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幕間 誰も知らない。

 特殊環境問題の疑いのある通報について(報告)


 七月十四日付で共有された特殊環境問題の疑いのある通報(令和七年第五一号)につきまして、下記のとおり報告いたします。


 記


 一 調査結果

   当該事案を調査した結果、特殊環境問題(害獣)と判定しました。

 二 当該事案への対応

   当該害獣の危険性および周辺地域への影響を総合的に勘案し、駆除しました。

 三 通報者への対応

   通報受付部署より、通報者および周辺地域住民へ以下の内容を報告することを提案します。

  ㈠ 当該事案は、周辺地域を狩場とする野犬によるものだった。

  ㈡ 野犬は市職員が捕獲し、周辺地域の安全確認も完了している。

 

 以上、よろしくお願いいたします。


 (担当:白骨崎分室特殊環境問題対策係 龍狩)


 ◯


「………」

 A4サイズのコピー用紙一枚を捲った。あとには、通報受付部署から届いた文書が続く。住民向け報告文案の決裁の写しと、通報者からお礼の電話があった旨のメールを出力したもの。それで終わりだ。

 あまりにも呆気ない。素っ気ない。

 事務所の机で、幾度も捲ってしまう。安い紙にしわが寄る。

 一枚目の報告文は龍狩さんが作成した。通報受付部署に出す文だ。コピペを駆使して、僅か五分で完成させていた。

 閉口する俺に、肩をすくめる。悪びれない。

「公的な書類なんて、こんなものです」

 過去の書類を持ってきて、日付の類を変えれば、よし。

 いい加減すぎる気がする。しかし驚いたことに、これで十年近くなんの問題も起きていないそうだ。龍狩さんの前の世代から、こうだという。

 思わず、借り受けた報告書の綴を見やる。まだ中身は見ていない。配属されてすぐ、現場仕事だった。その後は事後処理のレクチャー。いよいよ読みはじめるか、という段にきていたが。

 見る価値のあるものが、綴られているのか。

 不安に駆られていると、ひっそり笑う声がした。

「大丈夫ですよ。細かい報告は、もう少し丁寧に作ってます」

 それは、よそゆきの報告書です。

 見透かされた。思わず眼を逸らす。外部向けだという書類が、再び視界に戻ってきた。やはり薄い。厚みも、中身も。

「……なんというか……簡素、ですね」

 言葉を選ぶ。龍狩さんは事務椅子に背中を預けたらしい。軋みが、空調の唸りを裂いた。

「通報者にとっても、他の部署にとっても、大事なのは解決したっていう事実ですからねえ」

「解決したこと以外わからないですよ、これ」

「速度重視なんです。早く安心したいでしょうから」

 ははは。

 笑って、パソコンに向き直る。キーを叩く手を見る。その動きはぎこちない。右手と左手の調子が合わず、リズムが不安定だ。

 あの晩、結局、医者にはいかなかった。事務室で大雑把に処置をしたのみだ。書棚に押し込まれているコンテナに、必要なものはひと通り揃っていた。今も包帯の巻き方は大雑把なままだ。このまま自力で済ませるつもりなのだろう。あの、深い穴を。

「………」

 苦労自慢をしたい、というわけではないが。

「細かい報告は、どこに提出するんですか?」

 県警の上部か、役所の上長か。知ってくれている人がいるならば、知っておきたい。誰でもいい。

 打ち損じたようで、右手がbackspaceを叩いた。

「どこにも。身内向けですから」

 身内はふたりで、どちらも現場に立ち会っている。

「……誰向けですか?」

 再度、動きはじめようとした手が止まる。指先が天井を向いた。暗い眼も一緒に天を向く。考えている。

「未来の、身内です」

 そして、こちらを見た。最も新しい身内である、俺を。

「少しでも、後任の助けになるようにっていう……まあ、特環伝統の、おまじないです」

 ははは。

 気安い笑い声だ。ぱらぱらとタイピング音が再開する。

 机に積まれたチューブファイルを見た。書棚に並ぶ、報告書綴を見た。おまじないの集積だ。俺に向けられたおまじないの山。

 誰も見てくれない、努力の墓場でもある。

 再び、手元の決裁書類を見る。薄い。

「……これで、本当に関係各所は納得するんですか?」

「本当の話をするよりは、納得してくれます」

 ぐうの音も出なかった。


 ◯


 勤務三日目、出勤して一時間半、時刻はもうすぐ十五時だ。窓のない事務室では、時間感覚が鈍る。ただときどき、遠く、蝉しぐれが聞こえた。

 今日も龍狩さんは席を外していた。行き先はわからない。毎度、ちょっと出てきます、と言うきりだ。聞かれたくなさそうなので、聞きあぐねている。不便はないので、余計に聞きづらい。来客はなく、置き電話は鳴らない。いつも。

