(三)
「死ぬかと思いました」
スーパーから出た途端、龍狩さんは息を吹き返した。ひと仕事終えた顔をしている。戦場から生きて帰った兵士のごとくだ。夜のほの甘い空気を吸って、薄い胸を膨らませた。その手には、いくらおにぎりがある。
塩たんおにぎりを手に、俺は深く頭を下げた。
「たいへん申し訳ございません……」
「ははは、いいですよ、気にしなくて」
奥さんの影が消えたあと、すみずみまで店舗内を見て回った。動揺した俺が、龍狩さんの腕を引っ掴んで引き回した、ともいう。店内には生きた人間がひしめき合うばかりで、奥さんが再び現れることはなかった。結局、とぼとぼとおにぎり売り場に戻り、徒労感を慰めるため、お互い一番食べたいものを手に取ったのだった。
あたりはすっかり暗くなっている。スーパーの放つ光が夜空を霞ませて、星は見えない。地上では、広い駐車場に停められた車たちが電光を遮る。低く、澱む。熱気と混ざって、足許にまとわりつく。
振り払うように、踏み出した。
さて。
「おばけであることが確定したので、このまま、特環事案として対処します」
肩が跳ねた。ぬるい夜気が、冷えきった身体を撫でる。胸を擦る。ネクタイとシャツの下に、霊感の素はちゃんとある。
「了解です」
頭のどこかで、こうなるだろうと思っていた。緊張はするが、戸惑いはない。
スーパーから離れるにつれて、人の気配は薄くなった。家々の明かりは道路までは照らさない。ぽつぽつ並ぶ街灯が、首を垂れて光を落とした。ひと足ごとに、少し先の暗闇の中で何かが蠢く。もう一歩進むと、何もない。誰もいない。月はまだ昇らない。
龍狩さんは躊躇なく、暗がりを進む。隣に並ぶ肩は、昼間と変わらず、薄い。その変わりなさが、どこか心強かった。背筋が伸びる。
「対処するなら、奥さんを見つけないと話になりませんよね。人間探しなら慣れているんですが、自分、おばけ探しは素人です」
目撃情報があるとはいえ、範囲はそこそこに広く、予想はつかない。見つけられてもすぐに消える。手強い。
「ご指導、お願いします」
隣の男に、視線を向ける。新人らしく、先輩に助けを求めた。先輩はどこか頼もしく頷く。
「とりあえず、その辺の公園で腹ごしらえしましょう。あては、たぶん、ありそうなので」
「……それは、あるんですか?」
頼りになるのか、ならないのか。
「よくわからないでしょう」
龍狩さんは、からりと笑った。
そうして足を運んだのは、奥さんがよく来ていたという公園だ。住宅地を切り抜いて必要なものを詰め込んだような、小さなものだった。ブランコ、滑り台、砂場、どれも小ぶりで、ミニチュアじみている。木陰には二人がけのベンチが二つ並んでいた。入り口に近いほうのひとつ、端と端に腰掛ける。互いの間に、鞄を下ろした。
張込みみたいだな。
おにぎりのプラ容器を開けながら、ふと懐かしい感覚に襲われた。まだ懐かしむには、早い気がした。移動してきて、たったの三日だ。
俺の感傷をよそに、龍狩さんが話を始める。あるかもしれない、「あて」の話だ。
「以前、旦那さんは残業されてたって仰ってましたよね。あの話し方だと、おおむね二二時には帰ってたと思うんです。遅いときは、零時とかで」
おにぎりはでかく、具が米からはみ出している。これはもはや、小ぶりな弁当の気がした。どう手をつけたものか。箸がほしい。掴み方に悩んでいると、ぺこん、と音がした。見れば、龍狩さんがおにぎりの容器を開けそこねたようだ。閉じたままの容器を手に、じっと、動きを止めている。何かを待っている。
「……? ……あっ」
左手の痛みが治まるのを、待っているのか。気づいた途端、自分の気の利かなさが嫌になった。横から手を伸ばす。
「困ったときは教えてください。自分は気が利かないので」
蓋を開け、ついでに署から持ってきた茶を鞄から出した。封を切って、そばに置く。すっかり、ぬるい。じっと作業を見守っていた龍狩さんが、頭を下げた。気まずげだ。
「すみません。ありがとうございます」
「そんな大したこと、してないですよ」
いくらにぎりは、塩たんより余程掴みづらそうだ。さらに手を貸すべきか。介助の構えをとったが、大きな手は一切の躊躇なくおにぎりを鷲掴みにした。溢れる赤い粒を器用に口で受ける。零さない。片手での食事にずいぶん慣れていた。涼し気な見た目に似合わない、豪快な食いっぷりだ。
攻略に悩んでいたのが、ばからしくなった。塩たんにぎりを引っ掴んでかぶりつく。
「ええと、それで……何でしたっけ」
