第二事案 後夜祭(一)
五月に亡くなった妻のふりをして、誰かが嫌がらせをしてくる。
通報は夫からのもので、要約するとそういうことだった。
「通報のたび、警察のほうで見回りはしてくれているようですが、何も見つからないし、通報は繰り返すようなので、まあ、何か変だなーとなりまして」
「夫に殺された妻が無念を晴らすために化けて出ていますね」
「……逸軌さん、ネットで怪談、読みました?」
読んだ。この手の話は唸るほどあった。どれほど読み慣れても、恐ろしいものは恐ろしかった。
おばけはいると知ってしまったから、なおさら。
それに。
「過去の事案にも、ありましたよね」
「あったことは、ありましたけど」
やんわりした返事だ。笑っていいのか、褒めればいいのかわからない顔をしている。飲みかけた水をテーブルに戻して、膝に腕をついた。視線をパソコンの画面に投げる。
「そういうのって、だいたい最初から事件化してるんですよ。不審死として、原因は何だ、犯人は誰だ、って」
今回は病死ということになっているらしい。出先で倒れて、病院に搬送され、そのまま亡くなったそうだ。医者の調べでも、不審な点はない。当時、通報者は商談中で、死に目に間に合わなかったということだが、夫婦仲もすこぶる良好だったと近隣住民も話しているそうだ。
だが。
「誰も疑わないからこそ、ということもあるのではないでしょうか」
「うぅん……一理ある気がしてきますね」
嘘くさい。新人の熱意に水を差していいのか迷っているのが、透けて見えた。笑った唇の形は、優しい。俺のじとりとした視線に気づき、ペットボトルで隠した。水が跳ねる。
「龍狩さんはどう考えているんですか?」
「私は、ほら。よくわからないなあ、と」
ははは。
例によってこれだ。ひょっとしたら、答えを急がないようにしているのかもしれない。しかし、仮説くらい立ててもいいのではないか。向ける眼差しが、自然とぬるくなる。じっとりと湿る。
黒い眼がちらりとこちらを見た。視線がぶつかり、押し返されるようにパソコンに戻る。そうしてやっと、「それに」と言葉を足した。
「犯人がいるとして、人間の事件を捜査するのは、警察の仕事ですしね」
暗い瞳の奥で、ひんやりした光が閃く。
「——」
「さすがに、何か決定的な証拠、とか、そういうものが出れば、特環事案でもそうじゃなくても、共有はしますけど」
私たちの仕事は、おばけに対処することですから。
「………」
つまり、被害者であっても、おばけであれば味方できない、ということだ。
ぐっ、と胸が苦しくなった。
「そういうわけで、しんどそうなら今回は私一人で、大丈夫ですよ」
気づかいの形をしていたが、そうではないことはいい加減わかっている。静かな眼が俺を観察する。じっと見返す。
「いや、いきます」
文句はない、という顔をして見せる。
「……そうですか。では、今回もよろしくお願いします」
薄い笑みと、軽い会釈。相変わらず手応えがない。わかりやすく嫌がってくれたほうが、まだましだ。足手まといにもなれていない。現場の構成要素として、諾々と受け入れられた感覚があった。
お客様扱いは、案外応える。
腹の底から、息を吐いた。膝の上で拳を固める。ここで萎れるほど素直なら、異動などしてこない。
「……そもそも、自分は奥さんの無念を晴らしたくて、云々しているわけではなくてですね……」
正直なところ、無念があるなら晴らしたい。龍狩さんも、見るからに信じていない。どちらも今は、置いておく。置いて、胸を反らした。
「怨みがあるかないか——おばけに他者を攻撃する気が、あるかないかで、対処が変わってきますよね?」
読みあさった報告書から得た情報だ。頭に詰め込んだのはネット怪談だけではない。
「害獣は『潰す』で、現象は『消す』なのには、何か理由があるんですか?」
つり目が瞬く。黒い瞳が人工的な光を返す。鋭い眼が丸くなっていた。
どうだ。
「……報告書、丁寧に読んでくださったんですね」
