専攻授業 肆
続いて、私と詩央里ちゃんは三棟の隣にある特別棟へ向かった。安堂さんの様子を見に行くためだ。
「まだ怒ってんのかなー、響」
「もしそうだったら慰めないとね」
「ねー」
二人で安堂さんについて話していると、いつの間にか左手に高いフェンスが連なっていた。
全面芝生になっている、高等部専用の第三グラウンドだ。ちなみに体力テストを行ったのもこのグラウンドである。
そこではちょうど、サッカーの試合が繰り広げられていた。
「みんな上手だね」
「運動神経良いの羨ましー」
ボールは幾度となく持ち主を変え、コートを行ったり来たりしている。参加者のレベルが相当高いようで、どちらのチームもなかなか点が入らないようだった。
と、その時、ボールを蹴って走っていた短髪の男の子の横から、ひとりの男の子が流れるようにボールを奪い取った。
透けるような白い髪に、同じくらい真っ白な肌。金色の猫目はゴールポストだけを見ていて、なんだかそれが少しだけ怖かった。
男の子はそのまま、手前のゴールに向かって走り出した。途中何度か敵チームがボールを奪おうと果敢に攻めていたが、白髪の彼はそれを次々と躱していく。
「うわ、すごいね」
隣で詩央里ちゃんが感嘆の声をあげた。私は男の子の姿を目で追いながら、半分上の空で「うん」と返す。
いつの間にか私は、白髪の男の子に見入っていた。
「撃て!」
後方にいた味方らしき男の子が叫ぶ。白髪の男の子は一瞬目を細めると、ポン、と優しくボールを蹴った。
高く上がったボールは、緩やかな弧を描きながらゴールへと吸い込まれていく。ゴールキーパーはそれを止めようとジャンプして手を伸ばしたが、ボールはその手に触れることなくネットを揺らした。
次の瞬間、わっとコートに歓声が響きわたった。先ほど叫んでいた男の子が、満面の笑顔で白髪の男の子に飛びつく。そのまま彼の頭を乱暴に撫で回していた。
「……多分だけど、あの白い人うちらと同じクラスだよ」
「え?」
腕を組みながら、詩央里ちゃんがぽつりとそう呟いた。私は反射的に顔を上げる。
「たしかネコヤシキくんって名前だった気がする。結構後ろの名簿だから、確実なことは言えないけどねー」
詩央里ちゃんはどうやら知っているみたいだったが、私には聞き覚えのない名前だ。まあ顔を見たのも今日が初めてなので、当然と言えば当然なんだけど。
グラウンドの方へ視線を戻すと、ネコヤシキくんはこちらに背を向けて歩いていた。自分のポジションに戻る途中だろうか。
……サッカー、めっちゃ上手だったな。
相手を難なく躱すドリブルの技術に、ゴールキーパーをものともしないシュートの技術。すべてが完璧で、本当に私と同い年なのかと疑ってしまうくらいだ。
サッカーには詳しくないけれど、ネコヤシキくんからボールを取られた男の子や、シュートを撃たれたゴールキーパーの表情を見ればなんとなく分かる。ああ、ネコヤシキくんって強いんだな、と。
きっと彼も、私が憧れる『天才』の類なのだろう。生まれた時から神様に愛されていた、稀少な存在だ。
――その時、隣から視線を感じて、私はそちらに目を向けた。
「……え、何その顔」
びっくりして、思わず失礼すぎる言葉を発してしまう。
でもこれは仕方ないと思ってほしい。だって詩央里ちゃんは、いかにも何か企んでいそうなニヤニヤした笑顔で、私を見つめていたのだから。
「えー、だってマオちゃんさ、ずっとネコヤシキくんのこと見てんだもん」
口もとに手をあてて笑う詩央里ちゃんは、今めちゃくちゃ悪い人みたいだ。まるで主人公が怪我を負う姿に対して笑っている、サイコなキャラのようである。
そのサイコな詩央里ちゃんは、ニヒルに笑って、爆弾を投下してきた。
「――もしかして、ネコヤシキくんに惚れちゃった?」
「……はい?」
惚れちゃった……ホレチャッタ?
一瞬訳が分からなくて、はてなんのことやら、と首をひねる。
が、その意味を理解した瞬間――私の顔がみるみるうちに熱を帯びていくのが分かった。
「はい!?」
ばっと頬に両手をあてて叫べば、詩央里ちゃんはいよいよ手を叩いて爆笑しだした。
「あっははははははっ! マオちゃん顔真っ赤じゃんー!」
「それは詩央里ちゃんのせいでしょ!」
「ごめんってー」
口では謝りつつも、その笑顔は一切崩れない。ほんとに良い性格してるな……。
「違う、違うから! 普通にすごいなって思っただけなの!」
私が勢いよく首を振って否定すると、詩央里ちゃんは目じりに浮かんだ涙を拭いながらうなずいた。
「うん、知ってるよ。ちょっとからかっただけー」
「いや分かってたんかい!」
まじで嫌な性格だなこの人!
