猫屋敷悠吏 弐
私たちが揃って振り返ると、フェンスを挟んだ向こう側……つまりグラウンドに、先ほどまで試合をしていたはずのオレンジベージュの髪の男の子が立っていた。
「お疲れ様」
椎名くんが声をかける。すると男の子は満面の笑みで「ありがとな」とうなずいた。
「で、なんで兎田がここにいんの? ジャージ着てるし」
気をとりなおしたように、男の子が兎田ちゃんにそう尋ねた。
どうやら二人は仲が良いらしい。私も男の子にどこか見覚えがあったので、多分この人もクラスメイトなんだろう。
兎田ちゃんはにっこりと笑って、男の子の問いかけに返事をした。
「ランニングしようと思って! 暇だったから!」
「おー、相変わらずだな。お前」
男の子がケラケラと笑いながら言った。
その一方で、私は「相変わらず?」と首をかしげた。ただの仲良しにしては、やけに親しい言い方だと思ったからだ。
すると、そんな私に気づいたのか、男の子がこちらを向いた。目が合って、私は思わずびくっと肩を震わせる。
「五十嵐さん、だっけ? 俺と同じA組だよな」
「え、あ、うん……」
やはり彼とはクラスメイトだったようだ。しかし肝心の名前が出てこない。この人誰だっけ……。
「俺、大神令って言うんだけど。覚えてない?」
「……あ、一番前の席に座ってる?」
数拍置いてから私がそう尋ねると、男の子は「そうそう!」と嬉しそうに笑った。私は安心してほっと胸を撫で下ろす。
彼――大神くんは、詩央里ちゃんの左隣の席に座っている男の子だ。気さくで明るい人柄で、いろんな人と楽しげに話しているのをよく見かける。
そして、『ギフテッド・プロジェクト』を運営している大企業――大神グループの、御曹司だ。
私は今日が初対面だったが、大神くんは予想通りとても話しやすい。笑顔で接してくれるし、こんな私とも嫌な顔一つせず話してくれる良い人だ。
……それにしても、大神くんの方から名乗ってくれて良かった。
でもまあ、これからはクラスメイトの名前くらいは覚えておかないと。私は大神くんに笑みを返しながら、そう決心した。
「それで、お二人の関係は……」
話が一段落したところで、私がそう軌道修正すると、大神くんはそうだった、と思い出したように声をあげた。
「俺と兎田なー」
「うちら同じ中学だったよ!」
「おい待て兎田。俺まだ何も言ってない」
大神くんが顎に手をあてて勿体ぶるように言った瞬間、兎田ちゃんが元気よく言葉を被せてきた。さすが兎田ちゃん。
「そっか、だから仲良さげだったんだね」
雛奈ちゃんが両手を合わせてそう微笑んだ。大神くんは「え、続けんの?」と戸惑っている。
「じゃあ、詩央里ちゃんと安堂さんみたいな関係ってこと?」
「うん! そうなるね!」
「ほーん。響と古賀って同中なんだな」
私の質問に兎田ちゃんがうなずくと、今度は姫宮朝日が口をはさんできた。
その顔はニヤニヤと怪しい笑みを浮かべている。また安堂さんにちょっかいかけるのかな、と私はそれを眺めながら思った。
「それを言うなら、古賀さんと羽乃鳥くんだって……」
「――令。まだ終わんねえのか」
椎名くんが言葉を発した瞬間、少し低い声がそれを遮った。
「あ、悠吏。ごめんなーほっぽりだしちまって」
振り返った大神くんが、片手で「ごめん」のポーズをとる。
大神くんの後ろまでやって来た彼――猫屋敷くんは、やや不機嫌そうな表情を浮かべて言った。
「すぐ戻るっつってたのに……何してんだ」
「ごめんごめん。兎田たちと話してたらつい」
猫屋敷くんはものすごい剣幕だが、大神くんは平然と謝っている。見たところ友達同士のようだけど、とてもそんな空気には見えなかった。
「あの、椎名くん。何か言おうとしてたよね」
とりあえず彼らは置いといて、私は発言を遮られてしまった椎名くんへ声をかけた。
