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(二)

 目撃情報のあったところを回ることにする。ひとまず、住宅街からだ。

 目撃場所はばらついていた。よって目的地はない。とにかく、歩く。

 日没はまだだったが、建物の密集した住宅地はすでに薄暗い。庭木は光合成をやめて、音もなく呼吸している。呼気は熱を吸ったアスファルトに炙られて、汗をかいた顔を撫でる。風のない通りは、ゆっくりと淀みはじめていた。

「おばけって、どう探したらいいんですか?」

 視線が向くのはどうにも、人の隠れられそうな場所だ。教えを請うと、先輩は少し考える素振りを見せた。口が薄く開く。なかなか喋らない。

「…………私はおばけ、逸軌さんはいたずらの犯人を探す、ということで」

 説明できないのか、面倒だったのか。はたまた、警察と組む理由がそこにあるのか。いずれにせよ、了解した。会話はそこで途切れる。

 そろそろ食事の準備が始まるころだろうに、家々は静まり返っている。厚い壁が、生活の気配を翳ませる。人声に似た音がするのは、気のせいだろうか。絞られたテレビの音だろうか。見えないところで、ひそひそと語らっている。耳を澄ますと遠ざかる。途切れずに、ついてくる。

「……幽霊、って、どんなものなんですか?」

 思わず口を開いた。やはり、声が響く。自分の声が、まとわりつく密談を追い払う。近所を気にして黙っていたが、そうもいっていられなかった。あらゆる音が、耳許で聞こえるようだ。

「怪談話に出てくるの、そのままなんでしょうか」

 言葉を続けて、ちょうどいい大きさを探る。絞っても、響く。

 龍狩さんは囁くように応じた。

「こんなこと言うとあれですけど、私はあんまり、死んだ人間が化けて出るとは思いたくないんですよ」

 鋭角の横顔は、何気ない様子で周囲を観察している。俺も視線をうろつかせる。四辻、軒先、電柱の影。薄闇が溜まったところを、ひとつひとつ確認する。いないということを、確認する。内緒話の音量で、問いを重ねた。