そこか。
想像以上に期待されていないことがわかってしまった。めげない。
「読みますよ。自分のために書いてくださったわけですからね」
暗に、俺はもう身内だぞ、あなたの相棒だぞ、と示してみる。なるほど、と頷かれる。
「その辺は、あんまり気にしなくて大丈夫ですよ。完全に、私の感覚の問題ですから」
通じていない。雑に流そうとする。黙って続きを待つ。空調の低い唸りが、狭い事務室を満たす。テーブルではノートパソコンのファンが回りだした。龍狩さんは、呻きだす。納得していないことは伝わったらしい。
「……なんか、害獣……攻撃するつもりのあるおばけ、って、がっしりしてるんですよ。で、現象のほうは、ふわっとしてます。そういうとこで、やり方に差が出るんです」
本当に感覚的な話だった。
「もう一歩、もうひと息、わからせてくれませんか……」
だめ元で食い下がってみる。痩せた首がふらふらと倒れる。前、後ろ、前、横。一応、考えてくれているらしい。最後に、天井を仰いだ。背もたれに後頭部が乗る。
「……焚火は踏み消す、灯火は吹き消す、という感じかなあ」
想像する。
「どうですか?」
理解し難い。
が。
「なんとなくは……わかったような気がします。気持ちの問題ですが」
「十分ですよ。私も、そのくらいしかわかっていません」
ははは。
諦めて、割り切っている。俺もいつかこの境地に辿り着けるのだろうか。自信がない。
痩身が再び前のめりになった。萎れた植物に似ている。やる気よりも、気だるさが目立った。
「で、害獣か現象かの判断の前に、なんですが」
痩せた指を二本立てる。ピースだ。
「幽霊騒動って二種類に分けられまして」
どうやら、よくわからないなりに指標を示してくれるらしい。姿勢を正す。傾聴の姿勢だ。
「おばけが出ている気がするだけか、おばけが出ているかです」
指が順番に存在を主張した。ぱたぱたと、空気を弾く。冷えた空気をかき回す。
「いずれにしても初動は同じです。関係者に話を聞いて、目撃情報を辿って、原因を探します。で、おばけなら私たちで対処すると」
事件捜査とやることはそう変わらない。人の代わりに、おばけを警戒する。そのおばけの正体がなんであろうと、出れば対処する。
涙ながらに無念を訴える女性が頭に浮かんだ。打ち消した。怪談話は案外、勧善懲悪のものが多かったな、と思った。
龍狩さんが腰を浮かせる。
「というわけで、事前準備はあんまりないです。出発時間まで、のんびり仕事していてください。今日も歩きますから」
「あ、すみません」
呼び止める。暗い瞳がこちらを向く。
「もうひとつ、聞いても?」
「なんでしょう」
再び、腰を落ち着ける。持ち上げかけたパソコンを机に戻す。ソファベッドが軋んだ。固いくせに、くたびれている。
「好きじゃないのは、どちらですか?」
本当に出ているのと、気のせいなのと。
害獣と、現象と。
「え?」
そんなこと言ったっけ、という顔だ。とぼけているのかと思ったが。
「ああ……」
言ったな、という顔になった。言ってしまったな、という顔に。熱中症が、あとを引いているようだ。ちゃんと回っていないらしい頭を、軽く下げられる。項垂れるついでのような仕草だった。
「余計なこと言って、すみません。不安にさせましたよね。土地のものと相性が悪いとか、不利とか、そういうのじゃないので、大丈夫ですよ」
ほんのりと、線を引かれた感覚があった。
これは踏み込んでいい話題なのか。溝を作りたくて聞いたわけではなかった。
「……それもありますが、それだけじゃないです」
結局、どちらとも取れる言葉を吐く。卑怯な気もしたが、判断を委ねた。話すか、隠すか。
無言のまま、暗い瞳は俺を見つめた。ふっと逸れる。机の上に並ぶペットボトルを順繰り眺める。
ごまかし方を考えているのかもしれない。
と、思ったのだか。
「……関係者が感情的になるでしょう、こじんが絡むと」
こじん。個人、いや。
「——、そう、ですね」
故人か。
