夕暮れの駅前
バイトが早く終わった日の帰り道、菫はちょっと遠回りして、駅前の小さな本屋に立ち寄った。
いつもは混んでいるはずの時間帯なのに、今日は人通りがまばらだ。
夕焼けがガラスに映って、本の背表紙を金色に染めている。
ふと、誰かが本棚の前で立ち止まっている気配に気づいた。
スーツ姿で、少し背が高くて、手には文庫本を一冊。
——…え?
目を丸くして、思わずその人の顔を見つめてしまう。
間違いない。
お店で毎週、ケーキをひとつだけ買っていく、あの「ケーキの人」だ。
でも名前は知らない。
毎回「おすすめをください」とだけ言って、静かに微笑むだけの人。
なんでこんなところに?
声をかけようか、やめようか。
足がちょっとだけ前に出たその時、彼がこちらに気づいた。
一瞬、お互いが「あれ?」という顔をした。
でも、次の瞬間には彼の口元に、あの控えめな微笑みが浮かぶ。
「…いつも、おいしいケーキをありがとう」
静かな声だった。
それだけで、心臓がドクンと跳ねる。
「…あ、いえ、こちらこそ」
おかしな返事になった。でも止められなかった。
少しだけ会釈して、彼は再び本棚に視線を戻す。
なにも起きなかったような顔で。
でも、たしかに今、この街のどこかで、ふたりの距離は少しだけ近づいた。