(後)
「モノとかイキモノに何かあると、だいたい、市役所か警察に通報がありますよね」
壊れてるとか、死んでるとか。
「ありますね」
壊されたとか、殺されたとか。
小さなソファベッドの端と端に座った。互いの間には、ぬるい空気が居座っていた。空調が低く唸る。
「逸軌さんは、捜査第一課にいらしたんでしたっけ」
「はい」
「大ごとに対処されてきたんですね」
曖昧な印象だった。俺も、曖昧に頷く。
龍狩さんは汗をかいたコップを手に取った。縁に歯が当たる音がした。
「市役所側は、あれです。鹿が死んでるとか、鳩が死んでるとか、そんな感じです」
声がコップの中でくぐもった。そのまま茶を呷る。喉仏が上下する。一回、二回。深く息をついた。
「そういうのが全部、うちに共有されます」
声音は幾分すっきりしていた。まとわりついていた暑さから、ようやく逃げ切れたようだ。コップをローテーブルに戻す。伝い落ちた水の輪にきちんと重なっている。茶は三分の一ほど減っていた。
「全部、ですか」
規模感が全くわからない。
「正確に言うと、県をざっくり東西に割って、東半分が私どもの担当です」
わたくしども。耳慣れない響きだ。龍狩さんは市役所の人間なんだな、と思った。
「市町村の垣根を超えて、あれが壊れた、これが死んでる、という話が集まってきます。その中で、自然現象でも人間の仕業でもないな、という案件が私たちの仕事になります」
龍狩さんがチューブファイルとコップを脇に寄せる。無造作な手つきに背筋がひやりとした。倒さないか、落とさないか。龍狩さんは無事作った空白に、県の地図を広げた。破れを補修した跡がある。セロハンテープは乾いて切れていた。
「この線の、右っかわです」
筋ばった人差し指が地図の上を滑る。真ん中よりやや右に赤く境界が引かれていた。各自治体を分断しないよう、市町村の境目をなぞっている。赤ペンの線は几帳面だった。細く、少し色褪せている。
「……広いですね」
「面積も市町村数も、県庁のある西側のほうが広くて多いです。楽させていただいてますよ」
「……それでも、広いでしょう」
「……まあ、広いですね。出張もたくさんありますし」
この広範囲を、二人で賄え、と。頭の中で算数が始まる。各市町村の人口の合計、割る、担当者の数。曖昧だった規模感が現実味を帯びた。
途方もない。
暗い瞳がひょいとこちらを向いた。見つめ返す。視線は俺の心を探るように静止したあと、逸れていった。宙を見つめる。
「——二十年ちょっと前までは、県内の各自治体にうちみたいな部署が設置されていたらしいんですが、殉職者が多かったので、市町村を跨いででも、ちゃんとした人材に任せよう、と、なったそうで」
「そうしたら、ちゃんとした人材がいなかったと」
「そうです」
すんなりと肯定が返ってきた。冗談のつもりだったのに。
再び地図に眼を落とす。白骨崎市を起点に守備範囲を視線で囲う。市境、県境、海岸線。眼が回る。
「そもそも」
龍狩さんはソファに背中を預けた。背もたれにぶつかって、痩身は見た目よりも重たい音を立てた。
「私もそんな、ちゃんとした人材ではないんですよね、寺生まれとか神社生まれとか。多少見えて聞こえて耐性があって、くらいで。なんか、青森とか京都とか山梨とかはわりあい、人材豊富みたいですよ。ああ、あと東京とか? あんまり交流がないので、あれですけど」
ふ、と口を噤む。笑うかと思ったが、龍狩さんは笑わなかった。ただこちらに視線を寄越す。今度は俺が眼を逸らした。語られた内容をじっくり咀嚼する。前任者は俺に、面白い話しかしなかったのだ、と気づく。
「……ちゃんとした人材、というのは、その……霊感がある、というか……?」
れいかん、と舌に乗せた途端、自分の言葉が嘘くさく聞こえた。龍狩さんが、冗談じみた笑いを見せる。
「照れくさいので、ひとに聞かれたときは、おばけが見える、と説明しています」
おばけがみえる。頼りない響きだった。
「あと、ほら、霊感とか言うと、相手によってはめちゃくちゃ詰められるんですよ。逸軌さんはどうですか?」
「あまり馴染みはないですが、………前任者から、少し話は聞いていたので、論破しようとは思いません」
「助かります」
龍狩さんは背もたれから身を起こした。
「ここまでの話だとすごい仕事量に聞こえるでしょうが、実際うちの仕事になるのは通報のうちの一割以下です」
再びコップに口をつける。俺も倣って冷たい茶を含んだ。思ったより喉が乾いていたようだった。
「九割は普通の、事件事故ですから。ほとんどは通報を受けたところが対応してくれて、そのまま解決します」
少し、肩から力が抜けた。
「……では、自分たちは何をするんですか?」
「なんか変だなーと思ったら様子を見に行って、これは変だなーとなったら、調査して、対処する感じで」
「なんか、変、ですか」
「目安としては、変に繰り返すとか、変な目撃情報があるとか、変な言い伝えがあるとか」
「なるほど。変ですね」
としか言いようがない。抜けた力をどう入れ直せばいいのか。構え方がわからなくなった。
龍狩さんが頷く。一度、二度。
「よくわからないですよね」
「正直に言うと、わかりません」
「とりあえず、よその部署ではよくわからなかったモノコトに対応する、と考えていただければ……いいのかなあ」
「……最後の砦ですね」
