伝説級の魔道士少女ですが、バイト先の食堂でお客の悩みを解決します
王都の片隅、冒険者ギルドのすぐ裏手に位置する【跳ね馬の蹄亭】。
ここは、安酒と家庭的な料理、そして何より″不思議と元気がもらえる看板娘″を目当てに、今日も多種多様な客が訪れる。
ララッティアは、編み込んだ桃色の髪を揺らしながら、忙しく店内を駆け回っていた。
彼女の正体は、かつて単身で魔王軍の師団を消滅させた【極光の魔道士】だ。
しかし、今の彼女にとって大事なのは、煮込み料理をこぼさず運ぶことだった。
∮∮〜 大ハンマー使いのパパ、育児に吠える〜∮∮
夕暮れ時、冒険者ギルドの喧騒が落ち着き始める頃、【跳ね馬の蹄亭】のドアが、地響きのような音を立てて開いた。
入ってきたのは、この街でも指折りの前衛職として知られるガストンだ。
身の丈ほどもある巨大な戦槌を背負い、丸太のような腕には魔物の返り血が染み付いている。
普段なら「おい、エールだ!」と豪快に笑うはずの彼が、今日はまるでこの世の終わりのような顔で、カウンターの隅に沈み込んだ。
「……なあ、ララッティア。俺は、もうダメだ。冒険者を引退して、どっかの山にでも籠もろうかと思ってよ……」
「あらあら、ガストンさん。そんなに肩を落として、どうしたんですかぁ? 街一番の力持ちが台無しですよぉ」
ララッティアは、困ったように眉を下げて微笑むと、冷えたエールのジョッキを差し出した。
ガストンはそれを一気に煽ったが、溜息の深さは変わらない。
「娘だよ。……五歳になる愛娘のミーナだ。今日、久しぶりの遠征から帰って、真っ先に抱きしめようとしたんだ。そしたらよ……」
ガストンの大きな拳が、わなわなと震える。
「『パパ、あっち行って! 鉄の匂いと、変な獣の匂いがして嫌! 汚い!』……そう言って、泣きながら逃げられたんだ。俺はよ、ミーナに綺麗なリボンを買ってやるために、血反吐を吐きながらワイバーンの群れを叩き潰してきたんだぜ? なのに、汚いって……」
ガストンはカウンターに突っ伏し、嗚咽を漏らした。
その背中は、どんな上位魔物を前にした時よりも小さく見えた。
ララッティアは、カウンターに肘をつき、ひょいと顔を覗き込む。
「ふふっ、それはショックでしたねぇ。でもぉ、ガストンさん。その“鉄と獣の匂い“は、ガストンさんが家族を守るために戦い抜いた、勲章の匂いじゃないですかぁ。あなたがその大きなハンマーで魔物を追い払ってくれるから、ミーナちゃんは毎晩、安全なベッドで眠れるんですよぉ」
「理屈はそうかもしれねえが……あんなに嫌がられたら、もう怖くて家に帰れねえよ」
「ガストンさんは、優しすぎるんですよぉ。いいですかぁ? 今度帰るときは、いきなり抱っこしちゃダメですよぉ。まずは、その逞しい手で、甘いお菓子を差し出してみてください。『この匂いはね、ミーナがおいしいケーキを食べられるように、パパが外でお仕事を頑張ってきた証拠なんだよぉ』って、優しく、笑顔で教えてあげるんですぅ。パパが命がけで自分を守ってくれているってわかれば、ミーナちゃんにとってその匂いは、世界で一番安心できる“パパの匂い“に変わりますよぉ。大丈夫ですよぉ」
「……パパの、匂い?」
「そうですぅ。ガストンさんの手は、魔物を倒すためだけにあるんじゃなくて、家族を幸せにするためにあるんですからぁ。ほら、そんな怖い顔してたら、せっかくのケーキも苦くなっちゃいますよぉ?」
ララッティアが指先でガストンの眉間のシワを広げるようにすると、彼は一瞬呆然とした後、ゴシゴシと乱暴に目元を拭った。