そう突っ込んで、ばしっと八つ当たり気味に詩央里ちゃんの背中を叩く。詩央里ちゃんは「いたーい」と言いながら笑っていた。
「もー……」
パタパタと手で顔を扇いだものの、熱は一向に冷める気配がない。
……これからはもうちょっと気をつけないとな。さすがは詩央里ちゃんの観察眼だとは思うけど、二度もこんな目に遭わされるのはごめんだし。
油断も隙もないとはこのことだ、と思いながら、私はため息をついた。
◇
その後、特別棟までやって来た私たちは、汚れ一つない綺麗な廊下を通って音楽スタジオへとたどり着いた。
濃茶色のお洒落な扉の前に立ち、私は詩央里ちゃんと顔を見合わせる。
「……開けていいのかな」
「いいんじゃない? 別に邪魔するわけではないんだし」
「それはそうだけど……」
今のところ誰かの声や楽器の音は聞こえないから、多分休憩中か何かなんだろう。扉が防音仕様だったら話は別だけど。
「もー、マオちゃんはビビりですなー」
痺れを切らしたのか、詩央里ちゃんがさっさとドアノブに手をかけた。
「失礼しまーす」
そしてそのまま、私が声をあげる間も無く扉を開く。ガチャ、と音が鳴った。
と、その時――部屋の中から、小さな歌声が聞こえてきた。どうやら休憩中ではなかったようだ。
けれど――。
「うわ、すご……」
私は無意識に、そう呟いていた。
少しくぐもっているように聞こえるが、女の子が歌っているのだとすぐに分かる。耳をすますと、かすかにギターのような音も聞こえた。
すごく綺麗な歌声だ。透明感があって、まるで天女が歌っているかのような清廉さを感じる。
声音はまだ幼くて、きっと私と同年代の子なんだろうなと思った。だとしたらすごい『才能』だ。
一体誰が歌っているのだろう、と私は詩央里ちゃんの身体と扉の間に顔を突っ込み、中を覗いてみた。
けれど、そこにはだだっ広いスタジオとドラムやギターなどの楽器があるだけで、人っ子ひとり見当たらなかった。
「みんなどこ行っちゃったんだろうねー」
頭上で詩央里ちゃんがそう呟く。私はそれに「だね」とうなずきながら、改めて部屋の中を見回した。
その時だった。
「――ねえ。邪魔なんだけど」
「うわっ!」
背後から突然声をかけられて、私は思わずびくっと肩を震わせた。発した声も裏返ってしまう。
とっさに振り返ると、私たちの後ろにひとりの男の子が立っていた。
髪が肩につきそうなくらい長くて、その色は墨のように真っ黒だ。背も詩央里ちゃんよりはるかに高い。両耳にはシルバーのピアスがついていた。
……ていうか、さっき「邪魔」って言った? 言ったよね?
「あ、ごめんねー」
私が男の子の言葉にびっくりしていると、詩央里ちゃんがさっと後退しながらそう言った。あわてて私も扉の前から離れる。
男の子は詩央里ちゃんと私の顔を交互に見やると、少し不機嫌そうな表情でスタジオの中へ入っていった。
「で、ここに何か用?」
ギターの横にあったパイプ椅子に腰かけて、男の子は高圧的な口調で私たちに問いかけた。
「うん。安堂響って女の子知らない? 私たちの友達なんだけどさ」
そんな彼の態度をものともせず、詩央里ちゃんがそう尋ね返した。すごいな、と私は彼女の姿に感心する。
男の子は眉をひそめて一瞬視線を宙に投げた後、すぐに「ああ」と声をあげた。
「背が小さい子?」
「そうそう。今どこにいるか分かるー?」
男の子はゆったりと足を組むと、私と詩央里ちゃんの間――扉の向こうを指差した。
「トイレ行ってくるってさっき出てった。その子に用があるの?」
「まあね」
詩央里ちゃんがうなずく。男の子はふうん、と適当な相づちを打った。興味なさそうだな……。
「居場所分かったんだし、そろそろ出てってくんない? 練習出来ないから」
またもや生意気な発言をする男の子に、私はそろそろ反論したい気持ちがわき上がってきた。
さすがに言い過ぎではないだろうか。私たちはただ安堂さんを探しに来ただけなのに、そんな追い払い方はどうかと思う。
そう言おうと口を開こうとした時、一瞬早く詩央里ちゃんが声を発した。
「はーい。ありがとね、教えてくれて。練習頑張ってね~」
いつもの間延びした口調で、詩央里ちゃんは男の子に向かって手を振った。
……あれ、怒らないんだ。
私は隣で目を丸くしていたが、詩央里ちゃんがドアノブに手をかけたタイミングで、やっと後ろに一歩下がった。
ガチャ、と開けた時と同じ音がして、重そうな扉が閉まる。
「じゃ、トイレ行こうか」
再び訪れた静寂の中、まるで何事もなかったかのように、詩央里ちゃんがそう言って歩き出した。
私はそれについて行きながら、そっと声をあげた。なんとなく、普通の声量で話してはいけないような気がしたからだ。
「……さっきの子、私苦手かも」
言葉を選びながら口に出せば、詩央里ちゃんが隣であはは、と笑い声をあげた。
「たしかに初対面であれはないよねー」
分かる分かる、と何度もうなずいて、詩央里ちゃんはふと廊下の奥へ視線を向けた。
「まあでも、久しぶりに昔の響を見たって感じがするよ」
「……昔の安堂さん?」
果たしてそれは、いつのころの話なのだろう。二人は幼稚園から一緒だって言っていたから、その時のことなのかな。
私が首をかしげながら言葉を反すうすると、詩央里ちゃんは愉快げな笑みを浮かべた。
「そ。はじめましての時、響の顔がめちゃくちゃ嫌そうだったんだよね」
今でも忘れられないくらい、安堂さんの表情は本当に分かりやすかったらしい。当時まだ五歳にも満たなかった詩央里ちゃんは、それがちょっとだけ怖かったんだとか。
「そうなんだ……」
安堂さんは今でもその面影は残っているものの、まさか昔の方が人嫌いの激しい子だったとは。驚きの事実だ。
「……なので私は、ああいうタイプの人には慣れてるんですよ」
そう呟いた詩央里ちゃんは、笑っていた。