「ううん、大丈夫。気にしないで良いよ」
けれど椎名くんは、先ほどと変わらない笑顔で首を横に振った。さらり、と彼の柔らかそうな髪が揺れる。
「いつものことだからね」
「そうなの?」
「うん。猫屋敷くんって、よく人の話聞かないから」
「なるほど……」
思わず苦笑を浮かべる。それは人としてどうなのだろう……とは言わないでおいた。
「令はなんでサッカーやってたの? 暇だったから?」
兎田ちゃんがそう尋ねると、大神くんは笑いながら首を振った。
「なわけ。練習試合の申し出があったから、その準備のためだよ」
「練習試合……あ、部活か」
私はぽん、と手を打った。すると、大神くんが「そういうこと」とうなずいた。
――ゴールデンウィークに入る前、私たちは部活動の希望調査を行った。
中学の時とは違って、必ずどこかの部活に所属しなければならないわけではなく、専攻によって選択肢が狭まるということもない。
あくまで人間関係の構築を目的としたものだと、先生は言っていた。
「兎田ちゃんはバレー部で、雛奈ちゃんがハンドボール部だっけ」
「そうだよ! 得意分野だしね!」
私の言葉に、兎田ちゃんが手を挙げて返事をする。その横では、フェンスに寄りかかっていた大神くんが「兎田は聞かなくても分かる」と呟いていた。
「私はまだ入ってないけど……大神くんと猫屋敷くんは、サッカー部だよね」
「おー」
大神くんがピースをしながらうなずいた。そのまま、伸ばしていた人差し指と中指をくっつけたり離したりしている。かわいいな、と思った。
「椎名くんたちは?」
続いて目の前に視線を戻すと、柔和な笑みを浮かべた椎名くんが口を開いた。
「俺も五十嵐さんと同じだよ。特にやりたいこともなかったしね」
「俺もー。仕事疎かにするわけにはいかねえからな」
姫宮朝日も手を頭の後ろで組みながらそう答えた。意外と部活に所属している人は少ないのかもしれない。
「羽乃鳥くんは……」
私が名前を呼ぶと、今まで一言も発しなかった羽乃鳥くんがこちらを向いた。デジャヴである。
「部活何やってる? だって」
椎名くんが私の言葉を繰り返す。これもさっきやったな……。
「特に何も」
少し考えるような仕草を見せた羽乃鳥くんは、やがて簡潔にそう言った。無所属はこれで四人目だ。
「えー、ならサッカーやろうぜ」
「ごめんね。俺あんまり詳しくないから」
「興味ねえ」
「ボール系は嫌い」
「お前らなんか当たり強くね?」
大神くんが拗ねた口調で呟くと、椎名くん、姫宮朝日、そして羽乃鳥くんは、それぞれの言い方で彼の言葉をばっさりと切り捨てた。
おかげで大神くんは悲しそうな表情を浮かべている。仲がよろしいようで何よりです。
「……あ、私ゼミ室行かなきゃ」
と、ここで、私は本来の目的を思い出した。
クラスメイトとの交流も大事だが、学生の本分とも言える勉強も同じくらい大切だ。
「五十嵐さん勉強すんの? 偉いなー」
そう言って、大神くんが「いってらー」と私たちに手を振ってくれた。椎名くんたちも「頑張ってね」やら「俺なんもやってねえ」やら、応援の言葉――姫宮朝日はちょっと違った――をくれる。
「じゃあうちらも走ってくるね! ばいばい茉桜っち!」
「またね、茉桜ちゃん」
「うん。みんな頑張ってね」
兎田ちゃんと雛奈ちゃんは、特別棟とは反対の正門方向へと走っていった。敷地内を一周するつもりのようだ。
「それでは、私もこれで」
「おう! またなー」
優しい大神くんたちに見送られながら、私もこの場を後にする。
次に会うのは、おそらくゴールデンウィーク明けの最初の平日だ。それまでは、みんなに追いつけるよう頑張って勉強しないと。
そう決めた私は、心持ち早足で特別棟へ向かった。