(後)
ぱちん、と鳴ったのは、龍狩さんの携帯灰皿か。そんな小さな音にも、肩が力む。池を取り巻く木立の底に、暗闇が溜まっている。その奥から、音がする。獲物を探す音が。
近づいている。先手を打つべきだろうか。手で触れることはわかっている。
音に向けて身構えたせいで、龍狩さんは視界の外に出てしまっていた。
何かから視線を外したくない。だが、頼みの綱が見えないままなのも怖い。
「探されてますね」
声だけがそばにいる。落ち着いている。気を抜いているようですらある。気を抜いてもいい状況なのだろうか。教えてほしい。背後で、無造作に立ち上がる気配があった。
「そういえば、蜩は朝も鳴くって言いましたけど」
あれ、温度に反応してるらしいですよ。
——ねずみ、りす、山鳩、あらいぐま。
ぐっと襟が引かれた。大した力ではない。抵抗するのは容易かった。だからこそ、引かれるに従った。痩せた腕の力に。
「っ」
横ざまに転ぶ。眼前を白い手が横切った。
腰を抜かしている暇はない。すぐさま立ち上がる。周囲を見渡すと、そこここで夏草が揺れていた。ときおり、沈んだところが白く光る。ざらざらとまさぐっている。
囲まれている。
音の源を探って視線を巡らせた。どこもかしこもざわついている。目眩がする。
ふと煙の匂いが鼻先を掠めて、手足の感覚が戻ってきた。悪夢から引き戻されるようだった。隣に長身が並ぶ。
「どうしましょうか」
「——……」
何も言えなかった。咄嗟に言葉を飲んだ。自分が、「逃げよう」と言ってほしがっているのは、わかっていた。同時に、そんな台詞は絶対に、言われたくなかった。
「たつがりさん……」
かろうじて呼んだ声は、掠れていた。黒い眼がこちらを見ているのを感じる。矛盾した心を見透かされるようだった。
視線が外されたのを、肌で感じる。
「状況によっては、柵をずらして終わりにしてもよかったんですけど、これは、今後も人間を食いそうですね」
喉が渇く。
語る声は、乾いている。
「殺しましょうか」
結論は、二人でやることを前提にしていた。
ほっとした。逃げ道を絶たれて、覚悟が決まる。手が腰へ向かった。シャツの下のグリップに、触れる。
「……おばけに銃って、効くんでしょうか」
「おばけによりますけど、肉食のおばけには効くことが多いです」
肉食のおばけ。今回みたいなやつか。シャツを引っ張りだす。その下の得物に手をかけた。
「ただ、このへん人家が近いので、外すとえらいことになります」
的は細く、たくさんある。発砲は控えたほうがよさそうだ。グリップから指を解く。
「……指示を、お願いします」
俺には相手が一体なのか、群なのかすら判断がつかない。自分に何ができるのかもわからない。
囲いは狭まってきている。気が急いた。
「どうするのがいいかな」
龍狩さんは思案を続ける。率直に言って、新人など追っ払ってしまったほうが、効率がいいはずだ。それでも「逃げろ」と言わずにいてくれている。俺の気持ちを汲んでいるのか、何か理由があるのか。指示を聞き漏らさないよう、耳を澄ませた。
「とりあえず、足許に気をつけていただいて……」
即座に足許を見る。白いものが二本突き出していた。
どうすべきかは、考えなくてもわかった。
「——ッ」
「うわ」
振り向きざま、隣の胸ぐらを掴む。勢い任せに痩身を木立の中へ突き飛ばした。視界の端で、白い手が宙を握る。痩身は簡単に吹っ飛んだわりに、重い音を響かせた。
同時に、俺の足首に、冷たいものが絡む。
「——」
悲鳴を飲んだ。冷静ぶる余裕などない。木立からは、ばきばきと枝を折る音がする。体勢を立て直しているようだ。そちらへ走りたくなる。何かの気配が、一斉にこちらを向いたのを感じる。
「うわ、しまった。すみません。今、外しま——」
「来ないでください!」
精いっぱいの、強がりだった。