「……そうか。俺が怖がってちゃ、あいつに伝わるわけねえよな。汚い匂いじゃねえ、仕事の匂いだって、胸を張って言ってやるぜ」
ガストンは最後のエールを飲み干すと、勢いよく立ち上がった。
その足取りは、店に来た時とは見違えるほど力強い。
「サンキューな、ララッティア! 帰りに一番高いタルトを買って、ちゃんと話してみるわ! 次回は、ミーナが描いてくれた俺の似顔絵を持ってきてやるからな!」
「はい、楽しみに待ってますねぇ」
嵐のように去っていく背中を見送りながら、ララッティアは、ふふ、と喉を鳴らした。
彼女が軽く指を振ると、ガストンの服に染み付いていたどろりとした魔力の澱みが、淡い光とともに霧散していく。
「あ、そうだぁ。お菓子のカスをこぼすと、また奥さんに怒られちゃいますよぉ……。まぁ、それも家族の仲が良い証拠ですねぇ」
彼女は鼻歌交じりに布巾を手に取ると、再び忙しそうにテーブルを拭き始めた。
∮∮〜モテたいシーフの空回り〜∮∮
「……はぁ。やっぱり、これじゃねえのかなぁ」
鏡の前で、不自然に跳ねさせた前髪をいじりながら溜息を吐く男がいた。
軽装の革鎧を小粋に着こなしたシーフのジキルだ。
彼は、今日手に入れたばかりの、やけにキラキラと輝く銀のピアスを指で弄んでいる。
「あらあら、ジキルさん。さっきから鏡と睨めっこして、どうしたんですかぁ? せっかくのハンサムな顔が台無しですよぉ」
ララッティアが、彼のお気に入りである辛口のシードルを運びながら声をかけた。
ジキルは待ってましたと言わんばかりに、身を乗り出す。
「聞いてくれよ、ララッティアちゃん! 俺、今回の遺跡探索の取り分で、この街で一番流行ってる彫金店のピアスを買ったんだ。これをつけて酒場に行けば、お姉ちゃんたちが『素敵!』って寄ってくると思ったんだけどよ……」
「思ったんだけどぉ……?」
「……実際に行ってみたら、みんなガストンさんみたいな強そうな戦士か、魔法学園のエリート坊ちゃんに夢中なんだ。俺みたいな地味なシーフは、注文を取る時ですら目も合わせてもらえねえ。やっぱ、もっと派手なマントとか買ったほうがいいのか? それとも、喋り方をもっと貴族っぽくするとかよぉ」
ジキルは焦燥感に駆られた様子で、シードルを煽った。
彼は身のこなしこそ軽やかだが、どこか自分を安売りしているような、落ち着きのなさが透けて見えていた。
ララッティアは、彼の向かいにそっと腰を下ろすと、小首を傾げて彼をじっと見つめた。
「うーん、ジキルさん。形から入るのも、自分を変えようとする努力として素敵ですけどぉ……。でもぉ、ジキルさんの本当の魅力は、そんなピカピカした飾りじゃないですよぉ」
「……えっ? 俺に、そんなもんあるか?」
「ありますよぉ。ジキルさんが、迷宮で罠を外すときに見せる真剣な横顔ですぅ。みんなが宝箱を前にして浮き足立っているとき、ジキルさんだけは膝をついて、冷たい床に耳を当てて……仲間の指一本すら傷つかないように、息を止めて、細い針を操りますよねぇ? いつもはお調子者なのに、仲間を守るその瞬間にだけ見せる、指先の震えを抑えるほどの集中力。……それこそが、何よりも格好いいんですよぉ」
ジキルは虚を突かれたように目を見開いた。そんなところを、誰かに見られているとは思ってもみなかったのだ。
