第一事案 夜行性(前)
山道に入ると、明らかに空気が変わった。
署から車を走らせて、四十分ほどが経っていた。
開け放った窓から飛び込む風が冴えている。息を吸う。馴染みのない香りだ。午後の光が高い木を透かして瞬く。汗が冷えていった。
助手席の龍狩さんを横目に見る。脱水に失敗したシャツのようだ。街なかではかろうじて縦にしていた身体を崩し、窓の方へしなだれている。汗を吸った前髪が束になって、吹き込む風に遊ばれていた。
俺たちに割り当てられた公用車は旧式で、極限までオプションを削がれている。冷房などほとんど飾りだ。さっぱり涼しくならない。空気が入れ替わるぶん、窓を開けたほうがまだましだった。
それがやっと、人間の適応できそうな気温になってきた。解放感を押し留め、ぬめるステアリングを握り直す。山道には慣れていない。端の割れたアスファルトには、落ち葉が散らかっていた。
「現場が山際で、よかったですね」
状態確認も兼ねて、話しかける。
「ほんとうに」
応じる声は掠れていた。ガソリン車の低い唸りが覆いかぶさる。
現場に着くまでに持ち直してくれるといいが。
ぐったりした先輩を連れて、初仕事に向かうのは避けたい。茶を持ってこなかったことを後悔した。この先、自販機などあるだろうか。森はどんどん深くなる。人家など、影もない。期待できそうになかった。
話しかけて励ますべきか、少し前に自販機を見た気がするが、戻ろうか、と悩みはじめたころ。
ふと、鈴を振るような音に気づいた。
「——」
周囲を確認する。サイドミラー、バックミラー。不審物どころか、他の車両も見当たらない。そもそも、これは一点から響く音ではない。もっと立体的だ。囲まれているような。飲み込まれるような——
「蜩ですよ」
肩が跳ねた。反射的に視線を左にやる。生乾きの龍狩さんが笑っていた。緊張が消し飛ぶ。
「これが? まだ、四時ですよ」
身体を傾けて、窓越しに空を確認した。青い。夏の太陽は高度を保っている。
「なんと、蜩は朝にも鳴きます」
「『日暮し』なのに?」
意味がわからなかった。
意味はわからないが、正体不明の鈴の音は呆気なく環境音と化した。耳から遠ざかっていく。入れ替わりに、じわじわと恥ずかしさが込み上げた。こんな日の高いうちから、何を怖がっているのか。引いた汗が戻ってくる。濡れたシャツが気持ち悪い。
龍狩さんが身じろぐ気配がした。崩れた姿勢を整えている。シートベルトの位置が気に入らないようだ。伸ばして、縮めて。
「逸軌さん、地元どこですか?」
「火々屋ですが……」
県庁のある市の名を告げる。
「じゃあ、都会っ子ですね」
思いがけず優しい声に、いたたまれなさが増した。シートベルトから手を離す。
「山って意外にいろんな音がするんですよ。静かだから、風とか野生動物の立てる音が、よく聞こえるんですよね。最初はびっくりしますけど、そのうち慣れます」
励まされてしまった。謝るか、礼を言うか。迷っているうちに「だけど」と続いた。
「慣れないほうがいいですよ」
龍狩さんの地元は、聞きそびれた。
◯
車は神社の前に停めた。苔むした階段の下、鳥居の横に、申し訳程度の駐車スペースがある。神を祀る場所、というより、地域の集会所として使われているそうだ。役も、地元の人の持ち回りらしい。
通報者の住む集落は、隣市との境にある山の中腹に位置していた。片道一車線の道路脇に家を並べたような形で、あまり奥行きがない。書割を連想する。家々が道の片側にしかないことも、舞台じみた印象を強くした。道の反対側には田圃が広がっている。開けて、明るい。
「いいところですね」
日差しに目を細める。涼しいとはいわない。風がなくなると、さすがに暑い。けれど、暴力的というわけではなかった。夏が嬉しかったころを思い出す。
「ほんとですねえ」
腑抜けた声が応じた。ドアの鍵を確認する姿は萎れている。山道で僅かに取り戻した覇気は、直射日光に消し飛ばされたようだ。俯けた頭をさらに下げる。
「長いこと運転していただいて、ありがとうございました」
会釈されたらしかった。
「いえ、新鮮で面白かったです」
「車線分かれてない道とか?」
「連続カーブとか」
「ははは」