 俺はひたすら、過去の報告書を読んでいた。

 「夜中近所に若者がたむろしている」「門柱に、何度消しても妙な絵を描かれる」「夜な夜な、誰かが池に石を投げ込んでいる」……等々。もっとおどろおどろしい通報が山ほどあるのかと思っていた。しかし、よくよく考えてみれば不思議なことは何もない。おばけが出たら、神社か寺に行くだろう。俺でもそうする。

 大抵は、ちょっと迷惑している、という訴えだった。化物が出たとか、幽霊が出たとかいう、いかにも、といったものは稀だった。

 発端は似たような通報が多く、原因は様々で、解決はどれも似たようなものだ。

 龍狩征遥主査が対処した。

 肝心の解決方法が参考にならない。途中経過は紆余曲折ある。だが結局は、「潰した」「消した」で片づいている。ただのクレームも、幽霊騒ぎも、関係ない。

 それでも、数を読むうち、参考になったこともあった。特殊環境問題は大枠、三種類に分類されているようだ。

 害獣、現象、それから、人だ。

 ほとんどが前者二つ。意思を持っているものを「害獣」、意思のないものを「現象」としているらしい。もっというと、襲ってくるのが「害獣」、別に襲う気はなさそうだが害はあるのが「現象」、というように読み取れる。境界は曖昧だ。例によって、よくわからない。

 「人」については、さらにわからない。そもそも、ここまでに読んだ中で「人」に分類されたものは、一件しかなかった。

 令和七年第五〇号——前任者が死亡した事案だ。

 身内向けの報告書は見当たらない。よそゆきの文書が綴じられているのみだった。

 特殊環境問題(人)と判定。係員が死亡。短期的な解決は困難。継続して調査する。

 具体的なことは、何もわからない。「人」が何を意味するのかも、読み取れない。

 龍狩さんにも、聞けていない。

 顔を見ると、問いを飲み込んでしまう。

 頬を隠すガーゼを見ると、喉が支えてしまう。

 昨日、買って返してくれたネクタイをいじる。俺が使っていたものより、質がいい。

「………」

 何度も眼を通した報告書を、閉じた。ため息が漏れる。首を振って、頭にかかるもやを追い払った。

 もう少し、昔の報告書から見るべきかもしれない。

 別の綴を手に取ろうとしたとき、扉が叩かれた。飛び上がる。

「どっ! う、ぞ……」

 はじめての訪問者だ。相手がまるで想像できない。構え方もわからないまま、応じる。「失礼します」という声は、女性のものだった。快活だ。

「あれ、龍狩さん、いないんですか?」

 覗いた顔には見覚えがあった。警務課の人だ。名前が出てこない。年のころは、俺や龍狩さんよりも幾らか上だろう。前髪も後ろ髪も上げている。ほんのり焼けた頬が、爽やかだった。