俺がいつも使っていた「被害者」とはなんとも、印象が違う。
乾いて、寂しげだった。
告げられた理由は、思いのほか感傷的だった。虚を突かれて、尖った横顔を見つめる。
「関わり方に、迷うんですよねえ」
へらへらと笑った。この人は刑事ではないのだな、と今更のように思った。
礼を言うと、そこで事前の打ち合わせは終了になった。出発までまだ時間がある。「何かが出ている」というのを前提に、過去の報告書を読み込むことにした。
◯
通報者の家に、一八時ごろ訪ねてみることになった。通報者が勤め人だということと、目撃情報が一九時前から二〇時過ぎに集中していることを考慮した結果だ。
市内では比較的高級な住宅街に住んでいるという。署からは歩いて三十分かからないくらいの距離にあるようだ。龍狩さんが路駐を断固拒否したため、歩いて向かうことになった。
出発前、熱中症対策物資が机に並んだ。龍狩さんが自身の鞄に詰めようとするのを、片っ端から横取りする。
「体力は温存してください。荷物持ちは自分がしますから」
「申し訳ないですよ」
「この程度の荷物、自分には大したことありません」
遠慮を流して、事務室をあとにした。
署は市内でもそこそこ栄えたところにある。目的地は中心街を挟んで反対側だ。足を進めるほどに、人の姿は増えていった。そうでなくとも、夏休みの街には、人が多い。薄着ではしゃぐ子ども、道に広がる若者たち、日傘を差した婦人の団体をかわして、歩く。狭い歩道で、他人の体温と、未だ引かない昼間の熱気が混ざり合った。
夏の一日は長い。
行き交う人たちは、次の場所を目指しているように見えた。ときどき甲高い笑い声が上がる。男女の区別は曖昧だ。街路樹に潜んでいる蝉の声と、ぶつかり合う。隣を歩く男の頭が揺れる。汗が顎を伝う。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ」
交わす言葉は短い。耳に差し込まれる他人の話し声と同じくらいに。行き交う車のエンジン音と、絶え間ない蝉の音と、無数の靴音と。暮らしの音の混ざったなかから、ときどき、会話の切り抜きが浮き上がって聞こえた。意味をなさない台詞の断片が、ぶつかって消えていく。入れ替わり、立ち替わり。
——やっぱそいつやば——
——うすぐだから、が——
——めんなさい、もう——
——いしかったねーか——
——おまえー、ころす——
発した人間の来し方行末を想像するには、短すぎる。生きた人間の言葉かどうかを判断するにも、足りない。
「………」
どちらからともなく、歩調が速まった。
ほどなくして住宅街に入ると、人の影はふつりと途絶えた。文字どおり、閑静な住宅街だ。現代的な作りの一戸建てが、整然と並んでいる。視線を上げると、ところどころにマンションがひょこりと頭を覗かせていた。建物の影が縞状に落ちて、道はところどころ沈んで見える。暗く、うっすらと赤い。暑さも相まって、熾火のようだ。
「静かですね」
自然と声を低める。
「この辺、大抵の人は、自分の家以外に用はないでしょうから。出かけるとき、歩かずに車を使いますしね」
応じる声も静かだ。項垂れた顎先を拭った。包帯が汗を吸う。
「なるほど」
通報者の住まいは、おしゃれな一軒家だった。高い塀から覗く二階建ての家は、真新しく、すっきりとした佇まいだ。道路に面した車庫には、黒いSUVが停まっていた。艶やかな塗装が、迫る夕闇の中にも眩しい。
インターホンを押す。沈黙。顔を見合わせて、もう一度押した。今度はつながった。ただ、スピーカーから聞こえてくるのは微かな雑音のみだ。さーっという、遠くの雨音に似たノイズが、先方の警戒を伝えてくるようだった。
龍狩さんが、ボタンのそばにあるカメラに穏やかな笑みを向ける。先ほどまで滲んでいた疲弊感は、きれいに拭われていた。
「お忙しい時間に失礼いたします。通報いただいている件で伺いました。警察と、市役所の者です」