「全然関係ないおばけが、亡くなった人の姿を取る、ってことですか?」

「……というのとも、ちょっとちがっていて……」

 龍狩さんが言い淀む。説明を考えている。前任者には、どう伝えていたのだろう。会話の隙間に、見えない何かの声が挟まる。

 ふと、視線が通りの先に留まった。

 ここから真っ直ぐいった、丁字路。遠く、電柱の下に、人が立っている。切絵を貼ったように黒い。か細く、寂しげな立ち姿だった。

「心残り、って、いうでしょう」

 密やかな声が言った。俺は影から眼が離せない。

 こちらに横顔が向いている。道の向こうから来るはずの、誰かを待っている。

「死にたくなかった、とか、死んでしまって悲しい、とか」

 影は所在なげに揺れる。時折うつむく。近づくほどに輪郭だけが際立つ。顔が見えない。揺れる。身じろぐ。伸び上がる。

「死なせたものを許さない、とか」

「っ——……」

 影に、小さな塊が飛びついた。背中で跳ねたのはリュックサックだろう。手を取り合って歩き出す。

 肩の力が抜けた。緊張していたことに、気づいた。

「そういう気持ちが残って、遺された人たちの気持ちと混ざって、まとまって、幽霊と呼ばれる、ということにしています」

 まあ、わかりませんけどね。

 声の温度が先ほどと違う。少し笑っていた。怖がっていたことが、ばれている。

「……残留思念、ってやつですか」

 ごまかすように、ネット知識を披露する。小さな吐息。笑われた。

「かっこいいですね、それ。今度からそう言います」

 誰に言うつもりだ。

 悔し紛れに横目に睨むと、そこには誰もいなかった。

「——」

「逸軌さん?」

 弾かれたように、声を辿った。龍狩さんは俺の後ろにいた。ゆるく首を傾ける。

「隣に誰か、いたんですか?」

 視線を再び隣へ、そして道の先へ向ける。

 曲がり角、ブロック塀の向こうへ、スカートの裾が消えていくのが、確かに見えた。

 水色。

 咄嗟に走り出す。

「あ、ちょっと」

 龍狩さんが追いかけてくるのが、音でわかった。そのまま、全力で走る。角を曲がる。

「わっ!」

「わあ!」

 声がふたつ、重なった。

 角の先には、女性がひとり立っていた。黒いTシャツに黒いスキニー。驚いた顔は、まだあどけない。大学生くらいに見えた。

 間違いなく、奥さんではない。

「………」

 彼女の向こうに人影はない。ただ薄暗い道が続いている。気のせいだったのか。

「……あの……?」

 女性が訝しげに声をかけてきた。身構えている。怯えている。無理もない、突然でかい男が飛び出してきて無言で遠くを眺め出したら、それは怖い。おばけよりも現実的な危機で、それが今の俺だ。

 まずすぎる。

「あ、ええと……」

 咄嗟に言い訳が出てこない。顔が引きつる。女性がそっと後退る。そこへ、柔らかい声が割って入った。

「うわあ、すみません、びっくり、させちゃって。大丈夫ですか?」

 ひょいと俺の隣に並ぶ。息が弾んでいた。膝に手をつく。肩を上下させる。ぽたぽたと、汗がアスファルトに落ちた。

 あの距離で、これか。

 助かったと思うよりも先に、驚いた。女性も、続け様に登場人物が増えて、眼を白黒させている。怯えも霧散してしまったようだった。龍狩さんはふらつく腕で名札を掲げる。

「わたくし、役所の、者です。こっちは、警察の人。ほら、身分証、見せて、見せて」

「あ、はい。……驚かせて申し訳ありません」

「いえ……大丈夫です……というか、大丈夫ですか?」

 女性が、座り込みそうな龍狩さんに手を差し伸べる。顔には心配がありありと浮かんでいた。俺のほうが心配になるほど、優しい子だ。

 龍狩さんはふらふらと手を振って、問題ない意を示した。掲げられた手首には芯がない。折れた上体をゆっくりと起こす。ひっくり返るんじゃないか。半歩下がって身構える。受け止める準備をする。龍狩さん越しに女性と眼が合った。彼女もまた、支える準備をしていた。笑みを交わす。俺は苦笑、先方は照れ笑い。龍狩さんは、気づかない。

「おばけが出るって、何度も、通報がありまして。出たかと思って追いかけてきたんですけど……見ませんでした?」

 痩身は危うくもまっすぐ立った。弱った顔をして見せる。復活は早いようで、だいぶ息は落ち着いていた。女性は心配そうだった顔に、可笑しげな笑みを乗せる。

「お兄さんのほうが、おばけみたいですけど。なんて、すみません」

「ああ、これ。ははは、あちこちで、おばけと戦っているものですから」

 包帯にくるまれた腕をさする。ない力こぶを、作って見せる。率直に、弱そうだ。女性は軽やかな笑い声を上げた。

「何ですかそれ。あはは」

 嘘ではないのに、冗談だった。どんな傷があるのかは、外から見えない。

 女性はふと笑みを消した。瞳の奥に、興味と遠慮が覗く。

「……おばけって、もしかして、そこの家の奥さんですか? 最近、噂になってますよね」

 具体的な話をする前に、話が通じてしまった。思わず龍狩さんと顔を見合わせる。女性に向き直った。つい、前のめりになる。

「もしかして、見ましたか?」

 声だけは何とか低く抑えた。意図せず芝居がかった振る舞いになる。

 笑われてしまうだろうか。

「………」

 女性は笑わなかった。口許に手を当て、少しうつむく。長いまつげを伏せて、視線を巡らせた。記憶を手繰ってくれている。

 大きな瞳が、ちら、と周囲を確認した。誰もいない。おばけも、近隣住民も。聞いているものはいない。

「……私は、一回だけ」

 こっそりと、笑えないいたずらを、告白するようだった。

「見たっていうより、誰かに追い抜かれたな、って思ったのに、誰もいなかった、みたいな感じですけど。この辺に住んでる友だちは、カーブミラーに映ってるのを何度か見たって言ってました」