痩せた腕が庇を作った。細い影の下、車を挟んで、黒い眼がこちらを見る。
「それじゃあ早速、通報者のところに行きましょうか」
通報者は集落に長く住んでいるという老人だった。女性の独り暮らし。住まいは平屋だ。黒い瓦が鈍く光っている。庭先に茂っている花木の赤紫がよく映えた。毒々しいほどだ。
「夾竹桃です。食べると死にます」
「食べませんよ……大丈夫ですか?」
コメントに雑さが混じっている。
神社から歩いて五分。開けた田圃道に山陰はまだ届かない。二人揃って汗だくだ。龍狩さんの息は荒い。湿った包帯を掻く指にも、力がなかった。
「せめて日陰があればよかったんですが……」
「ははは。じき、涼しくなりますから、大丈夫ですよ」
ごめんくださーい。
おとないが蝉しぐれに重なった。蜩とくまぜみが混じっている。昭和硝子の向こうは沈黙している。程なくして、床を踏みしめる音が近づいてきた。一歩一歩、確かめるようなリズムだ。年齢を重ねた人に特有の響き。
「はぁーい、はい」
やがて引き戸が開き、小柄なお婆さんが顔を見せた。
「……どなた?」
上背のある男が二人。老人は俺たちの影にすっぽりと収まってしまう。心細げに見上げてくる。
「お忙しい時間に失礼いたします。市役所環境保全課の、龍狩と申します」
首から下げた名札を掲げる。
「県警の緋瓦です」
倣って、手帳を見せる。
「警察」の二文字に老人の顔がこわばった。間違えたな、と思った。龍狩さんは構わず、続けた。
「市役所に通報をいただいた件で参りました。それで、現場を見る前に少し、お話を聞かせていただけないかと思いまして。お時間いかがでしょうか」
「まー、暑い中、ご苦労さまです。どうぞ、どうぞ」
不思議なことに、通報者はすぐに警戒心を解いたようだった。目は丸く、声は明るくなる。すんなりと敷居をまたがせてくれた。どんな魔法を使ったのだろう。龍狩さんに変わった様子はない。
上がるよう勧められたが、断って式台に座らせてもらう。土の香りが近づき、暑さが遠ざかった。
「ちょっと待ってねえ。お茶持ってきますから」
「いえいえ、お気遣いなく……」
奥へ戻ろうとする通報者を、龍狩さんが呼び止めた。汗で眼鏡が下がる。押し上げる。見下ろしてくる老人の笑顔は、優しい。
「あんた、そんな真っ赤な顔で、遠慮するもんじゃないよお」
龍狩さんが、遠慮を重ねようとする気配がした。
「甘えましょう」
遮った。意外そうにこちらを見る。
「このあと、現場を見にいくんでしょう。倒れられたら、自分が困ります」
老人の眼が細くなる。しわの奥で、笑う。
「ほぉら、おまわりさんも、心配だって。ねえ」
「ええ」
老人と視線を交わした。共犯者の顔になる。挟まれた龍狩さんは俺を見て、老人を見て、薄い肩をしんなりとさせた。そのまま小さく頭を下げる。照れたように笑った。
「……では、ありがたくいただきます。本当は喉がからからで」
はいはい、待っててねえ。
楽しそうな声が、遠ざかる。
気だるい沈黙が降りた。
玄関は開かれたままだ。傾きはじめた陽が差し込んでくる。暗い土間を四角く切り取る。白く光る。蝉の音はそこから響いてくるようだった。
龍狩さんがぽつりと言った。
「……茶、次は用意してきますね」
自分で。
どこか、自らに言い聞かせるようだった。
「……自分が持ってきますよ」
買って出ると、ふっと笑うような吐息を漏らした。横目に窺う。眼鏡を通さない眼つきは、やはり鋭い。
「ありがとうございます」
なるほど、と思った。どこもかしこも尖っているが、声だけは柔らかい。敵ではない、と感じさせる。
家の奥から、ゆっくりとした足音が戻ってきた。乾いた素足が板を擦る音が、近づいてくる。
◯
通報者の話はこうだった。
先月、藪の中にある池に子どもが落ちて大騒ぎになり、柵を拵えた。有り合わせの材料で作った、簡素なものらしい。その柵の支柱に、しょっちゅう小動物が刺さっているのだという。ねずみ、りす、山鳩。
「こないだは、あらいぐまが刺さっててねえ」
「怖いですね」
「ねえ。あたし、朝、あの近くを散歩するんだけどねえ。道からも気づくくらいで、びっくりしちゃって」
「大きいですからねえ。こんなもんですか」
「そうそう」
「これ、刺さっていたら、びっくりしますね」