「酒場のお姉さんたちもぉ、ピアスを見てるんじゃなくて、その人の『背負っているもの』を見てるんですぅ。自信を持ってください。ジキルさんは、誰よりも繊細で、誰よりも仲間想いなシーフなんですぅ。背伸びして誰かの真似をしなくても、そのままのジキルさんで笑っていれば、その誠実さに気づく人が必ず現れますよぉ。大丈夫ですよぉ」
「……俺の、集中してる顔か。そんなの、余裕がなくて必死なだけだと思ってたけどよ」
ジキルは照れくさそうに鼻の頭を掻き、耳元の銀のピアスを外した。
「……これ、高かったけど、今は外しておくわ。なんか、今の俺にはまだ早い気がするしな。それより、次の遠征に向けて指先の感覚を鈍らせないように練習しとくぜ。サンキューな、ララッティアちゃん!」
「はい、その意気ですよぉ。次はピアスじゃなくて、ジキルさんの活躍を聞かせてくださいねぇ」
ジキルが、今度は鏡を見ることもなく、軽やかな足取りで宿を去っていく。
ララッティアは、彼が置いていったピアスの輝きを眺めながら、指先で小さく円を描いた。
「ふふっ、誠実な人の周りには、自然と温かい光が集まるものですぅ。……まぁ、このピアスの魔法的価値は二束三文ですけど、彼が自分で選んだ決意は、どんな宝石よりもキラキラしてますねぇ」
彼女は再び笑顔を浮かべると、次のお客が待つテーブルへと歩き出した。
∮∮〜独立に揺れる女剣士の背中〜∮∮
深夜、閉店間際の【跳ね馬の蹄亭】。
炭火の爆ぜる音だけが響く静かなフロアで、女剣士エレナは一人、磨き抜かれた愛剣を卓に置き、じっと見つめていた。
彼女は、王都でも名の知れたAランクパーティの主力だ。
しかし、その凛とした佇まいとは裏腹に、目の前のグラスは手付かずのまま、彼女の溜息で曇っている。
「……エレナさん、お茶のおかわりはいかがですかぁ? そんなに厳しい顔で剣を睨んでいると、剣の方が怖がっちゃいますよぉ」
ララッティアが、湯気の立つハーブティーを携えて現れた。
エレナはふっと自嘲気味に口角を上げた。
「……ああ、すまない。少し考え事をしていたの。ララッティア、少し聞いてもらえるかしら。……私、今のパーティを抜けて、独立しようと思っているの」
「独立、ですかぁ。エレナさんなら、どこへ行っても引く手あまたですよねぇ」
「いや、違うの。冒険者を引退して、小さな道場を開こうかと思っている。……でもね、いざとなると足がすくむのよ。私には、人を導く資格なんてあるのかしら、と。私はただ、自分の剣を磨くことしか知らずに生きてきた。そんな無骨な女に、誰かの人生を預かる準備ができているのか、怖くなるの」
エレナの指先が、剣の柄を固く握りしめる。
それは、強敵を前にした時の武者震いではなく、自分の未来に対する純粋な恐怖だった。
ララッティアは、彼女の隣に静かに腰を下ろすと、その強張った手に自分の手をそっと重ねた。
「エレナさんの剣は、とっても綺麗ですぅ。それは、あなたがこれまで一度も自分に嘘をつかず、苦しい修行からも逃げずに歩んできた証拠ですよねぇ」
「……綺麗? 泥にまみれ、血に汚れてきた剣よ」
「いいえぇ。技術だけじゃないんですぅ。その剣筋には、エレナさんの“誠実さ“が宿っていますぅ。迷うのは、エレナさんがそれだけ自分の教え子になるかもしれない人たちのことを、真剣に考えている証拠ですよぉ。無責任な人なら、迷わずに看板を掲げちゃいますからぁ」
ララッティアは、エレナの瞳をまっすぐに見つめ、柔らかな笑みを深めた。
