体力テスト 壱
その日は一日中晴天で、四月とは思えないほど気温が上がるらしかった。湿度もそれなりに高いようで、今日はじめじめした暑さになりそうだ。
そう書かれたスマホの天気予報を見ながら、私は熱中症に気をつけないとな、と一つ息を吐いた。
もちろん、寮部屋の窓から見える空は、雲一つない快晴である。
◇
「あ、茉桜っちはっけーん。おはよーっす!」
「おはよう兎田ちゃん」
寮の一階にある食堂へ向かうと、朝から元気いっぱいな兎田ちゃんに遭遇した。
「昨日はよく寝れた?」
「うん! って言っても、毎日快眠だけどね~」
朝食の乗ったトレーを机に置いて、兎田ちゃんがにっこりと笑う。
そんな彼女だが、今日は制服ではなく体操服を着ていた。上が真っ白な半袖シャツで、下が黒い長ジャージである。
かくいう私も、全身長袖長ズボンという完全装備だった。周囲にいる生徒たちも、全員体操服を着ている。
四月もあと二週間を切った今日は、年に一度の体力テスト実施日だった。
「兎田ちゃんは運動得意?」
私がそう尋ねると、兎田ちゃんはご飯を頬張りながら首をひねった。
「んー、どうだろ。勉強よりは得意かなって感じ」
「そっかー」
兎田ちゃんの頭の良さは知らないけれど、見た目からして体育会系なのはたしかだ。おそらく、兎田ちゃんの『才能』もスポーツに関するものなのだろう。
……なんてことを考えながら、私はうんうんと相づちを打った。
◇
「――さて、今年もこの季節がやって来ましたね。ということで体力テストを始めまーす」
はきはきとした声で言ったのは、私たち一年生の体育を担当してくれている熊谷先生だった。短い髪を茶色に染め上げている、溌剌とした若い男の先生だ。
今はだだっ広いグラウンドにて、体力テストの注意事項などを説明してもらっているところだった。
「外で計測する種目は二つあるんで……じゃあハンドボールを先にA組とB組、五十メートルをC組とD組がやろうか」
バインダーを見下ろしていた先生は、顔を上げると「じゃあ解散!」と言い放った。
それを合図に、白黒まばらな格好をした生徒たちは次々と立ち上がって、各自の計測場所へ移動を始めた。途端にざわざわとグラウンドが騒がしくなる。
私も芝生に手をつきながら腰を上げると、雛奈ちゃんたちの方へ歩み寄った。
「うちらはハンドボールだね」
私に手を振ってくれていた詩央里ちゃんがそう呟く。その両隣には兎田ちゃんと安堂さんが、対面には雛奈ちゃんが立っていた。
「私運動神経全然ないから、体力テストいつもやばいんだよね」
歩きながら私がそう言うと、すぐに雛奈ちゃんが「分かる!」とうなずいてくれた。
「わたしも最近身体動かしてないし、明日筋肉痛で立てないかも」
「だねー」
最近、ということは、中学ではちゃんと運動していたのだろう。スタイルも良いし、兎田ちゃんと同じ運動部だったのかもしれない。
「詩央里ちゃんたちは?」
計測場所までたどり着いたころにそう尋ねれば、詩央里ちゃんと安堂さんは顔を見合わせた後、ほとんど同時に首を横に振った。
「運動は全然。響もだよね」
「もちろん」
……なるほど。ならこの二人は私の仲間と捉えても大丈夫そうだ。
同じ運動音痴――未定だが――を見つけられた私は、そっと胸を撫で下ろした。
◇
「じゃあ男女別になって、一番の人から測っていこうか」
熊谷先生の指示に、私たちA組は軽く男女別の二列に並んだ。B組も隣で同じように並んでいる。
一番からということは、女子の計測は安堂さんから始まる。その次は私なので、心の準備をする猶予はもうほとんど残っていないようだ。