「でしょう」
思ったよりも悍ましい話だった。閉口する俺をよそに、二人の交わす言葉はゆったりしている。まるで世間話だ。
内容からぱっと思いつくのは変質者だが。
会話は続く。
「百舌ではなさそうですね」
「このへんには、おらんしね」
「池に何か、おばけが住んでるって話、ありませんでしたか?」
「おばけ?」
「ほら、大人は話を大きくして脅かすでしょう。蝮が多い茂みを、化物が出るなんて言って」
「ああ」
そういうのは、ないねえ。
「昔は夜、山犬が出たけど。もともと、日が落ちたら、あのへんに近寄るもんはおらんかったしね。魚も住んどらん池だから、釣りもできんし」
「普通の池で、普通の藪なんですね」
「そうそう」
やはり、変質者ではなかろうか。
そう思っているのは通報者も同じらしい。ふと顔を曇らせた。
「……近ごろは、街の人が走りに来るから。自転車とか、バイクとかね。だいたいみんな、感じのいい人たちだけどねえ」
小さな体躯が、萎んだ。
「ご安心ください。相手が人間なら、自分が捕まえますので」
気づけば口を挟んでいた。勝手に喋ってまずかったかと思ったが、龍狩さんも明るく頷く。
「そうですそうです。なんたって、こちらは県警の方ですから。強いですよ」
大雑把な太鼓判だ。それでも通報者のまとう緊張は緩んだ。龍狩さんが柔らかく言葉を重ねる。
「何が原因でも、頑張って調べますので」
すぐ、いつものとおりになりますよ。
◯
通報者の家を出ると、陽は更に傾いていた。山の稜線に掛かっている。遠くの木立に刻まれて、光が鋭さを増していた。眩しさに眼を細める。一方で、暑さは和らぎはじめていた。
「ありましたよね、有名な怖い話。ネットの」
痩身が大きく伸びをする。かき、こき。小枝を踏むような音が鳴る。来たときよりも、幾分元気そうだった。歩き出す。
俺は隣に並び、頭を下げた。
「あまり、そういうものに詳しくなくて、すみません」
「あれ、すみません」
龍狩さんは簡潔に語った。
ある保育園の柵には、虫やとかげが刺さっていることがある。小動物が犠牲になるに至って保育士たちは不安に思うが、子どもたちはそうでもなさそうだ。当然のこと、仕方のないこととして受け入れているように見える。それどころか、犯人を知っているようでさえあるが……
「という感じの話です」
「……似てますね」
有名というからには、全国区の妖怪なのだろうか。勢い任せに異動してきてしまったから、その手の知識がまるでない。再び頭を下げた。
「勉強しておきます」
「や、いいですよ」
龍狩さんは手を振った。煙を払う仕草だ。
「似てるだけで、なんの関係もないのがほとんどです」
今回も関係ないでしょう。
微かに違和感を覚えた。通報者との会話を聞いていたときから漠然とあった感覚が、輪郭をとる。
「……今回は、なんの言い伝えも噂もないようでしたね」
「だいたい、どこもそんなもんです。本当にないのか、馴染みすぎていてわざわざ思い出さないのかの差はありますけど」
どちらでもよさそうだった。その軽さに背中を押されるようにして、口を開く。
「龍狩さんは、本当におばけがやっていると思ってますか?」
鋭い眼がこちらを向いた。瞬く。先を促されたのだと判断した。
「怖い話も言い伝えも、話半分の感じがして。通報者への確認も、どちらかというと野生動物の仕業を疑っているように聞こえたので」
こちらを観察する眼を、見つめ返す。
龍狩さんはゆるりと視線を巡らせる。
「じつのところ」
空へ向いた。瞳に光が差し込む。
「わからないんです」
またそれか。
こちらの落胆をよそに淡々と続ける。
「変だと思って調べたら、別に変なことは何もなかった、ということは、よくあります」
「……自分はやはり、変質者だと思うのですが」
生き物をおもちゃにする人間はいる。それを他人に見せて喜ぶ人間も、いる。舌の奥が苦くなった。
龍狩さんはあっさりと頷く。
「じつは、市役所の意見もそっち寄りだったんです。私も、そうだろうな、とは思います」
「なら——」
思わず身を乗り出した。
けど、と遮られる。
「警察に回る前に、横取りしました」
「……気になることが?」
「うーん」