 曲がり角の多い土地だ。あちこちにカーブミラーがある。

「この辺、意外と車が通るから、歩いてるときも、結構カーブミラー、よく見てて。その友だちも、そうで。あー、向こうの角から、人が来るなあ、とか、あのワンピース流行ってるのかなあ、とかって思ってると、曲がり角ですれ違うはずなのに、消えちゃうんだ、って」

「………」

 これは、どう判断すべきか。

「最近、一緒に歩いてると、急に身構えるときがあって、どうしたのって聞いたら、教えてくれたんです。なんか、生きてる人と見分けがつかないらしくて、それで」

 いつか、行き合っちゃったら、どうなるのかな、って。

「——……」

「想像したら怖くって、だから、カーブミラーに人が映るとどきっとしちゃうんだそうです」

 そう、話を締めくくり、細く息をついた。はにかむ。怪談話を真剣にしてしまった気恥ずかしさか、不安をごまかすためか。頬のあたりが少し、ぎこちない。

「なるほど。怖いですね」

 全然怖くなさそうに、龍狩さんが言う。

「そうなんですよ」

 女性が頷く。纏う空気が、冗談みを帯びる。けれど、笑い話にしきれないのか、ふっと首を傾げた。髪が肩に溢れて、内側だけ染められた色が覗く。

「本当に、おばけなんでしょうか?」

 白い首の向こう、インナーカラーの赤が、夕暮れと混ざり合った。


 ◯


 平日、夜のスーパーは混み合っていた。思わずこぼす。

「これだけいると、幽霊が混じっててもわかりませんね」

 話を聞かせてくれた女性に教えてもらった店舗だ。奥さんは社交的な人だったそうで、大学生の彼女とも幾度か言葉を交わしたことがあったらしい。生前の奥さんと馴染みのある場所をいくつか教えてくれた。花屋、ケーキ屋、公園。

「ついでに晩飯も調達しましょう」

 という龍狩さんの意見に賛成して、スーパーに来た。時刻は一九時を回っている。すっかり腹が減っていた。

 大学生が、何でもあります、と豪語していた店舗は、広い。そこにぎっしり、人と物が詰まっている。向かってくる手押しかごを避けながら、ちらりと近くの惣菜を見た。うまそうだが、少しお高めの値札が貼られていた。客層が比較的裕福だからだろう。とんかつは諦める。そもそも、このあとも歩き回るのだから、片手で食べられるものがいい気がした。

「龍狩さん、何にしますか?」

 買出しを提案した割に、妙に静かになった男を肩越しに振り返る。まさか、何か見たのか。

「なんでもいいです」

 完全に後悔している顔だった。人の群れに腰が引けている。長身を縮めて俺の影に収まろうとしていた。

 横幅はがりがりなんだから、縮む必要なんかないだろうに。

 苦笑していると、深刻な眼差しとぶつかった。ぎこちなく唇の端が上がる。明らかな愛想笑いだ。

「逸軌さんの行くところで、選びます。都会人の力で、なんとか道を切り開いてください」

 入って一分、既に疲れきっているようだ。早く出たいと顔に書いてあった。ちょっと面白い。

「龍狩さん、地下鉄とか乗れないでしょう」

「乗れますよ。乗らずに済むなら、乗りませんけどね」

「それも『乗れない』のうちでは」

「現実に乗ってはいますから、『乗れる』です」

 言い返してくるあたり、気にしているらしい。

 パーソナルスペースが広いのだろう。よくよく見れば、俺の影に隠れながらも距離はきちんと取っている。近くを人が通るたび、避ける。相手に失礼にならないように、という気づかいが透けている。控えめな動作は、長いこと繰り返されてきたものに見えた。