 この人のことは絶対に知っている。話したこともある。記憶をひっくり返して名前を探した。だめだ、見つからない。

「最近、パソコンを持ってどこかに行ってるんです。自分で足りるようでしたら、自分が」

「ああ、この間、出かけてましたもんね。でも、大丈夫。お目当ては、緋瓦さんです」

 通勤届の不備だった。丁目が抜けている。

「うわ、すみません」

「いえいえ、引っ越したてで書類ばっかで、大変ですよね」

 修正しながら、不安になる。これは、他の書類もぜんぶ抜けているのでは。

 顔に出たのだろう。くすっと笑い声がした。思わず書類から眼を離す。横目に見る。

「こちらで受け取ったものは大丈夫でしたよ。抜けてたのは、これだけです。あとから見つけたら、こっそり直しちゃって、大丈夫ですか?」

 優しすぎて、かえって恥ずかしい。背中が丸くなる。

「よろしくお願いします……」

「了解です」

 人好きのする笑顔だ。体感として、人事担当の人はどこも人当たりがいい気がする。自然、肩の力が抜けた。覚えておきたい人だ。名前はあとで、龍狩さんに聞こう。

 丸い指先が書類をクリアファイルに挟んだ。そのまま退室するかと思ったが、動かない。空の席を見ている。

「やはり、龍狩さんにもご用ですか?」

「いえ、本当に用事はないんです。ただ……」

 ふっと顔を曇らせた。整った眉が、悩ましげに寄る。

「……言っていいのかなあ……んんん……緋瓦さんに、頼んじゃいたい……頼んでいいですか?」

「どうぞ、頼んでください」

 窺う視線に、神妙に頷く。重そうだった唇が、和らいだ。身を乗り出してくる。

「龍狩さんの居場所、なんですけど——」


 ◯


「死ぬ気ですか?」

「え?」

 例の、人の寄りつかない屋外喫煙所に、龍狩さんはいた。

 生垣下の石段を尻に敷いて、あぐらをかいている。丸めた背中は、肉厚の葉のなかだ。何の木かは知らない。こちらへ視線を投げる。瞳は虚ろだ。膝の上には備品のノートパソコン。キーボードの上に両手をぶら下げている。幽霊スタイルだった。生気のない様子だが、指に挟んだ煙草だけはしっかり支えている。

「——……、いつきさん、ですか」

 咄嗟に何か言いかけて、結局ただ、俺を呼んだ。呼ぶ、といっていいかは、わからない。発しかけた言葉の代わりに、音にした。そんな響きだった。

 返事しないまま、トタンで切り取られた空間に、踏み込む。遠慮はしない。龍狩さんの反応は薄い。呆然として、俺を眼で追っている。

 太陽を背にして、向かいに立った。影を作る。眩しすぎる光を遮って観察する。龍狩さんは濡れねずみだった。この男が席を立ってから一時間あまり、妥当な有様だ。傍に置かれているペットボトルは空で、すっかり乾いていた。

 パソコンの端に灰が落ちている。黒い筐体に白い線。湿ったもので擦った跡だろう。左手を見る。雑巾代わりにされた包帯が、煤けていた。額の汗も拭い、そのまま項垂れる。

「葉山さんか……」

 そうだ、葉山さんだ。密告者を言い当てて、ぐっしょり濡れた顔を撫で下ろす。眼には意識のようなものが戻ってきていた。うつむいた顔は、仄暗い。暑さのせいだけでは、なさそうだった。

「苦情はやめてくださいよ」

 思わず咎める口調になる。さらにうつむく。前髪の先から汗が滴った。

「いや、今度、お菓子持ってかなきゃな、と」

 ずいぶん、気にかけてくださるので。

 体力に、余裕がないせいだろうか。口ぶりは平素のとおり、軽い。だけど、どこか煩わしさが滲んで聞こえた。

 アウェイなんですよ、と言い切った声が、耳の奥で甦った。

「……こちら、その葉山さんから。こっちは自分からです」

 経口補水液と茶のペットボトルを並べる。腰を折って、地面に置く。横顔をこっそり見た。弱っていることしかわからなかった。膝の前、パッケージを濡らす水の玉が、あとからあとから伝い落ちていく。暗い眼はそれを、ぼんやりと見送る。手に取る様子はない。ただ、曖昧に礼を言われた。痩せた指が煙草を口に運ぶ。思わずため息が漏れた。

「一昨日、さんざん水分を流したところでしょう」

「頭使う仕事は、吸いながらのほうが、捗るので」

 ははは。

 中毒者の台詞だ。

「化かされたら、煙草を吸え、といいますし」

 言い訳のようにつけ足される。ふう、と吐いた煙が、熱された空気に混じってこちらへ昇ってきた。

「……なるほど」

「あ、わざわざ吸わなくても……」

 はたとこちらを見上げる。その眼の前で、ズボンのポケットから潰れたパッケージと、ライターを引っ張り出した。習慣で、毎朝押し込んでいるものだ。曲がった煙草を引き抜き、唇に挟んだ。火を点ける。慣れてはいる。だが、頻度が少ないぶん、ぎこちなさは隠せない。

