気扇からは美味しそうな匂いがふこふこと吹き出し、道端で混ざり合っている。
この時間帯の通学路を歩くのは好き。カレーの匂いとか、お肉の焦げたような匂いとか、どこの家かは分からないけど、もしかしたら自分の家から漏れてくる匂いかもしれなくて、ワクワクする。
そんなごちそうの匂いを上書きするように、『その匂い』はふらふらと漂ってきた。
「――うわ」
何だこれ。
誰かが隣にいれば、多分僕と同じように鼻をふさいだろう。
すごい匂いだった。
色々な料理――料理じゃないものも含めて、一緒くたに鍋にぶち込んだような。
甘ったるくて、埃臭い。焼き肉のタレの匂いにも似ているけど、体育の授業で運び出すあのマットの匂いにも似ている。
とても食欲の湧く匂いじゃない。
どこの家が作ってるんだろう。そもそも料理じゃない、のかもしれないけど。
嗅いだことがない、不思議でキョーレツな匂いだった。
「おかえり」
横から声を掛けられた僕は、飛び上がりそうになった。
丁度、敷き詰められるように建つ家が急に途切れた空間――ぽかりと開けた空き地の前だ。
顔を向けると、大人の人がたくさん集まって、何かやっている。
運動会で先生達がよく集まっているのと同じ見た目の、白い屋根のテントが立っている。屋根には大きな電球が下がっていてとても明るく、長細いテーブルも設置されていた。
そのテーブルの前にずらりと並んだ人達の背中を見て、僕はピンときた。
『炊き出し』だ。
あるいは、フードフェス、ってやつかも。
でも、こんな家ばっかりの狭い道中で、お祭りみたいなイベントなんかやるわけない。そうするとやっぱり、『炊き出し』の方だろう。
テーブルの上にはステーキみたいな大きな肉の塊とか、飾りと見間違えるほどわさわさとボウルに盛られた野菜が見える。
街灯みたいな高さの照明も空き地の左右に立っていて、その傍にはちゃんと小さなテーブルと椅子まで用意してある。湯気が立っている出来立ての料理を受け取った人はそれぞれ、トレイに載せたそれを席まで運んで、座った人からさっそく食べ始めている。
「ボク、お腹空いたでしょ。味見していきな」
並んでいる人に料理を手渡していたショートヘアのお姉さんが、可愛い笑顔で僕を呼んだ。
さっき聞こえた『おかえり』という声と、同じ音だった。
「ゆ――夕ご飯、食べなきゃなので……」
緊張で震えてしまった僕の声に、お姉さんが小さく笑う。つられて他の大人達も顔を上げて僕を見てきた。皆、優しそうに笑っている。
「ちょっとくらいならバレねえよ。お金もかかんないから、おいで」
列に並んでいたおじさんが急に振り向いて、僕に向かって手招きをした。
髪はばさばさで、着ている上着の裾はぼろぼろ。日に焼けた顔にこびりついた垢は乾燥してひび割れている。
あんまり知らない人をああだこうだ言うのは良くないって分かってるけど――ホームレス、という人なんじゃないか。そんな感じの汚っこさだった。
今僕の隣にお母さんがいたなら、すごい不機嫌な顔で僕の手を引っ張って離れていったと思う。
でも今は、僕ひとり。
どうするかは僕が自分で決められる。
こういうイベントの時は大体近くに家族や友達がいるものだから、ちょっと珍しくて、何だか特別なことのように感じられた。
ボウルやバットが並ぶテーブルの端には、背の低い台が置いてある。
その上には、底の深い、大きな鍋も置かれていた。
学校の給食で見かける寸胴鍋とよく似ている。もしかしたら同じ種類のやつかもしれない。
途端に、顔も知らない、今初めて会った大人達が皆、友達のように思えた。
その鍋知ってる、僕も給食の時に運んだことあります、と言おうと思ったものの――でも何だかもにゃもにゃとむず痒い気分になって、結局声は出せなかった。