 前任者が、なかなか仲良くなれない、と言っていたのは、これのせいだな。気づきを得て、ひとり頷く。

 すると、おもむろに頭を下げてきた。冗談じみた真剣さだ。

「……反論して、すみませんでした。力を貸してください。よろしくお願いいたします」

 堅い。厳かですらある。思わず吹き出してしまった。龍狩さんは怒らない。俺が動きだすのを待っている。

「じゃあ、とりあえず、パンかおにぎりを探しましょうか」

 内容はさておき、頼られて悪い気はしない。人の波を縫って、歩き出した。背後の気配は黙々とついてくる。つかず離れず、尾行がうまい。何かと入れ替わる隙は、なさそうだった。

 店内は冷房が効いていた。冷蔵ショーケースからの冷気と合わさって、寒いくらいだ。奥へ進むごとに、冷えていく。汗ばんだ肌に鳥肌が立つ。腕をさすりながら、思いを馳せた。

 奥さんも、あの薄いワンピースでここを歩いたのか。あの、通報者のために。

 おばけになっているとしたら、何をそんなに思い残しているのだろう。

 旦那さんの通報でここにきている、彼の味方になるためにきているとわかっていても、疑念が頭のなかを渦巻いた。職業病なのかもしれない。俺はまだ、刑事でいるつもりなのかもしれない。

 おにぎりを見つけて、足を止めた。ポップによると、店で握っているらしい。ディスプレイはずいぶん歯抜けになっていた。定番と、変わり種、そしてややお高めのものが残っている。

「いくら……」

 隣からつぶやきが聞こえた。苦悩が滲んでいる。とんかつを諦めた者として、気持ちはわかる。いくらおにぎりについている値札は、他のものより少し高い。

「ここまで苦難を乗り越えてきたんですから、いっちゃいましょうよ」

 無責任に唆した。かくいう俺は、塩たんに釘づけになっている。高い。

「そうですね……今夜は、まだまだ歩きそうですし、力をつけておきたいですよね」

 無責任な唆しが返される。

「………」

「………」

 腕を組んだ。並んだおにぎりから、人々に眼を転じる。一度、塩たんを忘れてみようと試みた。そもそもここへは、奥さんの幽霊を探しにきている。周囲の確認は必要だろう。

 壁沿いのおにぎり売り場から、店舗内を見渡す。棚があるので全貌は確認できない。視界に入る人々に、一人ずつ焦点を絞った。

 子ども連れの親御さんに、弁当の前で肩を並べる作業着の男性たち。

 何を考えているか、どんな暮らしをしているか、本当のところはわからない。

 野菜売り場の前にうつむいて立つ女性、冷凍食品の前で立ち尽くす老人。

 あの顔の下に、苦しみや怨みを溜め込んでいる人がいるのかもしれない。幽霊のふりをして、嫌がらせをしてしまうほどの。もしくは、死後も、残ってしまうほどの。

「………」

 塩たんは頭から離れない。おにぎりの売り場に視線を戻す。

「……——」

 何か、違和感があった。振り向いて視線を巡らせる。子どもがはしゃぎ、お母さんがその手を引いた。選んだ弁当を見せ合い、笑う顔。老人は担々麺を手に取った。レタスをじっと見据える女性の横顔。黒い髪が肩を滑り、頬にかかる。影が落ちる。

 隣でキャベツを見ていた女性が、弾かれたように顔を上げた。首を傾げる。またキャベツに眼を戻す。手前を人が通り過ぎる。

「——」

 消えた。

「龍狩さん……」

「見ました。隣の人は見えてなさそうでしたけど」

 あれ、奥さんでしたよね。


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