龍狩さんが、茶を飲んで首を捻った。おにぎりはすでに半分になっている。俺は口の中がいっぱいで答えられない。飲み込もうとしている間に、聞いた本人は話題を思い出したようだった。
「ああ、旦那さんは二二時ごろに帰宅していたでしょうから、奥さんは、二一時くらいには家に帰るんじゃないかな、って話でした」
かな、という割には確信に満ちていた。口を茶で濯ぐ。
「……時間設定について、理由を聞いても?」
「奥さんが出歩いてるのが夕方からで、出る場所が、ご近所とスーパーとケーキ屋と花屋、でしたよね」
「はい」
「晩飯の準備をしてる感じじゃないですか?」
遅くに帰る、旦那さんに合わせて。
「——……」
思いがけず、ちゃんとした理由だった。もはや結論を出さないようにしているのではないかと思っていたが、急がないだけで俺よりよほどしっかり調査していた。茶を啜る横顔が、はっきりと頼もしく見える。尊敬の眼差しに気づいたのか、暗い眼がこちらに向いた。
「ですので、その辺の時間に、ご自宅で待ち伏せればいいと思うんですけど……なんか変ですかね」
「いえ、なるほど、と思いまして」
しっかりと頷く。龍狩さんは居心地悪げに眼を逸らした。
時計を見る。一九時半すぎだ。塩たんをゆっくり味わう時間は十分にあった。
「そういうわけで、たぶん帰り、そこそこ遅くなりますけど、大丈夫ですか?」
「全く問題ありません。夜更かしも徹夜も、張込みで鍛えられてますから。塩たんもありますし」
ひと口目をもっと味わってもよかったな、と思った。
力を込めてもう一度頷くと、龍狩さんが、よかった、と気を取り直した笑みを見せる。
「できれば今日中に、かたをつけたいんですよ。何も出なければ、警察にお任せできたんですけど、はっきり、見えちゃいましたから」
ははは。
「……仕事が溜まってますもんね」
後半には、あえて触れなかった。
この人の入院中も通報は絶え間なく寄せられていた。そのなかには、当然、なんか変な事案もあるはずだ。早く片づけるに越したことはない。
と、思ったのだが、龍狩さんの意図は別のところにあるようだった。
「それもあるんですけど」
そっくり返った海苔を貼り直しながら、言う。
「逸軌さんの睨むとおりなら、害獣としてさっさと潰さないと、危ないですから」
ぱん、と。
頭の中で、奥さんが爆ぜた。柏手の音とともに。
「——」
それはとても、嫌な想像だった。
そして同時に、当然の話だった。
害獣は潰す、現象は消す。自分からその話題を振りもした。そして、恨みがあるなら、攻撃するつもりで出てきているなら、害獣だ。わかりきった話なのに、横から殴られたような心地になっていた。
龍狩さんが、あ、という顔をする。すまなそうに眉を下げる。
「——」
「大丈夫です」
先んじて口を開いた。謝られるのだけは、嫌だった。龍狩さんを責める理由など、どこにもない。真面目に仕事をしているだけだ。つらければこなくていい、とまで、言ってくれている。
「……なら、よかった」
責めるとすれば、想像力が足りなかった、俺自身だ。
——関係者が感情的になるでしょう。故人が絡むと。
あれはひょっとしたら、俺のことも頭にあったのかもしれない。舌の奥が苦くなる。
「……ただ、例えばなんですが」
だけど俺には、まだ割り切れそうになかった。
「もし奥さんが旦那さんを攻撃しようとしている、害獣、だったとして」
考え考え、言葉を吐き出す。まるで時間稼ぎだ。手許を見つめる視界のすみで、暗い眼が光を返した。待ってくれている。
写真のなかの無邪気な笑顔が、頭をよぎる。
「……自分が説得できたら、攻撃の意志を治めてもらえたら、現象として、消す、というわけにはいきませんか?」
彼女を、あの生臭い液体にしてしまうのは、忍びなかった。消すところを見たことがないから何ともいえないが、少なくとも、あれよりはましだと思いたい。
反対されるかと思ったが、龍狩さんはあっさりと頷いた。
「構いませんよ」
「いいんですか……?」
「納得できるのが一番ですから」
わからない、納得できないことのほうが多い仕事だから、とは、言わなかった。だが、そういう意味なんだろう。
頭上の電灯の光を、茂った木々が遮る。斜め前、視界の端で、つま先が暗闇を蹴った。革靴の先が光の下にはみ出す。砂に、丸っこい影が落ちた。
「ただ、おばけとは会話にならないことが多いので、そのときは……」
「諦めます」
きっぱりと応じた。暗い眼が夜の底を映す。
「す……」
「ありがとうございます。わがままを聞いてくださって」
謝られそうなので、遮った。間をおかず、言葉を続ける。切り替える。
