(中)
ぐすん。
その音は、重たい余韻を残した。
一瞬のできごとだった。傾いた薄い肩が震えてこわばる。白い手は瞬く間にいなくなっていた。見間違いだと思ってもおかしくなかった。
筋張った手の甲に、爪痕が残っていなければ。左右に並んだその傷の間に、柵の支柱が生えていなければ。
本当に、出た。
「——」
声にならない悲鳴は、どちらのものとも知れない。俺はそこで止まれない。知らず、息を吸い込んでしまう。
「しぃ……」
龍狩さんが煙草を挟んだ指を、唇の前に立てる。携帯灰皿は見当たらない。落としたようだ。
既のところで、叫びを喉に留めた。吸った息を、静かに吐く。龍狩さんは僅かに肩から力を抜いた。
「騒ぐと、苦情が、入りますから……」
煙草を咥えながら立ち位置をずらした。手首の先が、身体の影になる。
「なんで隠すんですか……!」
「いや、見ると、痛いかと……」
元捜査第一課の刑事をなんだと思っているのか。
異常事態に対する動揺はとりあえずわきに置く。取り乱しかけたことは、棚に上げた。狼狽も見栄も、今は邪魔だ。龍狩さんが動いた分だけ俺も動く。問題の支柱に寄りすぎないよう注意して、患部を確認する。
指の股から手首へ少し下ったあたり、骨の間の柔らかい場所に、細い支柱の頭がひょこりと突き出ていた。人差し指と中指の間だ。唐突すぎて現実味がない。
少し視線を下げる。どす黒い液体が柵を伝っていた。
「——っ」
肌が粟だつ。生理的な反応はどうしようもなかった。
「大丈夫ですか?」
自分の言葉かと思ったが、違った。龍狩さんが俺の様子を窺っている。呼吸は深い。吐くほうに重心を置いていた。痛みを逃している。
「……どちらかというと、それは自分の台詞です。ひとまず抜きましょう。触っても?」
「いや、二次災害があるかも……」
あの白い手が、脳裏をよぎる。眼を閉じる。きつく。
「——、わかりました。対応は任せます」
ネクタイを解いて、応急処置に備えた。
龍狩さんはもぞもぞしはじめる。体重を右足に寄せ、左足に寄せ。左腕を僅かに動かす。支柱もぐらつく。低く呻いた。そのまま抜くのは無理そうだ。やはり手を貸すべきか。
「……ちょっと、煙草、持ってていただいて、いいですか?」
方針が決まったようで、短くなった煙草を差し出された。受け取る。しゃがんで携帯灰皿も拾い、断りなしに吸い差しを放り込んだ。支柱の根本を確認する。
あの白い手は、この辺りから伸びてきた。
暗い上に草が密集していて、様子がよくわからない。しかし、人一人が隠れられるほどではない。瞬きするたび、夕闇に浮かぶ白い手の残像が閃いた。手を突っ込んで、そこに何もないことを確認したくなる。
「………」
頭を振る。下手に掻き分けるのは止したほうがいい。そこに、何がいるにしても。立ち上がった。
龍狩さんは俺が柵から離れるのを待っていたようだ。じっとこちらを見ている。すまない気持ちになる。半歩身を引いた。途端、龍狩さんは素早い動作で支柱を掴み、手のひらを引っこ抜いた。
空気が張り詰める。
「………」
何かからの二撃目はない。龍狩さんは、悲鳴のひとつも上げない。栓を失った穴からあふれ出したものが、夏草を打った。雨の降りはじめの音がする。細い葉に、黒い点が散った。
「はーあ、痛い痛い」
警戒を解いた声は、こちらへの気遣いかと思うほど嘘くさかった。顰めた顔もわざとらしい。ただ右手だけは、しっかりと左手首を握っていた。止血に慣れている。
「失礼します」
解放された手を捕まえる。抵抗はなく、預けられた。筋の浮いた手の甲にぽつりと穴が空いている。じっくりとは、見るまい。ネクタイで患部をぐるぐる巻きにして、きつく結ぶ。微かに息を詰める音が聞こえた。痛いだろうが、仕方ない。貫通している。
簡単だが、処置は終わりだ。どちらからともなく、深いため息が漏れた。
「ありがとうございます。……ちょっと、一回、下がりましょうか」
血濡れた支柱に一瞥をくれる。異論はない。草をかき分けて退避した。
木立の始まる少し手前。龍狩さんは放り出すように座り込む。俺は片膝を立て、少し前かがみに構えた。高い夏草に身を潜めるような形になる。いつでも動ける。笑われても構わなかった。
龍狩さんは笑わなかった。変わりに軽く、ため息をつく。ひと仕事終えたような調子だ。
「迂闊でしたね。驚かせて、すみません。ネクタイも」
話しぶりは、もうしっかりしている。
「謝らないでください。安物です」
穴の空いた手を、握って、開く。震えて上手くいかない。小動物を愛でるような動きだ。黒いネクタイが薄暗がりに光る。濡れている。
わきに置いていた動揺が戻ってきそうになった。ひとつ深呼吸する。追い払う。
「救急車、呼びますか?」
「いや、いいです。大げさですよ。病院行くと、労災でごちゃごちゃ面倒くさいし」
労災隠しする気満々だ。
「せめて、出直しましょう」
「いや、だめです。もったいない」
「何がです」
時間か? 少し苛立つ。
「ガソリン代も公費ですから」
言葉を失った。
「あと単純に、面倒くさいですし」
ははは。
もはや苛立ちも湧かない。