 それでも、鋭い眼は丸くなった。

「……吸うんですね」

 若いのに。

 おばけを見たときよりも、驚いている。どうだと言わんばかりに、煙を吐いてやった。

 歳なんか、大して変わらないだろうに。

「吸えるってだけですよ。仕事柄、そのほうが便利だったので」

 最後に吸ったのはいつだったやら。湿気た煙が口の中を満たす。埃っぽい味がした。

 そういえば前任者は、煙草の本数が増えていた。

 化かされる機会が多かったのか、それとも。

 まだ呆けている男を見下ろす。

 向かいにしゃがんだ。日除けを失って、再び陽に晒された顔がうつむく。すっかり短くなった煙草を奪って、灰皿に押しつけた。空になった右手が、次の煙草を求めて、彷徨う。見つけた箱は空だった。煙とともにため息をつく。

「ひとまず、ニコチンより水分を摂ってくださいよ」

 差し入れたペットボトルの下には、水たまりができていた。白けたアスファルトを黒くする。冷やされた大気が、プラの表面に水の粒を作っている。すぐにくっついて、崩れる。経口補水液を手に取った。封を切る。ぱき、という音に反応して、黒い瞳が瞬いた。前髪の隙間から、差し出された飲み口を見る。右手は熱されたアスファルトの上に留まっていた。

「今は、ちょっと……」

 何が嫌なんだ。本当に死にたいのか?

 俺が顔を顰めると、苦笑した。ごまかす笑みだ。

「なんか、気持ちが悪くて」

 点けたばかりの火を消した。

 

 ◯

 

「熱中症って、吐き気もあるんですね」

 驚く声は、暢気なものだった。署内を引きずられて、そのままソファに引き倒された人間のものとは思えない。返事をする気力もなかった。

 事務室の冷蔵庫には、何でも揃っていた。保冷剤に、冷却シートに、湿布に——もしやと思い書棚を探ると、常温の経口補水液が出てきた。この男が用意するとは思えない。

 ここにはいない人間の気配がした。もう、いない人間の。

 棚から振り向くと、龍狩さんは起き上がっていた。ソファに座って、だらだらとパソコンを触っている。その横に、無言のまま物資を並べた。処置を施す。されるがままだ。世話されたいわけではないだろう。抵抗するのが面倒なのか。封を切られていく物資を、ただ眼で追っていた。じっと、どこか、惜しむように。

 ひと通り、手は尽くした。ペットボトルをパソコンのそばに並べて完成だ。お茶、冷たい経口補水液、ぬるい経口補水液。無言の圧力をかける。薄い肩が丸まる。パソコンから離れた手が、少し迷って、ぬるいペットボトルを手に取った。飲み口に唇を寄せる。すぐには飲みはじめずに、頭を下げた。暗い眼はこちらを見ない。

「お手数おかけしまして、すみませんでした」

 そんな言葉がほしいわけではなかった。顔を隠す髪を、見下ろす。睨む。

「人間、おばけがいなくても、死ぬんですよ」

 言ってから、意外に思った。自分の言葉に、不意を突かれた。

 もう、「死ぬ」なんて言葉、口にできない気がしていたのに。

 すんなりと出た。特に、苦しくもならない。

 三つ並んだ時計を見た。三日も経てば、見慣れていた。その事実に気づいて、胸が軋む。

「気をつけますね」

 龍狩さんが、すまなそうに言った。何かを遮るようだった。反応が、一拍遅れる。返す言葉を見失った。いいとも悪いとも言えなくなる。

 沈黙が不自然になる前に、龍狩さんが口を開いた。死ぬといえば、と手招きしてくる。ありがたく、自分の気持ちから目を背けた。

 横に座ると、パソコンの画面をこちらに向けられた。

「これ、見ました?」

 他部署から共有された通報の詳細が表示されている。上からざっと視線を走らせた。

 受けたのは市警、通報は短期間に繰り返されているようだった。最初の通報は二週間前。市内だ。

「こういう事案、あんまり好きじゃないんですけど、そろそろ手をつけないといけなくて」

 ははは。

 笑い声は苦い。口許に添えたペットボトルに反響して、曇った。

 好きじゃない。

 龍狩さんの口からそんな言葉が出てきたことに、驚く。つき合いはたった三日だが、仕事に対して好悪を示すとは思わなかった。鼓動が速くなる。

 通報の内容に眼を通そうとしたとき、静かな声が囁いた。ひっそりと。

「亡くなった奥さんが、うろうろしてるんだそうです」

 


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