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EX_last cross

男は路地裏でゴミ袋をクションがわりに寝ていた。

それを望んだわけではない。

ただ少しの油断だった。

賭けのカードへの細工。

2人でやっていた頃には簡単にできたトリック。

それを見破れ、今日の勝ちと持ち金を奪われた挙句、サンドバッグにされ捨てられた。

まるでもののように。

野良犬でもまだ優しく扱われるだろうよ…

そんなことを思いながら、男は臭いのきついこの場を早く離れようと力を込める。

しかし、それを遮るように痛みが走った。

無理か…

間の悪いことに男の鼻先に水が落ちる。

「ツイてないな…」

男の呟く声は堰を切ったような土砂降りにかき消された。


女は路地を歩いていた。

俯きながらなら涙を気づかれない。

ほんの些細なことだった。

仕方がない。

女はそう思った。

付き合っている男は音楽で食っていくことを望んでいた。

その夢を応援する。

彼のそばにいる。

それだけで幸せを感じていた。

俯きながら、視界に入る脚が、この通りの人数を教えてくれる。

まだ顔を上げられない(前を向けない)

不意に女の頭を水が叩いた。

「雨…」

不意に顔を上げたところに土砂降りの雨。

涙は溢れては流された。


野良犬…

女は路地裏で男を見つける。

暴行された跡が見て取れる。

「野良犬の方がまだ扱いはいいだろうよ。」

男は女の呟きに答えると、女は小さく笑った。

「おんなじこと考えてた。」

その笑顔に男は癒しを感じていた。

美人ではあるが、とりわけ圧倒的というわけでもない。

悪く言えば大したことのない笑顔だ。

しかし、それが自分の心にピタリと組み合わさった。

女は手を差し出す。

「そこで一晩明かすわけ?」

男は答える代わりに腕を伸ばしてその手を掴んだ。


全ては過去のことに過ぎない。

あの時、ああすればよかったと。そう考えることができるのは現在いまの人間だけだ。

そして、次こそはもっとうまくやろう。とそう考えることができるのは未来を見ている人間だけだ。

過ぎ去ると書いて過去ならば、未来とは未知が来ると書く。

時は龍歴270年。

狂乱の大戦争(ブラッド・バブル)が本格化する少し前ではあるが、この時点ですでに金と命は消耗品として乱雑に消化され、その度にどこかから手元に戻った。

そこで出会った2人の男女。

この2人が未来という未知に残したものは決して小さくない。

しかし、いまここにる2人の出会いはあまりにも小さい。


女は自分の家に男を招き、手当てをしていた。

別段医学に明るいわけでもないが、大事に至るような気配はない。

「貴方…名前は?」

女の問いに男は小さく、プルトだ。と答えた。

「そう。私はエメラルダ、プラーナ・エメラルダ。」

包帯を巻かれながらプルトは彼女の所作を見ていた。

魔法を使うわけでもないクラシカルな治療。

一方で専門的な技術があるわけでもない。

不慣れとも言い難いそれらから、プルトは彼女が応急処置の技能講習を受けていることを理解する。

これからも続く戦争の時代、その中で市民が身につけるべき技能は必ずしも引き金を引くことだけではない。

軍や政府が定期的に応急処置の技能講習を開き、簡単な手当てを済ませられるようにする。

参加すれば応急セットを渡される。

全ては戦争のためだ。

国内の医師を軍医として組み込むために多少の傷では病院に来ないようにする。

この技能講習は少しずつ開催の間隔を狭め、戦争が長引けば長引くほど頻繁に行わていった。

現状、彼らの住む天の国では半年に一回、参加することを求められている。

これは、他国と比較すれば非常に長いスパンで、医者の枯渇している国では毎月強制参加を求めるほどでもあった。

処置を終えたエメラルダは道具を片付け始める。

ふと、救急箱に目をやると、消毒液や塗り薬は新品というわけではない。

それは巻かれた包帯も同じだ。

綺麗に洗濯されているがところどころほつれかかっている。

「2、3日はそのままにしておくといいわ。包帯は毎日取り替えなきゃだけどね。」

「2、3日もここにおいてくれるのか?」

「行く宛てないでしょ?私と同じ…」

エメラルダの声が弱くなるのをプルトは聞き逃さなかった。

彼はすでに、彼女を手に入れることしか考えられなかった。

それほどまでに、あの笑顔に執着していた。

「話くらいなら聞こう。」

「つまらない話だよ?」

「つまらない話ほどよく眠れるさ。」

エメラルダは小さく笑うと、話を始めた。

彼女は天の国で生まれ育ち、ある男と恋仲になる。

音楽で大成することを夢に見て、天の国を訪れた男だ。

彼のそばで支え続けることに生き甲斐を感じ、彼と共にいる時間に愛を感じていた。

しかし、伸び悩み、次第にすさんでいった男は、生活のために彼女に体を売ることを強要した。

彼女はそれを拒み、彼の家を飛び出してきたところでプルトを見つけたのだという。

よくある話ではあるが、プルトはそんなことよりも、話しながら変わっていく彼女の表情を楽しんでいた。