「完璧な先生なんて、どこにもいませんよぉ。生徒さんたちが本当に見たいのは、無敵の剣聖様じゃなくて、エレナさんのように“迷いながらも、一歩ずつ自分の道を切り拓いてきた人の背中“なんですぅ。やりたいと思ったときが、一番の吉日ですぅ。エレナさんのその温かい手が育てる剣士なら、きっと素敵な騎士様になりますよぉ。大丈夫ですよぉ」
エレナの目から、ふっと力が抜けた。
重ねられたララッティアの手から、不思議と温かな、そして底知れないほど穏やかな力が流れ込んでくるのを感じたのだ。
「……そうね。私も最初から剣が振れたわけじゃない。迷い、傷つきながら覚えてきた。それをそのまま、伝えればいいのね」
エレナは立ち上がり、愛剣を力強く鞘に収めた。
その動作には、迷いを断ち切った者特有の鋭さが戻っていた。
「ありがとう、ララッティア。……道場を開いたら、一番にあなたを招待するわ。あなたには、どんな武術家も持っていない“心を開く極意“があるみたいだから」
「ふふふ、私はただのお茶汲みですよぉ。お祝いのお花、用意しておきますねぇ」
凛とした背中で店を出ていくエレナ。
その後ろ姿に、ララッティアは密かに人差し指で小さな【祝福】の印を描いた。
「さぁて、次は新しい門下生たちが、先生の厳しさに泣いてここに相談に来るかもしれませんねぇ。……それもまた、楽しみですぅ」
∮∮〜猪突猛進、傷だらけの槍使い〜∮∮
「いてて……あ、ララッティア、いつもの薬草酒、あと一番強いやつを頼む……」
ガランと派手な音を立ててドアが開くと、全身包帯だらけの青年、ナットが転がり込むように入ってきた。
愛用の長槍は石突きが削れ、革鎧はあちこちが裂けている。
「あらあら、ナットさん。また無茶をしましたねぇ。今度はどこの魔物と喧嘩してきたんですかぁ?」
ララッティアは手慣れた様子で、薬箱と、刺激の少ない自家製のエールをカウンターに準備した。
ナットは顔を歪めながら椅子に座ると、深く溜息を吐いた。
「……森のオーク軍団だよ。俺が一番に突っ込んで三匹は仕留めたんだが、結局囲まれちまって。後ろのヒーラーには『あんたは連携って言葉を知らないの!?』って、魔物に噛まれた傷より痛い言葉で怒鳴られちまった」
ナットは項垂れ、自分の大きな手を情けなさそうに見つめた。
「俺、才能ないのかなぁ。ただ槍を振り回して、痛い思いして、仲間に迷惑かけてるだけなんじゃないかって……最近、槍を持つ手が重いんだよ」
ララッティアは、彼の傷口に優しく薬を塗り込みながら、ふふ、と喉を鳴らした。
「ナットさん、それは大きな間違いですよぉ。確かに連携は大事ですけどぉ、みんなが怖がって足が止まるときに、真っ先に飛び込んでいけるのはナットさんだけですぅ。ナットさんが一番槍として風穴を開けてくれるから、後ろの魔法使いさんや弓使いさんは、安心して狙いを定められるんですよぉ」
「……でも、結局俺が傷だらけになったら、ヒーラーの手間が増えるだけだろ?」
「それはぁ、ナットさんの勇気がみんなを守る盾になっているからですよぉ。でもねぇ、ナットさんがいなくなっちゃったら、みんな悲しみますぅ。次は、一歩踏み込む前に、一度だけ後ろを振り返ってみてください。仲間たちの顔を見て、『俺が道を拓くから、付いてきて!』って心の中で唱えるんですぅ」
ララッティアは、仕上げの包帯を丁寧に巻き終えると、ナットの額を指先で軽く小突いた。
「仲間に守られることを怖がらないでください。ナットさんが仲間を信じて、仲間がナットを信じる。それが本当の最強のパーティーですぅ。ナットさんのその熱い心があれば、きっと誰も追いつけない最高の騎士になれますよぉ。大丈夫ですよぉ」