「処理は任せます! お願いします!」
「ちょっと、手荒になりますけど……」
「任せます!」
もう構っていられない。脚を振る。手は外れない。獲物を捕らえた何かは必死だ。爪がズボン越しに食い込んでくる。綱引き状態だった。縋れるような木はない。腰を落とす。身体を動かしているのが経験か、生存本能か、もうわからない。
間近に見た五指には、白い毛がびっしりと生えていた。生白い地肌が透けている。通報者の話を思い出す。昔、このあたりには、山犬が出た。本当に山犬だったのか。得体のしれなさに鳥肌が立つ。他人を庇ったことを、後悔しそうだった。時間の問題だ。視界にもう一本、現れる。先ほど空気をつかまされた手が、俺を見つけた。加勢する。増えていく。力比べではまだ負けていないのに、腰が引けた。踏ん張ろうとした脚が滑る。これは、だめだ、転ぶ。
「——ッ」
ふつっ、と。
浮遊感とともに、白い手の群が見えなくなった。
そのまま派手に地面へとひっくり返った。どっと、自分の呼吸音と動悸が耳をふさぐ。身体の内側を、騒がしく満たす。その向こうで、夏草の揺れる音がしていた。だが、生き物の立てる音には聞こえない。風か。頭が、状況を飲み込もうと回転する。
龍狩さんが、何かしたのか。殺したのか。手荒に。助かったのか。でも、なら、なぜ。
なぜ、動けないんだ?
全身がずっしりと重い。あちこちがちくちくする。安心したせいだとか、夏草が当たっているだとか、そうではない。まだ、あの手はここにいる。あの丸い爪が、俺を捕らえている。脚が痛い。では、なぜ消えた。
はっとして胸ポケットに手をやった。ない。
髪と爪と血のついた布が——霊感の素が。
転んだ拍子にすっぽ抜けたらしい。
脅威が、五感から消えた。
汗が吹き出す。無我夢中で半身を起こした。暗闇に引き込もうとする力に抗う。歯の根が合わない。呼吸、動悸、奥歯。自分の立てる音で、頭がいっぱいになる。
が。
「——そのままで」
ぱん。
静かな声と破裂音が、すべて払った。
銃声かと思った。それにしてはくぐもっている。音源を探る。
藪の中、龍狩さんの両手が合わさっていた。痩せた腕を池に向けて差し伸べている。夜闇にすっと白く線を引いたようだ。風に吹かれた柳に似ている。頼りない。
柏手だ。
突然、身体が軽くなる。
一瞬遅れて、何かが降り注いだ。感触はないし、見えない。聞こえない。気配だけが、一帯をしっとりと濡らした。
残響が消えて、静かになる。耳に痛いほどの静寂だった。夏草はもう、揺れていない。
「……——」
不意に、ずしりときた。心臓が跳ねたが、違うとすぐに気づいた。この重みは今度こそ、気が抜けたせいだ。これには身を任せていい。その場に転がった。
夜空を見上げる。星は見えない。そこへひょこりと、ばつの悪そうな顔が覗いた。
「遅くなって、すみませんでした。上手く音が鳴らなくて」
両手を合わせて見せる。ごめん、の仕草だ。左手は力が抜けていた。穴が空いている上に、強く打ち合わされた、手だ。血が時計のベルトに溜まり、溢れて肘へと伝っている。包帯もシャツも赤く染めていた。
「だいじょうぶ、ですか……」
「どちらかというと、それは私の台詞ですね」
可笑しそうに笑った。親しげな笑い方だった。それもすぐ、視界の外へ消える。視界は再び、暗い夜空だけになった。
僅かに遠ざかった声が言う。
「少し、休んでいてください」
お言葉に甘えることにした。眼を閉じる。薄い葉が擦れ合う音がする。人の手が夏草をかき分ける音だ。夜気はすっかり冷えていた。大して運動していないのに、全身が汗をかいていた。
「ありましたよ」
程なくして、龍狩さんが戻ってきた。逆さの視界に、黒い巾着が下げられる。夜空よりも、平面的な黒。霊感の素だ。草まみれになっている。探してきてくれたらしい。
「どうぞ。急に見えなくなって、びっくりしましたよね」