鍋の口からほわほわ上る湯気を見た時、『あの匂い』がまた鼻に入ってきた。
でもさっきと違って、変な匂い、とは思わなかった。すっかり鼻が慣れたのかもしれない。お肉だのサラダだの、これだけたくさんの料理が並んでいたらそりゃあ匂いだって色々混ざるだろう。給食の時間にも同じように、食べ物とは思えない匂いを嗅いだ時があった気もする。食べ物同士が『自分こそ美味しい』と競い合って、こういう匂いになるのだろう。
「スープだけでもどう? あったまるよ」
まだ僕が返事をしない間に、お姉さんは手近のお椀を手に取った。皿に伏せていたお玉を鍋の中に入れるお姉さんの仕草に見とれて、まだ空き地の前に突っ立っていた僕はつい一歩を踏み出した。
僕が列の近くまで歩み寄ると、手招きをしていたおじさんがニコニコと肩を抱き寄せて、自分の前に並ばせてくれた。列に並ぶ他の人の様子を見ても、皆『いいからいいから』というように手を振って、誰も不機嫌そうな顔はしていない。
おじさんに肩を抱かれて、なんだか落ち着かない感じで待っていると、目の前にお椀がずいと突き出される。
「熱いから気を付けてね」
ぎこちなくお礼を言って受け取ったお椀から、お酢の漬け物みたいな匂いが湯気と共にぷあんと沸き上がって、鼻の奥をつんとつつかれた。
スープはフチまで並々注がれていた。
泥を混ぜた抹茶のような――あまりキレイとはいえない色味の水面が、たぷん、と重そうに揺れ動く。婆ちゃんが時々作ってくれる『くず湯』ってやつにちょっと似ている。
ヘドロみたいなその表面には、白い線で、テレビで偶に見るラテアートとは全然違うぐちゃぐちゃな模様が描かれてもいた。
一目見て僕は――
牛乳だ。
と確信した。
そういやお前もこの前、牛乳捨ててたじゃん。
分かれ道に来る前にカイ君に言われた言葉が、ふと頭の中で再生される。
先生の目を盗んで寸胴鍋に牛乳を捨てたあの日の、ちらりと見えた鍋の底を思い出す。魚の切り身やもずくの塊の一部が水面に飛び出ているその上から、僕はドレッシングみたいに牛乳をかけたのだ。
油の泡が浮いた表面に浮き上がる、何とも例えられない模様。それが今、お椀の中に描かれている。
はい、という可愛い声と共に、視界の端に『れんげ』が飛び込んできた。
勢いに流されるまま受け取って、なんとなく、分厚い水面に突き刺してみる。
泥色のスープの底をさらうようにれんげを持ち上げると、ウインナーっぽい細長い具が、泥と一緒にくぼみ部分に載って現れた。
表面がすっかりしわしわになっている。
皮が水を吸ったのかもしれない。
お風呂上りの自分の手みたいにふやけていて――。
これは。
指、じゃないのか。
顔を上げると、僕の顔を覗き込んでいるお姉さんと目が合った。
目と口をいっぱいに曲げた全力の笑顔は、ちっとも崩れていない。白い歯まで見えるその笑顔が初めは可愛く思えたのに、今は少し怖く感じる。
早く食べろと催促されているようで、僕は何となく目を逸らしてしまった。
れんげのフチから飛び出たウインナーは、どう見ても指だった。
爪も付いているし、曲がるところのシワもある。反対側は真っ平らに切れていて、真っ赤な肉に包まれた白い骨が見える。
──やっぱり、指じゃん。
いつか遠足の時に、同じクラスのカズ君がそういう怖いデザインのお弁当を持ってきたことがある。茶色いご飯の上に載った血まみれの指は、しっかり観察すれば作り物感満載だった。
そりゃそうだよ。だって本物じゃないし。
ウインナーを切ってケチャップを塗っただけだから、そのまま食べたって安心だ。
でも。
じゃあ、『これ』は?