「……後ろを、振り返る。俺一人の戦いじゃないんだな」
ナットの目に、少しずつ活力が戻ってくる。
彼は薬草酒を一気に飲み干すと、顔を赤くしながらも力強く立ち上がった。
「そうだな。次は……突っ込む前に、一言声をかけてみるよ。俺が一番槍なのは変えねえけど、みんなを信じてな! ありがとな、ララッティア。なんだか、傷の痛みも引いた気がするぜ!」
「ふふふ、お薬が効いたんですよぉ。……本当ですよぉ?」
ナットが元気よく店を飛び出していく。
ララッティアは、彼が座っていた椅子の周りに漂う、焦りからくる濁った魔力が、すっかり澄み渡ったのを確認して微笑んだ。
「元気すぎるのも困りものですけどぉ、やっぱり若い人の情熱は見ていて気持ちいいですねぇ」
彼女は鼻歌を歌いながら、ナットが空にしたジョッキを片付け始めた。
∮∮〜王国最強の騎士団長、孤独な遠征〜∮∮
夜も更け、街の喧騒が遠のいた頃。
【跳ね馬の蹄亭】の重い扉が静かに開いた。
入ってきたのは、一人の男だ。マントを深く被り、その下から覗く白銀の鎧は月光を反射して冷たく輝いている。
男が歩を進めるたび、店内の空気がピンと張り詰める。
その威厳ある佇まいだけで、普通の者なら言葉を失うだろう。
王国最強と謳われる【白銀騎士団】の団長、ヴァリアスだ。
彼は、国境付近での不穏な動きを調査するための遠征途上、身分を隠してこの宿に立ち寄ったのだった。
ヴァリアスはカウンターの端に座り、兜を脱いだ。
その顔には、刻まれた深い皺と、消えない疲労が張り付いている。
「……娘よ。すまないが、何か温かいものを。腹を満たすためではなく、心が温まるものを頼む」
「はい、お任せください。今、とっておきのスープを作りますねぇ」
ララッティアは、彼の背後から立ち上る“重圧“という名の濁った魔力を見逃さなかった。
それは数百人の命を預かる責任感と、誰にも弱音を吐けない孤独が結晶化した毒のようなものだ。
彼女は手際よく野菜を刻み、魔力を少しだけ混ぜ込んだ自家製スープを差し出した。
「……娘よ。私は、多くの部下を預かっている。私の判断一つで、彼らの命が消える。最近、その重圧で夜も眠れぬのだ。私が間違えば、国が終わる……そう思うとな、剣を握る手がわずかに震えるのだよ」
最強の騎士が漏らした、あまりにも脆い独白──。
ララッティアは、彼が背負う魔力の重圧と、精神的な疲弊をすべて見抜いた上で、ふわりと微笑んだ。
「団長さん、肩に力が入りすぎですよぉ。あなたは“最強“かもしれませんけど、神様じゃないんですからぁ。部下の方たちがあなたについていくのは、あなたが完璧で、一度も間違えないからじゃないですよぉ」
ヴァリアスが顔を上げると、ララッティアはスープの湯気を手で扇ぎながら続けた。
「彼らは、あなたと一緒に国を守りたいと思っているんですぅ。あなたが苦しんでいるとき、部下の方たちも“助けになりたい“って思っていますよぉ。たまには、部下の方に『今日は疲れたなぁ』って、甘えてみてもいいんですよぉ。そうすれば、みんなもっと団長さんの力になろうって、もっと強く結束するはずですぅ。あなたは一人じゃないんですからぁ、大丈夫ですよぉ」
ヴァリアスは、差し出されたスープを一口飲んだ。
じんわりと、体の芯から強張っていた筋肉が解けていく。
それは単なる温かさではなく、魂を肯定されるような安らぎだった。