「かっこいいですね」
ははは。
笑いながら腕を掻く。包帯が毛羽立った。
「でも私も、未だに自分が何をしているのかよくわからないんですよ」
虚ろな、ひんやりとした声だった。思わず、その顔を見やる。龍狩さんは俺を見ていなかった。頬を覆うガーゼが、青白い。この部屋には窓がない。
硬そうな指が、積まれたチューブファイルの表紙を弾く。青い表紙に爪の先が当たった。思いがけず鋭い音が立つ。
「よくわからないのに、自治体を跨ぐわ、役所と警察の仕事に踏み込むわで。設置自治体と県の警察とが揃ってたほうが、事務的にうまく回るんですよね。市民の方と話すときも、印籠があったほうがスムーズですし」
わたくし、こういうものです。
と、刑事ドラマでお馴染みの動作をしてみせた。見えない警察手帳を掲げる手が解ける。空の手のひらがこちらに開かれた。
「でもぶっちゃけ、実務は私ひとりで問題ないんです」
やんわりと引かれていた線が、壁として立ち上がるようだった。
「だから大丈夫ですよ、まだ。断っても」
「——、」
「自分が何をしているのかよくわからないうちに死ぬっていうのも、何だかなって感じでしょう」
暗い眼が事務机の方に向かう。しかし、視線がたどり着く前に、瞼に押し隠された。代わりに俺が見る。三つ並んだ腕時計を。
前任者も、同じように言われただろうか。
「——……仕事の内容は、よくわかりませんが」
自分の左手首に触れる。安物の時計が、微かな振動を伝えてくる。メタルベルトがぬるんでいる。
「わからないまま放っておけば、モノやイキモノが、今後も壊れたり死んだりするわけでしょう」
前任者は、あそこに並べられてたまるか、という気持ちで買ったのだろうか。
首を振る。考える意味はない。
「であれば、やる意味はある、と、自分は思います」
背筋を伸ばして、龍狩さんに向き直った。
「それだけわかっていれば、自分には十分です」
我ながら青臭い台詞だ。その台詞が本音に近いところにあるのが、いたたまれない。身じろぎを堪える。
「……そうですか」
痩せた指先が口許を覆った。吸口を運ぶ仕草だ。知らない人を見るように、俺を見る。
正解がわからず、笑って見せた。
「……それに自分は、わざわざ希望を出してきたわけですし、初日で逃げたりしませんよ」
一拍置いて、龍狩さんは頷いた。筋張った首がふらついている。
「では、細かい話はやりながら、追々。時間があるときにこのへんの綴、見てみてください」
説明の延長としての言葉だった。拍子抜けした。はい、と応じるよりない。
示されたチューブファイルの背表紙には、年度と分類が記されていた。業務報告書綴。壁の書棚にも、同じ厚みのものが並んでいる。机に出された分だけ、空白がある。この中に、三名分の死亡事故が、混ざっている。
龍狩さんは腰を上げて事務机に向かった。引き出しに手をかけて振り返る。
「逸軌さん、おばけは見えるほうですか?」
「いや、全く」
躊躇なく首を横に振る。ファイルから視線を剥がす。龍狩さんは首を縦に振った。引き出しから何かを出して、こちらへ戻ってくる。
「では、これ。勤務時間中は持っていてください」
黒い巾着袋だ。差し出されるまま受け取る。手のひらに収まる。生地はぺらぺらで安っぽい。指先で中身を探ると、畳まれた布と、何か細かな、硬い感触が触れた。
なんだこれ。
戸惑い混じりに、立ったままの龍狩さんを見上げる。
「霊感の素です。持っていると、見えたり、聞こえたり、ちょっと耐性がついたりします」
「……、中身は見てもいいんですか?」
一瞬、いくらですか? と聞きそうになった。
「いいですけど、気持ち悪いだけですよ」
ははは。
「………」
興味はある。想像する。御札のたぐいだろうか。それにしては分厚い。絞り口の縦結びを親指でいじる。さて。
俺の躊躇をどう受け取ったものか、龍狩さんは少し迷う素振りを見せた。一瞬、脅かすように、からかうように唇の端を上げる。しかし思い直したようで、衒いのない、何気ない笑みを作り直した。
「私の髪と爪と、血のついた布が入っています」
なくしたら言ってくださいね。また作るので。
ずしり、と袋が重くなった。細い髪と硬そうな爪と、頬を覆うガーゼと。
思わず無言になる。手の中の巾着袋を改めて見た。安っぽい布は簡単に裂けてしまいそうだ。嫌な想像が頭をよぎる。こぼれ落ちて散らばる、人間のかけら。眼の前の人から、削り取られた一部。
「これを持ち歩けるかどうかが第一関門です。できますか?」
「……もちろんです。ただ、絶対なくさないようにしないとな、と」
「ははは。そんなに構えなくて大丈夫ですよ。いざとなればその場で作れますから」
あっさりと言いのけた。胸ポケットから爪切りを出してみせる。髪と爪と血。なるほど、爪切りひとつでこと足りる材料だ。
「絶対、なくしません」
少し迷って、ひとまずシャツの胸ポケットに押し込んだ。頭の中で、買い物リストの一番上に書き足す。丈夫な袋と紐。
爪切りは再び、龍狩さんの胸ポケットに消えた。
「ほんじゃ、早速なんですけど、仕事してみましょうか。ちょうどよく、というのも嫌な感じですが、今、市内でなんか変なことが起きているので」
「詳しく聞かせてください」
食い気味に尋ねる。
龍狩さんは腕を組み、曖昧に俺を見た。
「なんか、刺さってるらしいんですよね、しょっちゅう」
早速よくわからない。