「けど、しんどいはしんどいので、ちょっと、休憩がてら、様子を見ましょう」
状況も、整理したいですし。
龍狩さんは使い物にならなくなった左手を、あぐらをかいた膝に安置した。煙草に火をつける。求められるまま、携帯灰皿を返す。暗い眼が少し笑った。最初の一口を吐き出す。池の方へ視線を投げた。
「見ました?」
何か、居ましたね。
「……はい」
観念した。俺も池の方を見る。足許がひやりとする。震え出す。
「初めておばけを見た感想は?」
「龍狩さんの負傷に全部持っていかれました」
冗談を言ったつもりだった。耳で聞くと、強がる子どものようだった。
おばけだ、と認めた途端、動揺が、はっきりと戻ってきた。内臓が、ぐぅっと押し上げられるような、引き絞られるような感覚があった。怖い、という言葉を懸命に打ち消す。打ち消しながら、自覚した。
自分が繰り返し、不審者を疑った理由は、これか。
なんの疑問もなく、不審者のほうが、おばけより危険だからだと思っていた。おばけなんているわけがない、とも思っていた。でも、違った。耳の奥で、いつか聞いた台詞が甦る。
信じてないだろ、でも、本当に出るよ。
心のうちで、頷く。信じてなかったよ。でも、本当に出たな。本当は、出てほしくなかった。
子どものころ、ベッドの下を確認することがあった。何もいないと九割九分確信していたから、できていたことだった。あれは、「本当にいない」と十割確信するための儀式だ。
きっと今日も、俺はその感覚でいた。そして実際、儀式でなければならなかった。
いないはずのものがいたら、どうしたらいい。
「さすが、刑事さんは冷静ですね」
弾かれたように男を見る。皮肉か。
「頼りになります」
他意のない横顔だった。先ほどまでと、何ら変わりなかった。
「——……」
出たものは、出た。だけど、対処方を知っている人がそばにいる。戻ってきた動揺が、ゆっくりと鎮まっていった。
「……今後も、努力します」
声を絞り出した。指先には、龍狩さんのぬるい体温がまだ残っていた。
自分が怖がっているのだと認めると、安心した。
◯
「あ、ほら、あれ」
煙草の火が前を示す。目を凝らした。支柱の根本はよく見えない。ただ、茂った夏草が揺れている。風はない。少し重みのある音がする。土を掻き、草をちぎる。何かをまさぐる音がする。腰が浮く。
龍狩さんが、ふう、と煙を吐いた。逃げだす気配はない。
「ちょいちょいあるんですよ。空き地に何かを作ってみたら、おばけのねぐらのそばだった、っていうこと」
市街地ではあんまりないですけど、田舎は空いてる土地が多いから。
支柱がぐらつき、網が波打つ。ぺちゃぺちゃと湿った音がした。
「あれは」
口を閉じていられない。
「……あれは、何を、してるんですか?」
そんなものは聞かなくても想像がつく。言葉を探す。
「いや、そうじゃないな……ええと……」
何かをしゃぶる音がする。頭の中で、言葉が散らかる。
静かな声が、会話の糸を攫っていく。
「ホンニンに聞くわけにいかんので、経験に基づく、こうかな、という想像ですけど」
あれは昔からあそこで、ずっと、水場にきた生き物を捕まえて、食べてきたんじゃないですかね。そこへ急に柵ができて、捕まえようとした獲物が支柱に引っかかるようになってしまって。
「通報された、わけですか」
「たぶん、ですよ。それで今は、血の一滴も惜しいほど腹が減っているんじゃないかな」
「……これまでに人的被害がなかったのが奇跡ですね」
「それはどうかなあ」
言ってから、あ、という顔をした。俺はきっと、え、という顔をしただろう。ひととき見つめ合う。
沈黙を破ったのは龍狩さんだった。
「いや、まあ、昼間、柵を作った人が無事だったようですから、多分あれ、夜行性でしょうし、このへん、夜は人なんか来ないようですし、噂も言い伝えも……」
ごまかすのが下手だ。
「龍狩さん」
ごまかされておきたい気もした。
「自分は見学者ではなく、新人です」
「……そうですね。すみません」
悪びれない謝罪だった。ふう、とまた、紫煙を吐く。
「誰も気づいてないだけで、食われた人はいたと思います」
「人がいなくなって、気づかないなんてこと、あるでしょうか。こんな、人の少ない土地で」
「それはそうなんですけど」
跡形もなく消えちゃったら、どこでどういなくなったかなんて、わからないでしょう。
「………」
「この集落の迷子のうち、何人かは、食われてると思いますよ。あれに」
悍ましさでいうのなら、不審者とどっこいどっこいだった。それなのに、語る声も瞳も凪いでいる。怒ればいいのか、悼めばいいのか。受け止め方がわからない。
先ほど覆った常識だって、まだ受け止めきれてはいない。
不意に右手の茂みが音を立てた。思わず腰を浮かせる。
「………」
山ではいろんな音がする。
獣だろう。恥ずかしさが込み上げて、座り込もうとした。だが。
——だけど、慣れないほうがいいですよ。
身体を低くした。茂みの奥に目を凝らす。
「逸軌さん、めちゃくちゃ飲み込みが速いですね」
休憩は終わったのだと悟った。息を殺す。返事もできない。