「……疲れた、か。そんなこと、騎士になってから数十年、一度も口にしたことがなかったな。だが、不思議だ。お前の言葉を聞くと、この重い鎧が、羽毛のように軽くなった気がする」
「ふふふ、それはスープに魔法をかけたからですよぉ……なんて、冗談ですぅ。本当は、団長さんがもう十分すぎるほど頑張っているからですよぉ」
ヴァリアスは、憑き物が落ちたような晴れやかな顔で立ち上がると、カウンターに銀貨を一枚置いた。
「素晴らしい食事だった。……娘よ、名を聞いてもいいか?」
「私はただのバイトのララッティアですよぉ。また疲れたら、いつでも羽を休めに来てくださいねぇ」
ヴァリアスは、一度だけ深く頷き、力強い足取りで夜の闇へと消えていった。
∮∮〜エピローグ:お仕事〜∮∮
翌朝、ララッティアはいつものように店の前を掃除していた。
街の通りには、彼女の言葉で前を向いた者たちの姿があった。
ガストンは愛娘にタルトを差し出し、照れくさそうに笑い合っている。
ジキルは着飾るのをやめ、自然体な笑顔で仲間のシーフと談笑し、エレナは決意に満ちた顔で道場にする物件を見上げていた。
そして、ナットは「俺が道を拓くから頼むぜ!」と、仲間に背中を預けて歩き出している。
ふと遠くの丘を見上げると、白銀の鎧を纏った一団が、朝日を浴びて堂々と出発していくのが見えた。
その先頭に立つ男が、こちらを振り返り、一度だけ短く手を挙げた。
「あ、団長さん。手を振ってくれてますねぇ」
ララッティアは、ほうきを置いて大きく手を振り返した。
彼女の掌から、視認できないほどの微細な黄金色の粒子が舞い上がり、遠征に向かう騎士たちの背中を優しく包み込んでいく。
それは、国家規模の災厄すら退ける絶対的な守護の魔法だ。
だが──安らかな時間は唐突に終わりを告げる。
街の奥、王都へと続く街道の向こうから、三つの影が近づいてくるのをララッティアの魔力感知が捉えた。
一人は、聖剣を背負い、天の加護を全身に纏った勇者。
一人は、一切の無駄を削ぎ落とし、神速の領域に達した剣士。
一人は、山をも動かさぬ重圧を放つ、巨大な盾を背負ったブロッカー。
いずれもが、この国に数人といない“伝説級“の格を持つ者たちだ。
彼らの纏う空気は、先ほどまでの穏やかな日常を鋭く切り裂き、ただならぬ戦意と緊迫感を孕んでいた。
彼らが一歩、また一歩と【跳ね馬の蹄亭】へ近づいてくる。
その目的が、単なる食事や宿泊ではないことは、彼らが向ける真っ直ぐな視線が証明していた。
それを見た瞬間、ララッティアはほうきを握る手にわずかに力を込め、ふっと目を細めた。
桃色の髪が風に揺れ、その瞳の奥に、宿屋の看板娘としては決して見せない、冷徹で深淵な魔導士の輝きが宿る。
「……あらあら、せっかくお掃除が終わったところなのにぃ。どうやら、今日はこれから“お仕事“になりそうですねぇ」
彼女は小さく呟くと、再びふんわりとした、いつもの微笑みを浮かべた。
だがその声は、かつて魔王軍を震撼させた絶対者の響きを帯びていた。
「大丈夫ですよぉ。私なら、すぐ終わりますからぁ」
伝説級の魔道士は、エプロンの紐をゆっくりと解き、静かに来訪者たちを迎え入れる。
宿屋の看板娘としての時間は終わり、極光の魔道士としての幕が、今再び上がろうとしていた。
〜〜〜おしまい〜〜〜
貴重なお時間を使ってお読み頂き、本当に有難うございました。
興味を持って頂けたならば光栄です。
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ブクマ頂けたら……最高です!