……まあ準備をしてもしなくても、記録に何か影響があるわけじゃないけど。
「頑張ってね、安堂さん」
私が目の前の背中に声をかけると、安堂さんは緩慢とした動きでこちらを振り返った。
ややつり目がちな瞳で私をじっと捉えて、それから「うん」と素直にうなずく。そしてそのまま、白線の前まで歩いていった。
「響っていかにも運動得意です! って感じするよね~。ほんとに苦手なの?」
腕を組みながら、兎田ちゃんが詩央里ちゃんにそう尋ねた。
「苦手って言うよりか、下手でも特別上手いわけでもないって感じかな。響は器用だから、基本なんでも出来るだろうし」
ボールをぎゅっと両手で握っている安堂さんを眺めつつ、詩央里ちゃんはそう答えた。
「響と詩央里ちゃんはさ、中学が一緒だったとか、そういう仲なの?」
雛奈ちゃんが問いかけた瞬間、安堂さんが一球目を投げた。ボールは軽やかに宙を舞い、二十メートルを示す線の手前に落ちる。
「中学もそうだけど、私たち幼稚園から一緒なんだ。すごいでしょ」
「え、そうなの?」
私は思わず声を上げた。詩央里ちゃんがにやりと笑う。
「そうだよ」
これはかなり驚きの事実だ。入学前からなんらかの縁があったのは見てすぐに分かったけど、まさかそんなに前から仲が良かったとは。
「すごいね。わたし友達ひとりもいなかったから寂しかったのに」
雛奈ちゃんが少しだけ口を尖らせて呟く。その言葉には私も同意見だ。
千両学園の生徒は全国から集められている。ここは本当に才能がある人しか来られない場所だから、自分と仲の良い人がいる、なんてことは普通あり得ないのだ。
私だって結依ちゃんと離れてしまったし、同じ中学校の子はひとりも見ていない。
――そういえば、結依ちゃんは私より頭も良くて運動も出来るのに、どうしてここに呼ばれなかったのだろう。
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
「茉桜」
名前を呼ばれて振り返ると、すぐ後ろに安堂さんが立っていた。右手に小ぶりのボールを持っている。
「あ、私の番?」
自分の顔を指さしながら問いかけると、安堂さんはうなずいて手中のボールを差し出してきた。いつの間にか二球目も投げ終わっていたらしい。
私はそれを受け取って、入れ違いになる形で前へ進んだ。背後からは雛奈ちゃんたちの応援する声が聞こえてきていた。
「どうぞー」
熊谷先生がそう合図してくれる。
……十五メートル、いってくれたらいいなあ。
そんなことを考えながら、私は少しの助走をつけて、思いっきりボールを投げた。
◇
「じゃあ、わたしはそろそろ行くね」
そう言って、雛奈ちゃんがにっこりと笑う。私は「頑張ってね」と手を振りながら応援の言葉をかけた。
「トダちゃんも行った方がいいんじゃない? ヒナちゃんの次でしょ、順番」
詩央里ちゃんが兎田ちゃんの肩を叩く。兎田ちゃんは「たしかに!」と叫ぶと、もう既に歩き始めていた雛奈ちゃんの隣まであわてて駆けていった。
「……で、マオちゃん運動出来ないって言ってたけど、結構ボール飛んでたよね」
二人を見送った後、詩央里ちゃんがくるりとこちらを向いてそう言った。
「え、そうかな」
「そうだよー。だって二十メートル行ってたじゃん」
羨ましいなー、と詩央里ちゃんが私の二の腕をつつき始める。地味に痛い。
「詩央里ちゃんも十八メートルでしょ? 十分すごいよ」
「響に負けたから素直に喜べないけどね」