揃って身分証をレンズの前に掲げる。試すような沈黙の後、ようやく、人の呼吸がスピーカーから聞こえた。
「あぁ……どうぞ。今開けます」
ホワイトノイズが途絶え、門の向こうから、錠を上げる硬い音が響いた。
出迎えてくれたのは、ビジネスマン風の男性だった。俺と同年代だろう。帰宅後、着替えていないようで、立派な体躯を手入れの行き届いたスーツで包んでいた。ただ、積もった疲労が全身から滲み出し、漂っている。しばしば龍狩さんが纏うものとは、種類が違う。幾重にも暗く重なって、当人の輪郭を霞ませていた。整った顔に収まっている眼が、鈍く光る。
改めて名札と手帳を見せると、市役所の人間がいることに少し怪訝そうな顔をした。
「この辺りは裏道が多いので、案内役として協力しております」
雑な説明だ。しかし、堂々と言ったせいか納得してくれた。考える気力がない可能性もある。役所の人間が包帯だらけなことへのつっこみも、ない。そのまま家の中へ案内された。
大きな花壇、庭木の緑が鮮やかな庭、明るい玄関、二階への階段のある廊下は解放的で、最後に通された部屋も、たいそうおしゃれだ。アイランドキッチン、というやつだろうか。広い部屋の中に、台所と食卓とリビングがある。よくわからないが、動画の広告で見た気がする。
若いふたりの理想を、家の形にしたもの、という印象だった。
その眩さが、そこここに落ちる影をこちらの意識にくっきりと焼きつけてくる。
埃を被ったパンプス、布のかけられた姿見、伏せられた無数の写真立て、椅子の背に積み重なったシャツの山、ちらほら飾られている花は、全て枯れていた。
通報者は伏目がちに笑う。
「散らかっていて、お恥ずかしい……妻に、頼りきりだったもので……」
ダイニングの椅子をすすめられるかと思ったが、示されたのはリビングのソファだった。向いにはテレビがある。そこにも布がかかっていた。クッションらしきものはない。俺たちがソファに座れば、通報者は必然的に床に座ることになる。ラグが敷かれているとはいえ、いかがなものか。迷っていると、龍狩さんはごく自然にソファの前の床に腰を下ろした。倣って隣に座る。
通報者はテレビを背にして座った。俺たちと向かい合う。ひととき、力が抜けたような、呆けたような様子でローテーブルに視線を投げた。不自然に安っぽい、テーブルクロスを見つめる。しかし、すぐに我に返って腰を浮かせた。
「ああ、すみません。今、お茶を」
「いやいや、お構いなく」
さすがに遠慮した。
「しかし……」
「公務員ですから、お気持ちだけで」
龍狩さんの台詞で納得してくれたようだ。どこか安心したように、座り直す。
話す準備は整ったものの、切り込み方に迷った。警察に通報があったわけだから、事件捜査と同じ手順でいいのだろうか。しかし、奥さんが亡くなったのは二ヶ月前だ。やや間が空いている。お悔やみの言葉を伝えるべきか。それとも、世間話から始めるべきか。
「お疲れのところ、申し訳ありません。あまりお時間は、取らせませんので」
龍狩さんは気づかいから入った。通報者にはかえって苦しかったようだ。笑おうとした頬が引きつっている。
「いえ、大丈夫ですよ……ははは……以前はよく、残業していましたから……一◯時でも、零時でも、平気で……」
張ろうとした胸が、揺らいで丸まる。萎れた首から肩にかけて、重たい影が差した。龍狩さんは言葉を重ねず、ただ、頷く。否定も肯定もしない。励ましも慰めもせず、ただ、受け取った。次の言葉を相手に預ける。
通報者は俺と龍狩さんを順番に見た。龍狩さんは微笑む。倣って、俺も口角を上げる。どうぞ、と。
通報者は、誘われるように口を開いた。
「……さっそく、なのですが……」
話はこうだった。
奥さんが亡くなってからひと月もしないうちから、近所で妙な噂が囁かれはじめたのだという。
奥さんの幽霊が出る、と。
よく行っていたスーパー、花屋、ケーキ屋、そして、住まいのある住宅街のあちこちで、人々は奥さんを見たという。
