猫屋敷悠吏 壱
時の流れとは早いもので、気がついたらもう五月に入っていた。
桜はとうに散り、木々は緑色に移り変わってきている。風も少しずつ暖かくなっていて、夏が近づいているのが分かった。
「……暇だ」
ごろり、と寮のベッドに寝転んで、私はひとりごとを呟いた。もちろん、応えてくれる人は誰もいない。
私は両手を投げ出すと、一つため息をついた。
――専攻授業の初回を終えた私たちは、息をつく暇もなくゴールデンウィークへと突入した。
今年はなんと八連休。テレビやネットでは、家族で旅行に行っている姿や、友達同士で遊んでいる姿がたくさん映っている。
けれど、千両学園にいる私たちはそうはいかない。
いくら長期休みと言っても、夏休みや冬休みほどの長さはない。だから家には帰してもらえないし、学校外を出歩くこともまだ出来なかった。
幸い、敷地内の施設はなんでも利用することが出来るそうで、運動したりゼミ室で勉強したりするのは私たち生徒の自由らしい。
『何かあったら職員室まで来てね。休みの間は教師が数人常駐してるから』
休暇に入る前、担任の倉木茅人先生はそう言っていたが、ぶっちゃけこの閉鎖空間の中で事件が起こるとはとても思えない。一週間くらいで休み終わるし。
……でもまあ、一週間何もしないというのも良くないだろう。せっかく学校が開いているのだから、授業の予習とか復習とか、今のうちにやっておくべきだ。
それに私は『天才』じゃないから、みんなより頑張らないと、いつか置いていかれてしまうような気がしていた。
「着替えるか……」
私は一度伸びをすると、制服に着替えるべく、ベッドから起き上がった。
◇
「あ、茉桜っちおはよー!」
「おはよう茉桜ちゃん」
寮のエントランス――マンションみたいに広くて綺麗だ――に下りると、ジャージ姿の兎田柚希ちゃんと辻本雛奈ちゃんに会った。
「おはよー二人とも。朝からどうしたの?」
挨拶を返しながら私がそう尋ねると、兎田ちゃんがにっこりと笑ってピースサインを向けてきた。
「ランニング! 暇だから!」
「な、なるほど」
さすがは運動の『天才』だ。暇だから走るっていう発想、私にはないな。私がスポーツ苦手っていうのもあるだろうけど。
「雛奈ちゃんも?」
「うん。柚希に誘われたから」
「おお……」
友達に誘われたから運動するなんて、こちらも到底考えられない動機だ。さすが、ハンドボール投げで学年女子一位の記録を出しただけある。
私は感嘆の声をあげながら、やっぱりこの二人はすごいな、と思った。
「茉桜ちゃんはどこに行くの?」
微笑みながら、雛奈ちゃんが私にそう尋ねてきた。その隣では、兎田ちゃんがもうストレッチを始めている。早いな。
「ちょっと勉強しようかなーと思って、ゼミ室に」
私はそう答えて、右肩から提げていた黒色のトートバッグを二人に見せた。中には教科書やノート、筆記用具なんかが入っている。
「えー! 勉強するの? 偉いねえ茉桜っち!」
兎田ちゃんがぴょんぴょん、と跳びはねながら歓声をあげた。雛奈ちゃんも「さすが茉桜ちゃん」と笑みを浮かべる。
私はなんだか照れくさくなって、ありがとう、と小さな声で返した。
「そういえば、学問専攻ってどんな授業をしたの?」
出入り口の自動ドアへと向かいながら、雛奈ちゃんがそう聞いてきた。
「えーっと……最初にテストして、あとは自由時間だったよ」
「テスト?」
ドアをくぐりながら、私はうん、とうなずいた。
「国語とか数学とか、あとIQテストみたいなのもあった」
「うわ、あたし絶対無理ー!」
兎田ちゃんが眉間に皺を寄せながら言った。たしかに彼女は、座って勉強するというよりも、身体を動かす方が好きそうだ。というか実際そうなのだろう。
「よくやるねえ、茉桜っちも詩央里サンも」
「ねー」
私は苦笑しながら、ふと古賀詩央里ちゃんの笑顔を思い浮かべた。
――テストの結果はまだ返ってきていないけれど、おそらく彼女は、私よりはるかに高い点数を取っている。
最初に会った時は変な人だと思ったが、ああいう人ほど何かしらの『才能』を持っていたりするのだ。詩央里ちゃんの場合、それは勉強が出来るとか記憶力が良いとか、そういうのだと思う。
……正直、私はそれが少しだけ、羨ましかった。
ただの凡人な私には、詩央里ちゃんや兎田ちゃん、クラスのみんなが、眩しく見える。好きなものに一生懸命な『天才』が、かっこいいと思う。
でも、それと同時に、私は本当にここにいてもいいのかな、なんて、自信を失くしてしまうのだ。
たとえ一生手に入らないとしても、私は、『才能』を欲してしまう。
そんな自分が嫌で、私は小さなため息をついたのだった。
◇
ゼミ室のある特別棟まで向かっていると、不意に誰かの叫ぶような声が聞こえた。