ははは。
「ありがとうございます。……絶対なくさないなんて言って、こんなことになって、すみません」
上体を起こす。動けなかったら、と背筋がひやりとした。そんなことはなかった。起こした身体を折る。頭を下げる。巾着を受け取った。
途端、景色が様変わりした。
方々にどす黒いものが飛び散っている。ペンキの入った風船が爆ぜたような有様だ。池の方を中心に、放射状に広がっているようだった。夜闇にも黒々としている。俺自身も、濡れていた。シャツもズボンもべたべたとまだらになっている。生臭い。息が詰まる。込み上げる吐き気を堪える。口許にあてがった手も、粘っていた。
無言で龍狩さんを見やった。苦笑が返る。ハンカチを差し出された。遠慮する余裕はない。受け取って口と鼻を覆う。他人の匂いがした。
「おばけを潰したあとって、見えない人には、夕立のあとみたいに見えるそうですね」
私には、わからないんですけど。
常に見えている男は、慣れているようだった。返事をしたいが、無理だ。さらさらした唾液があとからあとから湧いてくる。幾度も飲み下す。見兼ねた様子で、手を差し出された。
「霊感の素、一回預かりましょうか。手放せば、臭いもしないらしいですよ」
断固として首を横に振った。もう一度言われたら、断れる自信がなかった。無理矢理に口を開く。
「潰した……?」
龍狩さんが手を引っ込めた。そのまま、空の手をじっと見る。
「こう……何というか…………潰しました」
説明をあっさりと諦めた。潰したこと以外、わからない。じっと見る。さすがに悪いと思ったらしい。少し考えるようなそぶりを見せ、言葉を足した。
「私、土地か、土地の何かと相性がいいようで、市内なら、雑にやっても、とりあえず何とかなります」
市内なら。
「縄張り、ですか……」
「そうそう」
頷きながら、右の手のひらをシャツの胸で拭う。白い布は、あまり汚れていない。木立の中にいたせいか。ズボンのポケットから端末を出した。青白い光が顔を照らす。
「今日、夜中、雨みたいですから、片づけはいらないかな。明日晴れなら、ざっと流さなきゃいけないんですよ。見える人が来たら、びっくりしちゃうので」
ということで。
暗い瞳が俺を見下ろす。柔らかく撓む。
「お疲れさまでした」
「——……」
虚を突かれた。
「仕事はこれにて完了です。いや、報告書の作成とかありますけど、まあ、現場作業に比べたら」
「……どうということは、ないですね」
「でしょう」
ははは。
◯
藪を抜け出す。
道は青白く、明るい。空を仰ぐ。月が低く出ていた。振り向くと、現場は闇に包まれている。黒く、深い。手のひらを見る。汚れている。足許を見る。影が落ちている。地面に、足がついている。
助かった。
やっと、実感が湧いた。妙に浮ついていた疲労が、現実の重みを持つ。祭りのあとは、こんな感じだ。
かき、こき。
小枝を踏むような音がした。顔を向けると、龍狩さんが大きく伸びをしていた。その仕草は、藪に入る前と変わりない。
日常が、作り話と接続されてしまった気がした。
視線が重なる。
「帰りましょうか」
どちらからともなく、来た道をゆっくりと辿りだした。
道沿いの家々には、もう明かりがついていた。窓から薄黄色い光が漏れている。不思議なほど、人の声は聞こえない。カーテン越しのぼんやりとした灯りだけが、暮らしの気配を感じさせた。
ひと足ごとに現場から遠ざかる。全身の生臭さと、龍狩さんの手の傷は変わらない。借りっぱなしのハンカチで鼻を覆う。
「次から、車で待ってますか?」
囁くように、龍狩さんが言った。弾かれたようにそちらを見た。車道側から見る横顔は逆光になっている。顔が見えずとも、意味するところは明らかだった。
「………」
答えあぐねる。龍狩さんは急かさない。二人分の足音が、やけに響く。開けた田圃沿いの道には、音を遮るものがなかった。
