専攻授業 伍
「……なんでここにいるの」
トイレから出てきた安堂さんは、ものすごーく嫌そうな表情で私たちを見ていた。
「いやあ、たまたま通りかかったから――」
「はい嘘。そういうのいらないし」
「最後まで言わせてよー」
安堂さんは詩央里ちゃんの言葉をすっぱりと遮ると、小さなため息をついた。
「で、茉桜も連れてきてなんの用?」
ハンカチを丁寧にしまった後、腕を組みながら安堂さんが詩央里ちゃんに尋ねる。
その姿がさっきスタジオで話した男の子にそっくりで、私はあやうく吹き出しそうになった。
「専攻授業の見学だよー。さっきトダちゃんとヒナちゃんに会ったから、響のところにも行こうと思って」
「へえ」
安堂さんはあまり興味がなさそうな返事をして、ふと私の方を向いた。自分から聞いておいてぞんざいな返しをするところも、先ほどの男の子にそっくりだ。
「それで、茉桜は詩央里に振り回されてると?」
「え、いや、違うと思う……多分」
「マオちゃんそこは言い切ってほしかった」
詩央里ちゃんは悲しそうな表情を浮かべているが、絶対に振り回されてません! とも言えなかったので、私は苦笑で濁しておいた。
「……私もう練習終わったけど、まだ見学続ける?」
少し考えるような素振りを見せた後、腕を組んだ体勢のまま、安堂さんが私たちにそう尋ねてきた。
「え、着いてきてくれるの?」
間髪容れずに詩央里ちゃんが尋ね返す。すると安堂さんも「別にそうは言ってない」と素早く言い返した。幼稚園からの馴染みなだけあって、二人ともテンポが早い。
――と解説している私は、詩央里ちゃんと安堂さんの間に挟まるように立ちながら、二人の会話をぼーっと聞いていた。我ながら情けない姿である。
「でもどうせ暇でしょ? 特別棟まだ全然見てないから案内してよ響さん」
「うわ失礼だな。ていうか私もここのことほとんど知らないから案内出来ませーん」
安堂さんがめんどくさそうに肩をすくめると、詩央里ちゃんは「ええ」と残念そうな声をあげた。
「この前特別棟の女王になるって言ってたじゃん。あれ嘘だったの?」
「真偽以前にいつの話だよそれ」
「えー」
このままでは話が終わらない気がしたので、私は「あの」と二人に声をかけた。
と、その時。
「――あらら、そこにいるのは響じゃあないですか」
すぐ横からそうからかうような声がして、私と詩央里ちゃんはほとんど同時に「うわっ!」と叫んだ。
「……げ」
唯一驚かなかった安堂さんが、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
誰だろう、と若干警戒しながら振り返ると、男子用トイレの入り口に、背の高い茶髪の男の子が立っていた。
髪は上の方がもとの黒色に戻りかけていて、それが綺麗なグラデーションを描いているのが特徴的だ。
顔立ちはかなり整っていて、私はその顔にどこか見覚えがあった。
「……え、待って。嘘でしょ?」
無意識にそんな言葉が口から飛び出す。横で一緒に驚いていた詩央里ちゃんも、笑いながら「まじか」と呟いていた。
「あの、間違ってたら申し訳ないんですけど……姫宮朝日、さん?」
恐る恐る私がそう尋ねると、男の子は意外そうな表情を私に向けた。
「へえ、君は俺のこと知ってるのな。嬉しいわ。ちなみにそっちの子は?」
すい、と男の子――姫宮朝日の目が詩央里ちゃんに向く。詩央里ちゃんは親指を立てながら「もちろん」と答えた。
「姫宮兄弟の兄の方」
「おー、正解。響は気づいてくれなかったから、俺あんま知名度ないのかなって思ってたんだよ」
な、と姫宮朝日はニヤニヤした顔で安堂さんを見下ろした。安堂さんは「テレビ見ないから知らん」とそっぽを向いている。
一方、私は口もとに手をあてながら姫宮朝日の顔を見上げていた。
――姫宮朝日。今最も来ている人気俳優『姫宮兄弟』の片割れで、その演技力とトーク力に、女性ファンが急増している有名人だ。
「え、うわ、本物だ……」
「マオちゃん?」
詩央里ちゃんが目を丸くする。
私はそれには反応せず、ただただ姫宮朝日のご尊顔を眺めていた。間近で見るとやっぱイケメンだな……。
「姫宮さんイケメンですね」
「あれ、マオちゃんがキャラ崩壊してる」
私としたことが、思ったことをそのまま口にしてしまったらしい。姫宮朝日は「よく言われるー」と流していたが。