最初のうちは、さすがに遺族へ直接言ってくる者はなかった。しかし、少しずつ通報者の耳に入るようになり、ふた月も経つころには遠慮のない——いってしまえば、無神経な人々が、直接助言めいたものをしてくるようにまでなった。お祓いをしたらどうか、供養は丁寧にしたのか。
「気が、滅入ってしまって……嫌がらせだとしても、心当たりがありませんし……心ない人の、いたずらではないかと、警察に、相談したんです」
溜め込んでいたのだろう。通報者は一気に吐き出した。相槌を挟む余地はなかった。吐き出された蟠りを追って、深いため息が零れる。
「おつらいですね」
落ちそうになった重い沈黙を、柔らかい声がすくい上げた。通報者の呼吸が震える。喉仏が上下した。応じようとした声が形にならないようで、飲み込んでいる。何度も、何度も。
あまり、細かく話を聞ける状態ではなさそうだった。龍狩さんの言葉どおり、「時間は取らせない」ほうがいい。
切り込む。
「……奥さまの写真をお借りできませんか? できれば、なるべく最近の、よく着ていた服装のものですとありがたいのですが」
「……なぜですか?」
警戒されている。なるべく真摯な顔を作ってみせる。仕事柄、そういうことには慣れていた。
「自分が犯人なら、そういった格好に寄せますので。生前の、あなたが一番見慣れている姿に」
嘘はついていない。ただ、本当におばけだったとき、顔がわからないのは不便だ。何か見ても、それが奥さんなのか、わからないのでは。
「そういうことでしたら——……」
通報者は端末を出そうとして、動きを止めた。視線を彷徨わせる。端末がポケットから覗いている。黒い画面が、照明の光を返した。
「………」
端末をポケットにしまい直し、立ち上がる。そして、ソファのそばの棚から、伏せられていた写真立てを取り上げ、戻ってきた。
「こちらで、どうでしょうか」
通報者は、写真を見ない。視線はテーブルに注がれている。痩せた手が写真立てを受け取った。両手で、やわらかく。
「……すてきなお写真ですね」
龍狩さんがしんみりと答える。情緒的な対応は任せて、観察した。
ふたりで写っている写真だった。庭先で撮ったものらしい。足許に並べた旅行鞄に囲まれて、身を寄せ合っている。奥さんは通報者の腕を取り、自らの身体に巻きつけるようにしていた。笑っている。無邪気に顔中で笑う女性と、控えめな照れ笑いをもらす男性と。
「ワンピース、よくお似合いですね」
「っ……そう、なんですよ。私が似合うと言ったら、よく、着てくれるようになって……夏物なので、これを撮ったころは、寒いだろうって、言ったんですけど……」
淡い、空色のワンピースだ。確かによく似合っている。
「くっついていれば、平気ですから」
「ははは……そう、そう言って、いました……」
故人を偲ぶ会話が交わされる横で、俺は違和感を覚えていた。なぜ、奥さん一人で写っている写真を出さなかったのか。服装の見づらい、仲の良さばかり前に出た写真を出したのか。
横目に龍狩さんを窺う。気づかわしげな眼差しを写真に、通報者に向けていた。何かを疑う様子はない。それが、ふりかどうかは、俺にはわからなかった。
通報者は目頭を押さえ、滲んだものを拭う素振りを見せる。
「これで、よろしいでしょうか」
再び覗いた眼は、赤い。もとから赤かったのか、どうだったか。
「大丈夫ですよね?」
龍狩さんに問いを重ねられて、我に返った。
「ああ、はい」
写真を要求したのは俺なのに、気のない反応をしてしまった。幸い、通報者に気にした様子はない。おそらく、そんな余裕がないのだろう。龍狩さんはズボンのポケットから端末を取り出した。
「撮らせていただいてもよろしいでしょうか。お借りして、汚してしまったら大変なので」
「ああ。どうぞ。お気づかい、ありがとうございます……」
写真立てをテーブルに据え、二人揃って端末で撮影した。画面に表示される、写真の写真を見つめる。白いフレームに囲われた、明るい光のなかの、若い夫婦を。
