名札の向こう側
火曜日の夜。静かに訪れる「ケーキの人」。
今日のショーケースには、売れ残りのショートケーキがひとつだけ。
「これを、ください」
「はい、ありがとうございます」
やりとりは、いつもと変わらない。
だけど、今日は少し違った。
「……あの、こちらのクッキーも、ひとつお願いします」
ケーキの人が指さしたのは、ショーケースの横にある箱入りの焼き菓子。
あまり目立たない場所にあって、常連さんか、よほどのお菓子好きしか気づかないような控えめな存在。
「贈りものですか?」
「ええ。会社の後輩に……ちょっとしたお礼で」
その言葉に、菫は思わず小さく微笑んだ。
「ケーキの人」が、誰かのためにクッキーを買う――
そんなの、なんだかちょっと、いいなと思った。
菫がクッキーを丁寧に包もうとしたとき、
彼のコートの胸元がふと揺れて、名札がちらりと見えた。
黒川
それだけのことなのに、胸がすっと熱くなる。
「……黒川さん、ですね」
ぽろっとこぼれた言葉に、自分で驚いて慌ててしまう。
「あっ、すみません……名札、見えちゃって……!」
黒川さんは少し驚いたような顔をして、それからふわりと笑った。
「……いえ、構いませんよ」
その笑顔は、どこか遠くて、でも温かかった。
「それでは、また火曜日に」
クッキーとケーキが入った袋を手に、黒川さんはいつもと同じように静かに去っていった。
残された空気に、ほんのり甘い香りが残っている気がして、
菫は名札の文字を、そっと口の中で繰り返した。
「……黒川さん、かぁ」