暗い道の先を見る。
「……自分は、何が前任者を殺したのか、知りたくて特殊環境問題対策係にきました」
反応はない。薄々察していたのだろう。事務机の腕時計が、まぶたの裏で閃いた。
「仕事の話は聞いていましたが、正直なところ、信じてはいなかったんです」
何か隠しているのだ、と信じ込んでいた。その正体を、知りたいと思っていた。
「何をしているのか、よくわからないでいるうちに、失いました」
答えは初めから、教えてくれていたのに。
今日、眼の前に示されるまで、もっと、現実的な問題に殺されたのだと、信じていた。
「だから、ここに来ました」
あいつは、俺の知らなかった現実で、死んだのだ。
実感を持って理解した。充足感はない。ただ、置き去りにされたような感覚だけがあった。間に合わず見送ったときの、やるせなさに似ていた。
言葉が途切れる。互いに消化しているのがわかった。前に出した爪先が、小石を蹴る。民家の明かりのなかへ転がっていく。通り過ぎて、闇に溶ける。
先に口を開いたのは、龍狩さんだった。
「……知ることは、できましたか?」
答えを確信している声だった。素直に頷く。
「はい」
細い影が、撓んだ。肩の荷を下ろしたように見えた。
「それじゃあ——」
「いえ」
穏やかな声を、遮った。薄い肩が硬くなる。自分が重荷になっていると、それだけでわかった。構わずに続ける。
「次からも、一緒にいきます」
はっきりと、宣言する。
「あいつのしていたことには、意味があったとわかったんです。だから、やります」
言いながら、自分勝手だな、と思った。青臭いところも、嫌だった。
それでも、車で、血みどろになった男を出迎えるほうが、嫌だった。
口を噤む。食い下がる準備をする。今度の沈黙は、少し長かった。
「……そうですか」
やがて返った答えは、それだけだった。了解以上の含みはない。拍子抜けした。横目に窺う。平然としている。俺という重荷は、既に整理されてしまったようだった。いいのか悪いのか、判断に迷う。
ふと、暗い瞳がこちらを見た。唇の端が微かに上がった。
「車に、着替えが積んであります。よかったら」
呟くように話す。
「助かります」
それでも響く。
夜道は静かだ。傍らの家々では、知らない人が生きている。気配だけがあって、俺たちとは交わらない。
そのまま会話は、ふつりと途切れた。ラジオのつまみを回したように。
◯
着替えると幾分さっぱりした。誰のシャツかは尋ねなかった。大きさも、ろくに確認しなかった。汚れた服はゴミ袋に詰め込む。硬く硬く、口を縛った。
救急箱も積まれていたが、龍狩さんは「応急用だから」と使わなかった。俺のネクタイで足りているという。負傷した左手の代わりに、右手を差し出してきた。首をひねる。
「なんですか?」
「帰りは、私が運転しますよ」
ぎょっとした。鍵を渡せということか。
「……自分が、運転します」
「大丈夫ですか?」
「それは自分の台詞ですね」
有無を言わさず助手席に押し込む。抵抗はされなかった。運転席に乗り込む。顔色をじっと観察される。
「では、お願いします」
合格のようだ。窓を開けて、走り出した。
夜風が前髪を玩ぶ。ヘッドライトが夜道を丸く切り抜く。その先は見えない。行きよりも、ゆっくりと進む。前にも後ろにも、車はない。会話もない。
様子を窺う。窓の外へ視線を投げている。山は暗い。手前の木々だけ照らされて、向こう側は塗りつぶしたように黒い。深い夜を背景に、横顔は青ざめて見えた。暗いせいか、疲れているのか。
「龍狩さん、眠っても大丈夫ですよ」
状態確認も兼ねて、話しかける。
黒い瞳だけがこちらを向いた。ライトを返して閃く。やんわりと笑う。
「いえ、やっと涼しくなったので」
眼が覚めてきました。
この男も、夜行性か。
【第一事案 了】