序章 弐
結依ちゃんと映画の約束をしてから、数日が経ったとある朝のこと。
今日が提出日の課題を急いでこなしていた時、教室へ入ってきた担任の加藤先生に声をかけられた。
「五十嵐、ちょっといいか?」
ちょいちょい、と手招きもされて、私は何かやらかしただろうか、と一瞬ひやりとした。
けれどすぐに「私、特に何もしてないな」と思い直す。良い意味でも悪い意味でも、私はこの三年間、ずっと波風立たない生活を送ってきたはずだ。
それでも若干冷や汗をかきながら先生のもとへ向かえば、なぜか白い封筒を渡された。
「……なんですか、これ」
「文部科学省からの手紙。捨てるなよ」
「えっ」
突然の爆弾発言。でも言った張本人は平然とした表情を浮かべている。
「文科省って、なんでまた」
無意識にそう呟くと、加藤先生は「開けてからのお楽しみだな」と答えた。
その言葉に、私はますます首をかしげる。
「まあとにかく、保護者とちゃんと話し合うように。話は以上だ」
「……はあ」
結局最後まで意味が分からず、私は混乱したまま席に戻った。手もとの封筒は、とりあえずクリアファイルにしまっておく。
――保護者と話し合うなんて、よほど重要なことなのだろうか。
先生の言葉の意味を探ろうと、私が机に視線を落とした時、筆箱の下に置いていた課題が目に入った。
「あ、やば」
一気に現実に引き戻されたような気分だった。私はあわててシャーペンをつかみ、書きかけの数式に新たな文字を書き加えていく。
「香川先生怒ると怖いんだよな~……」
ぽつり、と誰にともなく呟いて、私は一つため息をついた。あー、過去の自分を殴りたい。
そうやって、課題に手をつけ始めた時はさっきの手紙やら教科担の先生やらのことが脳裏にちらついていた。
けれど、チャイムが鳴ってなんとか課題を終わらせた時には、先生の言葉も文部科学省のことも、すっかり頭の中から抜け落ちていた。
「ただいまー」
その日の夕方ごろ。
学校からさっさと帰ってきた私は、手洗いとうがいを済ませた後、重たいリュックを抱えて自分の部屋へ向かった。
「あー、疲れた……」
隅っこにリュックを放り投げ、疲弊した身体もベッドに投げ出す。今日は五時間目に体育があり、死ぬほど動き回ったのだ。
しばらく真っ白な天井を眺めていると、不意に今朝の出来事を思い出した。
そういえば、加藤先生から手紙をもらったんだっけ。しかも、差出人が文部科学省の。
今さらだけど、なぜどこにでもいそうな中学生である私宛てに、政府直々の手紙が来るのだろうか。稀代の天才ならまだ分かるが、私には抜きんでた頭の良さも、高い身体能力もない。
「……見てみるか」
とりあえず中身を見て、それから色々考えよう。ここで悩んでいても解決することは何もないのだから。
そう割りきって、私は重い身体をベッドから起こした。
クリアファイルから封筒を取り出して、そのまま階段をおりていく。正直今すぐにでも開けたかったが、そこはぐっとこらえた。
リビングへ向かうと、お母さんはテレビを見ながら洗濯物を畳んでいた。
「ねー、お母さん」
「ん?」
ぱっとこちらを振り返ったお母さんに、私は手の中のものを見せた。
「え、何これ。先生からもらったの?」
「あー……厳密に言えば違う」
「はい?」
首をかしげたお母さんは、疑問符を頭上に浮かべながら、とりあえず開けてみたら、と促してきた。
私は近くにあったソファーに腰かけ、ゆっくりと封筒を開けていく。
やがて中から出てきたのは、こちらも真っ白な三つ折りの紙だった。
「……茉桜、誰からの手紙なのかは聞いてるの?」
何かを察したのか、お母さんがちらり、とこちらを見上げる。相変わらず鋭い。
「ええっとですね」
素直に言おうか、一瞬躊躇った。けれどすぐに言葉を紡ぐ。ここで嘘をつく方が、私にとって不利になるだろうから。
「文部科学省から、私宛てに」
「……はい?」
お母さんは先ほどと同じような言葉を繰り返した。デジャヴである。
「あ、別になんかやらかしたわけじゃないから。多分」
「いやそれくらい分かるけど」
でもなんでかしらね、と呟いた後、続けてお母さんは「早く開けたら?」と私に向かって言った。
私はきゅっと顔を歪め、小さく唸った。
「待ってよ、まだ心の準備が」
「やらかしたわけじゃないって言ったの茉桜でしょ。腹括りなさい」
ばし、と膝を叩かれた。地味に痛い。
「うわー怖い……」
わずかに首を仰け反らせながら、私はおそるおそる紙を開いた。前でお母さんが「姿勢やばいわよ」と笑っているが、今の私に気にしている暇などない。
「ほら、読んでみてよ」
「ちょっとほんとに待って。えっと……」
はやる鼓動をおさえながら題名の部分を見れば、『ギフテッド・プロジェクトの参加について』という文章が目に入った。
「……ギフテッド・プロジェクトの参加について、だって」
「えっ、ギフテッド……って、才能がある人たちを集めるやつよね? それに茉桜が参加するの?」
「いや知らん。でも多分そう」
紙を覗き込んできたお母さんと一緒に、その下の文も読んでいく。
書かれていたのは、来年の四月からプロジェクトが始まること、それに私が選ばれたこと、そして保護者の許可が下りそうだったら、来月に行われる説明会に来てほしい、ということだった。
「『厳正な審査の結果、貴女を当プロジェクトに招待することを決定いたしました』だって。凄いわねえ、茉桜」
「あー……うん。そうだね」
お母さんは今にも飛び上がりそうなほど喜んでいる。この様子だと、私が行きたいって言えばあっさりオッケーしてくれそうだ。
それにしても『厳正な審査』って、本当に大丈夫だったのだろうか? 文科省を疑うわけではないけれど、人違いでは、とかバグが起きたのでは、とか色々考えてしまう。
「どうする? わたしは面白そうだなって思うけど」
やっぱり、お母さんは賛成する気満々だった。お父さんはまだ分からないが、多分反対はしないと思う。
なんせうちの家族は、変なところでノリノリになるから。
「……説明会は、行ってみようかな」
私はそう曖昧に答えた。
今すぐに決めることは、まだ出来ない。なんで私がって思うし、プロジェクトに参加する覚悟もない。
だから、プロジェクトについてたくさん知って、全部納得してから、行くかどうか決める。
「うん。茉桜がやりたいようにすればいいよ」
そう言って、お母さんは優しく微笑んだ。
「お父さんにも言わないとね」
「……そうだね」
私の家族は、生意気だし悪ノリがすごい。悪戯だっていつもしてくる。
それでも、誰かが一歩踏み出す時は、こうやって力強く背中を押してくれるのだ。
そんな彼らが、私は大好きだった。
「ありがとう」
私が感謝の言葉を伝えると、お母さんはわずかに目を見張って、それから満面の笑みを浮かべた。