つつきを止めない詩央里ちゃんは、隣に立つ安堂さんを見やった。視線に気がついたのか、遠くを見ていた安堂さんが私たちの方へ顔を向ける。
「何?」
「マオちゃんに負けて悔しいなって話」
詩央里ちゃんが笑いながらそう答えると、安堂さんは無言で私を見た。一度詩央里ちゃんのつついている姿をちらりと見て、再び私の顔を見上げる。
どうしたんだろう、と首をかしげてみせると、安堂さんはようやく口を開いた。
「そういえば、私も負けたわ」
「え?」
何が、と続けようとした瞬間、安堂さんが素早い動きで私の背後に回り、詩央里ちゃんと同様、両の人差し指で私の身体をつつき出した。
「ちょ、待って! えっ、なんのこと!? ていうかほんとに痛い!」
「響十九メートルだったもんねえ、記録。そりゃこうなるわー」
げらげら笑いながら、詩央里ちゃんが涙まじりに呟く。そういうことか、と私は安堂さんの攻撃を避けながら納得した。
「じゃあ次、辻本の番なー」
私と安堂さんが一進一退の攻防を繰り広げていると、不意に熊谷先生の声が飛んできた。
雛奈ちゃんの番が来たのだと理解した私は、瞬時に詩央里ちゃんの右隣まで走る。安堂さんもおもむろに攻撃を止めて、反対側の左隣に落ち着いた。
「切り替え早いねえ二人とも」
間に挟まれた詩央里ちゃんがふっと吹き出す。
「頑張れ、雛奈ちゃん!」
私が口もとに手を当ててそう叫べば、雛奈ちゃんがボールを持ったまま振り返った。かと思うとすぐにいつもの笑顔になって、大きくうなずく。
「――ボールの持ち方、姿勢、腕の角度」
ふと、詩央里ちゃんがそう呟いた。私は反射的にぱっと顔を上げる。
詩央里ちゃんの目は、今まさに投げようとしている雛奈ちゃんを捉えていた。
「どうしたの?」
「んー、ヒナちゃんの構えがそれっぽいなって思って」
「それっぽい……」
詩央里ちゃんは口もとに笑みを浮かべると、「まあ見てなよ」と雛奈ちゃんの方を指し示した。
「……苦手って言う人ほど、実はめちゃくちゃ出来たりするものなんですよ」
その言葉と同時に、雛奈ちゃんがボールを投げる。助走も体勢も完璧で、私はこの瞬間、詩央里ちゃんが放った言葉に合点がいった。
たしかに雛奈ちゃんの動きは、経験者のそれだ。運動不足とは思えないほど、その姿は綺麗だった。
ボールは弧を描くのではなく、一直線に飛んでいく。その軌道はまるで、ドッジボールの球と酷似していた。
「うわあ……」
やがてボールは減速していき、最終的にずいぶん遠いところに落ちた。私とは比べ物にならないくらいの距離だということが見ただけで分かる。
「多分三十くらいかな? すごいねえ、ヒナちゃん」
ざっと測ったらしい詩央里ちゃんが、ぽつりと言葉をこぼした。安堂さんは相変わらずのポーカーフェイスで雛奈ちゃんを眺めている。
ちなみに私はというと、二人の横で先ほどのボールの勢いに唖然としていた。
「やばすぎるって……」
ひとり言が勝手に口をついて出る。
あんなに速いボールは一度も見たことがない。小学校のドッジボール大会でも、あそこまでの豪速球を投げる人はいなかった。
一体、雛奈ちゃんは何者なんだろうか。何をどうしたら、あんなボールが投げられるのだろう。
――もしかして雛奈ちゃんは、天才的な『才能』を隠し持っているのだろうか?
「半端ないよね、このプロジェクト」
私の心の内を知ってか知らずか、詩央里ちゃんがそう言いながら腕を組んだ。
「……ね」
そっと言葉を返して、私は兎田ちゃんと手を叩き合う雛奈ちゃんを見つめる。
……今年の体力テストの結果はすごいことになりそうだ、と冷や汗をかきながら。