ショーケースの向こうに
火曜日の夜。
「パティスリー・リール」はもう閉店間際だった。
大学からの帰り、菫は店に立っていた。
今日はどこか心がざわついて、早く店に戻ってきてしまった。
思うように授業に身が入らない。
レポート、将来、バイト……なにより“このままでいいのかな”という漠然とした不安が、胸の奥にあった。
そんなとき、店の扉が開いた。
チリン、と控えめなベルの音。
「いらっしゃいませ……」
姿を見て、思わず背筋が伸びる。
いつものスーツ姿の男性がそこにいた。
「こんばんは」
低く静かな声。
彼は、ふとガラスケースの中を見つめる。
その視線の先には、小さなモンブランが一つだけ残っていた。
「本日は……モンブランが、最後のひとつです」
「そうですか」
黒川は少しだけ微笑んだ気がした。
それは、菫の目の錯覚だったかもしれないけれど、確かに空気がやわらいだ。
「おすすめ、ありますか?」
いつもと同じ質問。
それがうれしい。
「モンブラン、お好きですか?」
「ええ。栗は、秋の味ですね」
季節の会話なんて、これまで一度も交わしたことがなかった。
でもそれだけで、なぜか心があたたかくなる。
「……実は今日、すこし疲れてて」
ぽつりと、男性が言った。
「それなら、甘いものが一番です」
菫の言葉に、彼は目を細めた。
「そうですね」
モンブランを包んで渡す、その数秒のやり取り。
小さな紙袋を受け取って、男性は店をあとにしようとする。
けれど、ドアの前で一瞬だけ振り返った。
「来週も、来ます」
菫は、少し目を見開いて、それから――ふっと、微笑んだ。
「お待ちしてます」
ショーケースの向こう。
ほんの少しだけ近づいた距離に、ふたりの気持ちは静かに、甘く、ゆっくりと溶けていった。