返事は曖昧な唸りだった。暗い眼が遠くを見る。道を挟んだ向こう、実りはじめた稲穂は山陰の中だ。
「柵ができてすぐ、というのが、なんとなく、変だなーと思いまして」
誰も気づかなかっただけで、もともと何か居たんじゃないかな、って。
「どうです?」
「………」
俺が黙り込むと、龍狩さんは笑った。
「まあ、わかんないですけどね」
何度も聞いた結論だ。それきり黙って、足を進めた。
通報者に教わったとおり、来た道を山手に向かって進み、途中で集落の奥へ続く道へと入った。舗装はされているが、車はすれ違えないだろう。先へ視線を投げる。段になった畑と、ぽつりぽつり家が見える。書割の集落に奥行きが生まれた。人影はない。
少し進んだあたりで、立ち止まる。左手の藪に人の通った跡がある。現場はこの奥だろう。藪の奥は既に暗い。通報者の話では、道から現場の様子が窺えるようだったが、今は何も見えない。影に沈んでいる。夜が駆け足に近づいてきていた。
「吸ってもいいですか?」
「どうぞ」
紫煙が細く立ち上る。長い影を背に、くっきりと線が引かれる。頭上でほつれたあたりへ、すぼめた口から煙が吐かれた。白線が乱れる。片手に携帯灰皿を構えた。
「いきましょうか」
龍狩さんは革靴で躊躇なく分け入っていく。濃く、草と土の香りが立つ。足音はじくじくと水気を孕んでいた。
枯れ枝が地面から突き出している。龍狩さんは避けずに踏み折る。ついでのように語りだした。
「おばけって、結構縄張り意識が強いみたいです。なので、今回のがおばけなら、たぶん今夜も現場にいると思うんですよ」
「犯罪者も似たところ、ありますね」
「ははは。人もおばけもおんなじですね。ちなみに、私の縄張りは白骨崎市内です。ご承知おきください」
おばけとしてですか、人としてですか、と聞きそうになったが、やめた。どちらでも、俺たちの仕事に変わりはない。縄張りの外のことも、引き受けなければならない。
現場は木立を丸く切り開いたようになっていた。夏草が高く伸びている。昼間なら、それなりに日差しが入るのかもしれない。天を仰ぐ。周囲の木々は高い。梢に縁取られた空はまだ茜色だが、西日はここまで届かなかった。あたりは薄布を通したように見えづらい。そんな視界でも、池は目を凝らさずとも全容が確認できる、小さなものだった。
全体の印象は、住宅街の庭に似ていた。池も大人ならかろうじて飛び越せる程度の大きさだ。水面は空を映し、底が見えない。
取り囲む柵は、畑を囲う用の網と軸を利用したものらしい。ここへ来るまでに、集落のあちこちで見た。人工的な緑の網に、草色の細い棒が絡めてある。
とりあえず、外周をぐるりと回る。等間隔に並んだ支柱をいちいち確認した。数歩歩いては、立ち止まる。手は触れずに目視する。何かの儀式をしている気分になった。こっそりと池の中心を見る。波ひとつ立ってはいない。ただ赤黒く、静まっている。
一周して、現場は一点だと結論づけた。死骸を片づけたときに雪いだのだろう。支柱はどれもきれいなものだ。しかし、問題の場所は網が変色していた。体液を吸ってどす黒い。生贄という言葉が頭に浮かぶ。
「人にしろおばけにしろ、何かこだわりでもあるんでしょうか。ここに決める、理由とか」
「別に、他と違った様子はないんですけどね」
支柱の頭は、俺たちの胸の高さだ。どれも概ね同じ位置にある。根本に生えている草も特に変わりない。名前は知らない。笹の葉を細く長く引き伸ばしたような草だ。どこでも見かける。
眺めていても埒が明かないな。
歩み寄ろうとしたら、制された。龍狩さんは灰皿と煙草を右手に任せ、夏草を無造作に折り取った。
問題の支柱の上でひらひらと振る。
「………」
「………」
何も起きない。
草を放り捨てた。ネクタイをピンから抜いて、同じように振る。
「………」
「………」
何も起きない。
上を見て、下を見る。
「儀式か何かですか?」
「いや、何かいるなら、何か起きるかと思って。でも、何もいないのかな」
ネクタイで支柱の頭を叩く。
何も起きない。
「そもそも、さんざん地域の人が柵を弄っているわけですし」
「確かに。やっぱり、不審者だったのかな」
神妙に頷く。ネクタイを放り出す。
支柱の上に、骨ばった手を翳す。
白い手が掴んだ。