端末をしまって、部屋に眼を向ける。白々と明るい。すべての電球に明かりが灯っている。扉のすり硝子越しに見える廊下まで、電気がついているようだ。
それでも感じる、このほの暗さは何なのだろう。
通報者の疲弊感か、不幸のあったせいなのか、電球のワット数か。薄墨を刷いたように、部屋の空気はくすんでいた。
「犯人に、お心当たりはないということでしたが……」
暗い瞳が、キッチンを一瞥した。カウンターの向こう、煌々と灯りがついている。がらんとして、誰もいない。
「お家の中で、たとえばお庭とかで、何か見かけたことはありませんか?」
「見るわけがないでしょう」
鋭い声だった。湿度のあった空気が、ひとときに凍りつく。
突然の変化に、さすがの龍狩さんも息をのんだ。
「——ぁ」
「何を疑っているのかは知りませんが、家の中に何かあれば、最初から言っていますよ」
通報者の全身が拒絶を示していた。盛り上がった肩や、剥き出した歯や、見開いた眼が。
「お気を悪くさせてしまって……」
「そろそろ、いいでしょう。疲れてるんです」
弁解が宙に浮く。こちらを睨みつける眼の奥で、激情がぎらつく。
「私には何もわからない。早く、狂ったやつを捕まえてくださいよ」
結局、名刺だけ置いて、辞した。
◯
家々に阻まれて、ここまで西日は届かない。東の空が薄っすらと藤色に染まっていた。
「いやあ、失敗しました。無神経でしたね」
ははは。
へらへらと笑っている。気にしていないふうを装っていたが、薄い肩はこわばっていた。おばけは怖くないくせに、手のひらに穴が開いても平然としているくせに、怒った人間は怖いらしい。
インターホンを見る。耳を澄ませる。つながってない。
「自分は、そうは思いません。いたずらを疑うなら、別に、妙な質問ではなかったですよ」
むしろ、と、背後の家を振り返る。どの窓からも光が漏れている。二階では、夕焼けにカーテンが赤く染まっていた。
あの、突然の怒りを思い出す。過去に何度か、見たことのある光景だった。
「あれはどちらかというと、何かを隠している証拠だと思います」
警察にいるとき、何度も見た姿だった。
疑われたわけではないのに、疑うなと怒りだす、容疑者の。
「まだ、疑ってるんですか?」
怪談の、定番展開。
龍狩さんが横目に聞いてくる。まだ、ということは、相棒は疑っていないようだ。隣で、半身に家を振り返った。白い壁が西陽を反射する。鋭い眼を細める。ふらふらと頭を振る。暢気な立ち姿だ。
「……不自然だったでしょう、どう見ても」
どことなく異様な室内の様子も、通報者の振る舞いも。なにより。
「わざわざ仲の良さそうな写真を出すわ、奥さんの写真を見ないようにするわ。後ろめたさが丸出しでしたよ」
殺した、とまでは言わないが、あの通報者の不可思議な言動を見ると、疑ってしまう。何か、奥さんを傷つけるようなことをしたのではないかと。
そうでなくとも、若い成功者は恨まれやすい。
「周りの人間が騒ぐ、という通報内容も合わせると、自分はどうも、あの通報者が恨まれて、つきまとわれているように見えましたね。そしてその原因に心当たりがある。犯人がおばけか人かは、まだわかりませんが」
あの通報者は、何かを隠している。
ひと息に自分の読みを語って、視線を相棒に投げる。そっちはどう思う、と。相棒は正しく受け取ってくれたようで、軽く頷いた。
「まあ、なんか事情がありそうだな、とは思いましたけど」
かき、こき。
頷くついでに、首を回した。俺の熱意などどこ吹く風だ。つられて力が抜けてしまう。首が一周する間、閉じられていた眼が開いた。俺を見る。笑う。
「差し当たり、旦那さんは本当に怖がっていて、近所の人が本当に何かを見ていそうなのはわかりましたから」
調査の理由には、十分かなと。
「……はい」
勇み足になりがちな俺とは、対極にいる。バランスとしては、ちょうどいいのかもしれない、ということにしておく。
急がない男と、通報者の家に背を向けた。