「早く食べないと冷めちゃうよ」
おっかない笑顔のお姉さんに急かされて、僕は焦ってれんげに顔を近付ける。
給食の時、嫌いな食べ物を前にして勇気がなかなか出せずに箸が止まっている時と、似たような気持ちになった。今みたく、早く食べろ、と横から言われて胸が苦しくなるところまで一緒なのが、何だか居心地悪い。
すごく、おかしな感じだった。
こんな家がたくさん並んでる狭いところでそういうイベントをやってるのもおかしいし、ちょっと汚れた服の、この辺じゃあまり見ないような人達が集まってるのもおかしい。
ついでに、いくら呼ばれたからって列に並んでスープをもらってる僕だって。
おかしいよ。
現実じゃないみたいだもの。
でも、両手に持ったお椀はほっこり暖かいし、ゴムの溶けたような、酢の物のような、色々混ざった薬みたいな変な匂いも、ちゃんと分かる。
それもおかしいっちゃおかしいんだけど。
食べるものじゃないよこれ。
でも食べなきゃいけないフンイキだよな。
お姉さんまだ笑ってるし、おじさんにもまだ肩掴まれてるし。
お椀の中のスープは、おかしいものをぐぐっと凝縮してあるからこんなおかしい匂いがするのかもしれない。
れんげに唇をちょん、とくっつける。
熱くはない。この寒い空気で表面だけ少し冷めたようだ。
泥に触れた唇を一旦離す。多分今僕の口はこの妙な泥色がついてるんだろう。舌で舐め取ってみたけど、ほんの一滴くらいしかないから味は分からない。
もう一度、れんげに口付ける。
指ウインナーは食べたくので、唇で押して少しどける。
空いた隙間から一口分。
――ずずう。
と僕は泥をすすった。
牛乳みたいな味がした。
ほうれん草のごま和えみたいな味もした。
野菜コロッケみたいなもずくの味噌汁みたいな納豆みたいな揚げパンみたいなきんぴらゴボウみたいな黄粉みたいな玉子スープみたいなソフト麺みたいなポテトサラダみたいなけんちん汁みたいなほうれんそうのお浸しみたいなあんかけの塊みたいなしなびたコッペパンみたいなわかめご飯みたいな味がした。
酸っぱい匂いが鼻を抜けた。口の中でざわざわっと何かが動く感じがした。もちゃもちゃした味の無い塊が歯にくっついてとれなくなった。
食べちゃいけないものを食べてしまったんだ。
別に誰も何も言っていないのに、何故だかそう思った。
ぞわっ、と鳥肌が背中を駆け上がって、気持ち悪さがぐうっと湧いて――
「げえっ」
僕は体をひん曲げて、その場で吐いた。
はずみでお椀とれんげを落としてしまったけど、構っている余裕もなかった。
草と土がぐちゃぐちゃに湿る。お気に入りの靴にもちょっと掛かるのが見えて、げんなりした。
気持ち悪さと喉の熱さが取れないのが辛くて、泣きそうになる。
お腹の奥がまだ何か吐こうとしてぐわぐわ蠢く感じと戦っていると、頭上から――
わははっ。
なんて、ほがらかな笑い声が落ちてきた。
大勢で笑っている声だった。
馬鹿にしているような笑い方だった。
お姉さんの、あの可愛い声も混じっていた。
ようやく吐き気が収まって顔を上げると。
そこには何も、誰もいなかった。
テントもなかったし、照明も机もない。
ボウルやバット、寸胴鍋も全部。
元々何事もなかったように静かな、ただの寂しい空き地に僕は立っていた。
夢かと思った。夢と思いたかった。
でも口の中にはまだあの味が残っている。
この空き地の前で足を止める切っ掛けになったあの強烈な匂いもまた嗅ぎ付けて、僕は自分の足を見下ろした。
たった今自分が吐いたものが、草と土の上に白く模様を描いている。
給食後の寸胴鍋の中身だ、と思った。
思った途端にまた僕は吐いた。
たった今落としたれんげもお椀も消えていて、匂いの原因が何もなくなったはずなのに。
スープは次から次へと喉の奥にせり上がってきて、いくら吐いても吐き気は止まらない。
給食で残した牛乳を鍋の中にぴゅーっと捨てる映像とか、別の子が食べかけの唐揚げを捨てる時に鍋の中を見て、うえってなっていた映像とかが、吐く度頭の中で再生された。
その後僕は、吐き気が少し収まったタイミングで急いで家に帰った。
夕飯は僕の大好きな目玉焼きハンバーグだったから、無理して少し食べたけど、婆ちゃんが後から持ってきたホットミルクを見たらあの泥スープをうっかり思い出して、また吐いた。
お母さんから、明日は休みなさい、って言われて、少しほっとしたけど。
明後日からの給食、ちゃんと食べられるかな。
ひとまず、カイ君には悪いけど、別れ際に交わしたあの約束は取り消してもらおうと思っている。




