甘いものと静かな声
「黒川さん、例の契約、通りました」
「ああ。ありがとう。確認しておいてくれ」
時計の針が午後七時を指していた。
オフィスのフロアにはすでに人影もまばらで、机に残るのはわずかな光と、パソコンの静かな音だけ。
黒川遼、五十四歳。
大手不動産会社の営業部部長。
無口で、誠実。目立たず、波風立てず、着実に仕事をこなすタイプ。
部下からの信頼は厚いが、彼の私生活を知る者はいない。
「黒川さん、帰らないんですか?」
若手社員が声をかける。
黒川は手を止めず、軽く頷くだけだった。
「あと少し」
それが決まり文句のようになっていることを、彼も知っている。
いつからか、“終業後の30分”が、自分の静かな切り替えの時間になっていた。
誰もいないフロアで、静かにまとめをして、パソコンを閉じる。
(今日も……行こうか)
誰にも言わずに毎週火曜日の夜に立ち寄る、小さなケーキ屋。
はじめはただの習慣だった。
仕事の帰り道にあって、ふと甘いものが食べたくなる日があった――それだけだった。
けれどあの店には、数個だけ売れ残っているケーキがある。
それを選んで、静かな店員の声と、さりげないおすすめに耳を傾ける時間。
それが、黒川にとっては不思議な癒しになっていた。
甘いものは、若い頃は苦手だった。
でも今は、苦味よりも、ほんのりとした甘さの方が、心にしみる。
黒川はネクタイをゆるめ、上着を手に取った。