モンブラン
「いらっしゃいませー」
火曜日のその時間、閉店準備に取りかかりながらも、菫の声はどこか柔らかい。
黒川さんは、今日も静かにショーケースを覗く。
特に迷う様子もなく、指先をすっと伸ばして、ひとつのケーキを示す。
「これを。…モンブラン」
「はい。これ、下に薄くチョコが敷いてあるんですよ。隠れた人気なんです」
手際よく包みながら、ふと、菫の視線が黒川さんの横顔に止まった。
いつもスーツ。真面目そうで、無口で、でも優しそうで――
ずっと“ケーキの人”って呼んでいたけど、その人が、少しずつ自分の中で形を変えていくのを、最近感じていた。
たぶんそれは、
りんごタルトの話を聞いた日から。
それから、菫の中の“お客さん”じゃなくなったのかもしれない。
「…黒川さん」
包み終わったケーキを差し出しながら、初めて名前を口に出した。
相手は一瞬、驚いたように目を見開き、それから少しだけ頷く。
「はい」
「火曜日に来るたび、ちょっとだけ楽しみにしてるんです。…私」
言ってから、顔が熱くなるのがわかった。
でも、目を逸らさずに、ちゃんと届けた。
黒川さんは、言葉を探すようにしばらく黙ってから、小さく言った。
「…じゃあ、また来週も」
「はい。お待ちしてます」
帰っていく後ろ姿を見送りながら、菫は思う。
この人は、きっとこれからも何も言わないかもしれない。
でも――少しずつ、積もるものがあるなら、それでいいのかもしれない。