「……あれ。というか、安堂さんと姫宮さんはお知り合いで?」
姫宮朝日という衝撃の事実のせいであやうくスルーしそうになったが、よく考えればこの状況はかなり謎だ。
目の前に有名人、という人生初の出来事にまだびっくりしながら、私は姫宮朝日と安堂さんにそう問いかけた。
すると、安堂さんが姫宮朝日を指さしながら、ぼそ、と小声で言った。
「……ナンパされた」
「えっ」
「おお、まさかの展開」
「いや違うからな!?」
私と詩央里ちゃん、そして姫宮朝日の声が見事に重なる。私と詩央里ちゃんに至ってはデジャヴだ。
「やるじゃん響。人気俳優に気に入られるとはねー」
「え、羨ましい……」
「いやだから違うぞ!?」
そう叫んだ姫宮朝日は、「マジだったら軽くスキャンダルだわ」と頭をかきながら突っ込んだ。意外とノリが良い。
「まあそれは置いといて、ヒメミヤくんはまだ授業中?」
爆笑していた詩央里ちゃんが、思い出したように話題を変えた。恐ろしいほどの切り替えの早さである。
「おう。他のやつらはまだ稽古場で指導受けてるぞ」
「じゃあそれ、見に行ってもいいかな?」
詩央里ちゃんの唐突な頼みごとに、姫宮朝日は一瞬、よく分からないとでも言いたげな表情を浮かべた。
けれどすぐに「いいよ」とうなずいてくれる。果たして本当に理解しているのだろうか……。
「ありがとー。もちろん邪魔はしないのでご安心を」
「それは別に大丈夫だけど、授業あとちょっとで終わるぞ?」
「ちらっとだけ見せてもらえればいいよ。単純にどんな感じか気になるだけだし」
詩央里ちゃんがそう返せば、姫宮朝日は「分かった」と微笑んで、私たちを部屋まで案内してくれた。
◇
――ダン! と床を踏み鳴らす音がして、続けざまにセミロングの女の子が叫ぶ。
「全部あんたのせいよ! あんたのせいでわたしは、こんな……っ」
すると、対面に立っていた銀髪の男の子が、ガシガシと頭をかきながら言った。
「うるせえよ、デカイ声出しやがって。つーか責任全部俺に押しつけんな」
その言葉に女の子は目を見開くと、勢いよく男の子に掴みかかった。
「何が責任押しつけんな、よ!? わたしは何も悪くない!」
男の子はうんざりしたような表情で女の子を見下ろした。
「耳もとで騒ぐな。もういいだろ、この話は」
「よくないわよ!!」
女の子が再び叫んだ瞬間、部屋の隅にいた先生とおぼしき女の人が「はいカットー」と手を叩いた。
するとすぐに女の子が男の子の襟から手をパッと離して、「痛くなかった?」と笑う。男の子の方も柔和な笑みを浮かべながら「大丈夫」と答えていた。
「……こわ……」
その様子を部屋の外から覗き見ていた私は、冷や汗を流しながらそう呟いた。あまりの迫力に、鳥肌まで立っている始末だ。
「それな」
「本物の役者さんってすごいねえ」
一緒に見ていた安堂さんと詩央里ちゃんも同意してくれる。
すると、私たちの一歩後ろにいた姫宮朝日が苦笑して言った。
「まあどっちも子役時代からのプロだからな。俺もだけど」
やはりというか、さすがというか。姫宮朝日の言葉には、本職だからこその余裕が垣間見えた。
――そう。姫宮朝日の言った通り、目の前で演技を披露していた二人は、実際に俳優として活躍している芸能人だ。
男の子の方は、以前食堂で見かけたこともある姫宮朝日の双子の弟――姫宮流星である。顔が姫宮朝日と本当に似ていて、もはや髪色の違いでしか判断出来ないのが特徴だ。
姫宮流星はその役柄と普段の温和な性格が正反対すぎて、巷では「二重人格」と疑われるほどの高い演技力を持っている。さっきのオンオフの激しさがその証拠だ。
ちなみに私はDV男みたいな変わりようだと思っているが、さすがにそれは本人に失礼なのでここだけの秘密である。
そしてセミロングの女の子の方は、姫宮兄弟と張り合えるほどの知名度と実力を持つ、早乙女麗さんだった。
天性のかわいさと、幼いころから続けている俳優業で培った魅力を兼ね備えている彼女は、まさに女の子たちの理想だ。
男性人気はもちろんのこと、女性人気もすさまじい。私も早乙女麗さんには憧れを持っていたから、まさかこんなところで会えるなんて思ってもみなかった。
「あ、朝日」
タオルで汗を拭いていた姫宮流星が、ふとこちらを見て片割れの名前を呼んだ。
「おかえり。その人たちは?」