「え、事件?」
「悲鳴……ではなさそうだね」
私が若干ビビりながらそう呟くと、雛奈ちゃんが横で冷静に推理していた。格差がすごい。
「行ってみようよ!」
そしてなぜか兎田ちゃんが、意気揚々と声が聞こえた前方を指さして言った。そんな嬉しそうな顔しないでください。
「友達同士の戦いとかかな?」
「あー、殴り合いみたいなやつだ!」
「それは現実的にないと思うよ兎田ちゃん……」
そんな言葉を交わしながら小走りで声のした方へ向かうと、たどり着いたのは高等部専用グラウンドだった。
広々としたそこでは、二人の男の子がサッカーをしていた。どうやら一対一のミニゲーム中らしい。
戦っているのは、オレンジベージュのさらさらな髪を持った男の子と、白髪の男の子だった。ボールは白髪の子の足もとにぴったりと寄り添っている。
その見覚えのある姿に、私は思わず声をあげた。
「ネコヤシキくん……」
間違いない。以前、専攻授業で詩央里ちゃんとここに来た時、驚くほど上手なボールさばきを見せていたあの男の子だ。
彼は焦る素振りを一切見せず、余裕綽々な動きで相手の男の子を翻弄していた。素人目から見ても、ネコヤシキくんはやっぱりサッカーの『天才』だ。
すごいなあ、と私が感心していた、その時。
「――かっこいいよね、猫屋敷くん」
「うわっ!」
突然背後から声をかけられて、私はびくっと肩を震わせた。
ついでに叫び声もあげると、隣にいた兎田ちゃんが「驚きすぎだよ茉桜っち!」と手を叩いて爆笑する。
「しょうがないでしょ……」
熱くなった頬をパタパタと扇ぎながら振り返ると、そこには三人の男の子が立っていた。みんな背がものすごく高い。
「おはよう。ごめんね、びっくりさせちゃって」
真ん中にいた男の子が、後ろで手を組みながら申し訳なさそうに笑った。
ふわふわした亜麻色の髪が特徴的な、笑顔がとても似合う男の子だ。顔も整っていて、それが柔らかい印象を与えている。
「君って、わたしたちと同じクラスの……」
雛奈ちゃんがそこまで言いかけると、男の子はにっこりと笑みを浮かべながら口を開いた。
「うん。A組の椎名誉だよ。話すのは今日が初めてだね」
よろしく、と彼――椎名くんが軽く手を振る。すると真っ先に兎田ちゃんが「よろしくー!」と返事をした。相変わらず兎田ちゃんは元気いっぱいだ。
「ちなみにだけど、俺のことは分かるよな?」
続いて、そう言いながら自分のことを指さしたのは、椎名くんの右隣に立っていた男の子……姫宮朝日だった。
「……どうしてここに?」
私が探るように問いかけると、姫宮朝日は「そんな警戒すんなよ」と笑いながら肩をすくめた。
「俺もA組だからな。こいつらといても不思議じゃないだろ」
「それはそうだ!」
兎田ちゃんが私より先に返事をする。耳もとで叫ばれたからか、キーンと耳鳴りがした。
……というか、兎田ちゃんと雛奈ちゃんは姫宮朝日に驚いていないけれど、やっぱりクラスメイトだし、何より有名人だからなのかな。
そんな疑問を抱いていると、それに気がついたらしい雛奈ちゃんが私に教えてくれた。
「姫宮くんは柚希の隣の席なんだよ。だから間接的だけど、わたしも知り合いなの」
「あ、なるほどね」
ならば納得だ。初めからお互いのことを知っているのなら、びっくりしないのも合点がいく。四月に食堂でも姫宮兄弟の名前が出ていたし、それもあるのだろうけど。
「それで、そちらの方は……」
そう言いながら椎名くんの左隣に目を向けると、グラウンドを見ていたらしい彼が、ちょうどこちらに顔を戻したところだった。
その瞳が私を捉えた瞬間――私は、ゆっくりと目を見開いた。
「……詩央里、ちゃん?」
似ている、と思った。
長いまつ毛に縁取られた、やや切れ長の双眸。そこに強い意思は感じられず、ただ淡々と私たちを見つめている。
髪は艶やかな黒色。詩央里ちゃんとは違う色だったけれど、顔立ち……特に目もとが、本当に彼女にそっくりだった。
「ほら、挨拶」
椎名くんがそう促すと、彼は私たちに軽く会釈をした。
「はじめまして。……A組の、羽乃鳥です」
笑顔も何もない、ちょっと無愛想な挨拶だ。詩央里ちゃんとは正反対である。
けれど、私が驚いたのはそこじゃなかった。
「羽乃鳥……って」
無意識に、その名前を反芻する。私は彼から目が離せなかった。
――お前の目もとがなんとなく羽乃鳥にそっくりだったから、あれ? って思って。
姫宮朝日の言葉が脳裏をよぎる。まさか、こんなところで伏線回収するとは。
私は今すぐにでも詩央里ちゃんと安堂さんをここに召集したい気持ちにかられた。
「あの、羽乃鳥くん……」
真実を確かめようと、私が羽乃鳥くんに声をかけた瞬間。
「――あれ? 兎田じゃん」
聞き覚えのない男の子の声が、突然割り込んできた。