「しかし、怨念だと仮定すると、怨敵の晩飯の準備、しますかね」
しっくりこない。生前の習慣だから、といわれればそうなのかもしれないが。
「確かに、変な感じですね」
さらっと引いてしまった。ひょいと最後のひと口を放り込む。買うのを躊躇った割に、ありがたみの薄い食べっぷりだった。
「……龍狩さんは、どう見てるんですか?」
怨念以外に、化けて出る理由があるのだろうか。
死んでもあんなにくっきり残るほどの思いなど、俺にとっては想像の外だ。
龍狩さんは片手で、鞄にごみを押し込む。
「会ってみないことには、なんとも。でも、怨念かって言われると、そんな感じはしませんね」
「何か、見えたり感じたりしたとか?」
「いや、写真、仲良さそうだったので」
「………」
判断基準が平和すぎる。自分がおかしい気すらしてきた。
痩せた手が、ズボンで海苔を払う。ポケットから端末を抜いて、ほら、と画面を見せてきた。
「奥さんは旦那さんのこと、大好きだったみたいですし。旦那さんも、奥さんのこと、大好きそうでしたし」
例の写真だ。確かに、この幸せいっぱいの笑顔が、怨念に転じるとは信じがたい。
「……心霊ちょっといい話、的な感じだと?」
「めちゃくちゃネット怪談読んでますね」
ははは。
しかし、感動話にするには通報者の反応がひっかかる。何の蟠りもないのに、大好きな人が帰ってきて、通報するだろうか。通報するようなことを、帰ってきた人からされるだろうか。
写真のなかの、通報者の顔を見る。龍狩さんが『大好きそう』と評した顔。その印象は、奥さんの幽霊が出ていることが確定したせいで、変わってしまっていた。照れ笑いが、ぎこちなく含みを持っているように見える。何か、他意があるように。
「……このあとふたりの間に何があったか、わからないですよ」
「なるほど。それで、愛しさ余って憎さ百倍に」
手応えのない返事だった。意見を言うと、簡単に同意する。本当に、結論を急がない男だ。
ふっと画面が暗くなった。不満げな俺の顔が映る。その肩越し。
後ろのベンチに、誰かいる。
「——っ!」
振り向いた。
空色のワンピースがふんわりと揺れる。疲れたように肩を落とす。うつむいた頬に、長い髪がかかった。すだれのような黒髪の狭間に、仄暗い瞳が覗く。頭上から注ぐ冷たい光を鈍く返した。
「奥さん……っ」
立ち上がる。膝から、おにぎりの器が転げていった。
いない。
瞬きの一瞬で、消えてしまった。あの、横顔。伏せられたまつげの奥の、暗い瞳。
「………」
何のためにおにぎりを選んだのか。
「……すみません、龍狩さん」
歩きながら食えるからだ。
「やっぱり自分は、奥さんを探します。龍狩さんは……」
ゆっくりどうぞ、と、最後まで言えなかった。振り返った先には、龍狩さんがしゃがみ込んでいた。じっと何かに耐えている。その左手には、俺の落としたおにぎりがあった。行儀よく、プラの容器に収まっている。包帯が白々と光った。
「だ、大丈夫ですか! すみません、手……おにぎり……!」
謝罪と感謝と心配がごっちゃになって口から出る。
「落ち着いて。とりあえず、どうぞ。死守しました」
神妙に、食いかけのおにぎりを差し出してくる。奮発した、俺の塩たん。
「ありがとうございます……」
つられて、受け取る手つきが恭しくなってしまった。
地面を見る。具も米も落ちていない。日中の龍狩さんからは、想像できない運動能力だ。新たな驚きに、幽霊を見た驚きが上書きされてしまった。促されるまま、ベンチに戻る。
龍狩さんは左手をさすりつつ、隣のベンチに視線を投げた。もう、誰もいない。
「今ので、ふんわりはっきりしたんですが」
どっちだ。
「たぶん、探しても追いかけても、無駄です」
「……どういうことですか?」
答えを急がない男の断言だ。自然と前のめりになる。
「奥さん、他人に用はなさそうなんですよ。見かけてもすぐ、消えちゃうし、目撃情報も、一瞬だったでしょう」
スーパーでの一件が頭に浮かんだ。奥さんの近くにいた女性は、存在に気づいてすぐ、見失っていた。
「定番怪談にしろほっこり怪談にしろ、奥さんは、旦那さんしか見えてないんだと思います」
通報者の、異様な振る舞いを思い出す。奥さんが旦那さんしか見えていないとしたら、逆に、旦那さんはどうなのか。
「………」
思うことはおそらく同じなのだろう。暗い眼がこちらを向いた。鋭い線が、少したわむ。笑う。
「ゆっくり食べて、ゆっくり待ちましょう」
張込みは慣れてるんでしょう?
「……はい」
ぐうの音も出なかった。