「さっきトイレで会ったクラスメイト。見学に来たってさ」
姫宮朝日がそう答えると、姫宮流星は私たちに目を向けて、穏やかな笑みを浮かべた。
「はじめまして、姫宮流星です。朝日がいつもお世話になってます」
驚くほど完璧な王子様スマイルだ。慣れてる感がすごい。
というか、さっきの役とあまりにもキャラがかけ離れているのですが……。
思わずそう突っ込みそうになったけれど、姫宮流星の貴重な生笑顔が見られたので、まあこれはこれで良いか、と気にしないことにした。
「朝日のクラスメイトってことは、もしかして体力テスト上位の子かな?」
先生に会釈をしてから部屋の中へ入ると、姫宮流星の後ろからひょっこりと顔を出しながら、早乙女麗さんがそう言った。
……姫宮朝日の時もそうだったけど、芸能人って近くで見るとさらに魅力が増すんだよね。羨ましいな。
「どういうこと?」
安堂さんがぶっきらぼうに尋ね返す。私は頭を抱えそうになるのをとっさにこらえた。
だが、早乙女麗さんはそんな安堂さんの反応にも眉をひそめることなく、満面の笑みで教えてくれた。
「わたしも詳しいことは分からないんだけど、A組の女の子の体力テストの結果が、他クラスより高かったみたい。だから三人とも運動が得意なのかなって」
「ああ、なるほど……」
それはおそらく、雛奈ちゃんと兎田ちゃんによるものだ。あの二人は学年トップの記録をそれぞれ持っていたし、それがきっとクラスの平均を上げていたのだろう。いやあ恐ろしい。
「私はあんまり得意じゃないかな……」
「左に同じ」
私と安堂さんはほとんど同時に首を横に振った。
私も安堂さんも、雛奈ちゃんたちほどの身体能力は持ち合わせていない。というか、あそこまでの『才能』はいらないな……。
「マオちゃん、響。そろそろ帰ろうか」
その時、後ろから詩央里ちゃんに声をかけられた。私はあれ、と思いながら振り返る。
「詩央里ちゃん、いつの間にそこに?」
「んー、二人がリュウセイくんに挨拶されてたところから」
「結構序盤だね……」
詩央里ちゃんはくく、とちょっと変わった笑い声をあげると、背後を親指でさしながら言った。
「ユアちゃんと話してたんだ」
親指の先には、壁にもたれかかった体勢のショートカットの女の子がいる。彼女がユアさんというらしい。
ユアさんは私の視線に気がつくと、にっこりと笑いかけてくれた。
「そっか。知り合い?」
「うん。ちなみにクラスメイトね」
「えっ」
本日何度目かの衝撃の事実に、私は今度こそ頭を抱えた。今日はイベントが本当に多い。
……ていうか今さらだけど、姫宮朝日もクラスメイトだったんだね。さっき初めて知りました。
「じゃあ私たちは帰るね。色々ありがとー」
「詩央里ちゃん、もういいの?」
「うん。さっきの演技でお腹いっぱいになったから」
私の問いかけに詩央里ちゃんがそう笑って、扉の方へ足を向ける。
と、その時、姫宮朝日が「あ、ちょっと待て」と声をあげた。
「古賀……だったよな、たしか。一つ質問していいか?」
「え? うん……どうぞ?」
姫宮朝日の意味深な前置きに、詩央里ちゃんが訝しげな表情を浮かべる。私も何を言うのだろう、と首をかしげながら続きを待った。
「――あのさ。古賀って、生き別れの双子とかいたりする?」
「……はい?」
一体なんのドラマだ、それは?
私は姫宮朝日の言葉を聞いた瞬間、心の中でそう突っ込んだ。他のみんなも、呆気にとられたように目を丸くしている。そりゃそうだ。
「えーっと……いないよ?」
いつも笑っている詩央里ちゃんでさえ、わけが分からないとでも言いたげな表情をしている。
私は心中ご察しします……とそっと手を合わせた。
「あー、やっぱそうだよな」
けれど、まるで最初から答えが分かっていたかのように、姫宮朝日はあっさりと引き下がった。
「ごめんなー、変なこと言って。お前の目もとがなんとなく『羽乃鳥』にそっくりだったから、あれ? って思って」
「……羽乃鳥?」
知らない名前だった。姫宮朝日の友人か何かだろうか。
そう思って、詩央里ちゃんに目を向けると――。
「……羽乃鳥ね。まあ、間違ってはないかな」
と、なぜか詩央里ちゃんも普段の笑顔を浮かべながら、謎の言葉を姫宮朝日に返していた。
その口調は、まるで『羽乃鳥』という人のことを、よく知っているかのようだった。
……いや、どういうこと?