そして、心理学を修めた彼の目にはエメラルダの話の裏にある彼女の思いも見抜いていた。

涙ぐみながら話を終えたエメラルダをプルトは押し倒す。

「君は…その男を愛してはない…」

「愛していれば身体を素直に売ったって言いたいわけ?それが…」

「それが世話してもらった側の態度か…と言いたいのだろう?無論、無礼なのはわかっている。しかし、これが俺なりの恩返しだ。」

「ふざけないで…!確かに話して楽になったけど、それとこれとは別よ!」

「別?何も変わらない…同じことだ。君の求める愛とは。」

強引に唇を奪われる。

力で押さえ込まれているわけでもないのに、拒絶できない。

求めるように絡みつく舌を受け入れている。

自分はこのおとこに運命を感じている。

エメラルダはそれを否定したかった。

「そばにいることで他人の美学に従っている。そう感じられる自分に酔っていただけだ。君の求める愛とは求め、求められる愛だ。」

耳元で囁く彼の声が自分の脳を刺激するのがわかる。

鼓膜に刻みつけられる声が、誰のものであるべきかを問い続ける。

「でも…」

「俺はお前が欲しい。狂おしいほどに…」

首筋をなぞる手、その軌跡は燃えるように熱をもつ。

愛し合うことがこれほどまでに熱いものだとは考えられなかった。

彼女の持つ優しく温かいイメージ。

それは確かに彼女が他人や本から知ったものでしかない。

しかし、この男の持つ、熱を帯びた愛情こそ、真実であると、身体からだが理解し始めている。

「ダメ…」

私には彼がいる。

なんと言われようと、先ほどあったばかりの男に否定されるような愛情ではない。

「だが、寝たわけではない…結局、君はその彼に…いいように扱われていただけだ。」

だが、プルトはその感情をいとも簡単に事実でもって突き崩す。

彼女は、涙が出ると思っていた。

そうでなくてはおかしい。と。

しかし、訪れたのは悲しみでも慟哭でもない。

安堵。

解放。

そして理解。

体を重ねることを拒絶できなかった。

否定できなかった。

いや、もう偽る必要もない。

拒絶しなかった。

否定することなど考えようもなかった。

ただ、この男の熱を素直に受け入れた。

深い口付けが脳を満たす。

麻薬のような幸福感が、自分のブレーキを壊す。

混じりあう汗と体。

どちらがどちらを濡らしたのか。

それがわからなくなるほどの夜だった。


朝日がプルトの瞼を撫でる。

どうやらいつの間にか眠っていたらしい。

隣で寝息を吐くエメラルダの頬を撫でると、わずかに目を開ける。

「すまない。起こしてしまったか?」

「ん…きにしないで…」

彼女は肩肘を付くようにして体を起こすと、小さくあくびをする。

ありふれた朝に混ざるわずかな異物。

それが今の自分たちだとわかっていた。

どんなものより歪であること。

そんなことは初めからわかっていた。

だが、プルトはエメラルダを求め。

エメラルダはプルトを受け入れた。

「包帯…替えなきゃね。」

彼女はそう言ってほほえみながら、救急箱に手を伸ばす。

プルトはそんな彼女の表情のすべてを愛おしく思いながらベッドに座る。

「貴方って本当に不思議…私にとって心地いい言葉を…言ってほしいことを言ってくれる。」

「普段は…言わないようにしている。その人にとって真実ほど残酷なものもない…」

プルトの声に後悔が混ざる。

しかし、エメラルダはそれを気にしない。

後悔の理由はわかりきっている。

それゆえに。

「私が特別だから…そう言うんでしょ?本当に、私の心を見透かされているみたいだわ。」

プルトはそんな彼女の態度が心に刺さる。

確かに、自分の中には彼女への抑えきれない愛情がある。

それを理由に彼女と体を重ねた。

しかし、それが彼女の本意かは別だ。

昨晩、彼女にぶつけた言葉は彼が推測した彼女の本音だ。

だが、それは見ようによっては言葉巧みに彼女を手籠めにしたようにも見える。

「昨日は…すまなかった。」

「気にしないで。私は貴方の言葉がなければそのまま自分を偽り続けたんだから。」

「それは違う。俺は君の求めていることを言っただけだ。事に及ぶつもりはなかった…」

頭を下げ、謝意を示すプルト。

エメラルダはそれが彼なりの優しさであり、彼が自分の本心を隠していると見抜く。

それは、心理学的な話ではなく、昨晩の交わりが偽りのものではないと、身体にまだ残る熱が示しているからだ。

顔を上げて。彼女の言葉に素直に従うと、真剣な眼差しが自分を捉えていた。

彼女は今にも泣き出しそうな彼の眼差しを受け止める。

「それでも私は…貴方についていきたい…戻れないわけじゃない。それに…多分、世間的にも正しくない。でも、私は貴方についていきたい。」

「しかし…」

否定しようとするプルトの言葉を口付けが遮る。

初々しさを感じる触れるだけのようなそれに、プルトは思わず赤面する。

慌てて顔を離すエメラルダ。

彼女もまた、勢いに任せたような行動に困惑している様子だ。

「だから…!えっと…ほら!私って経験…?も少なくて、あの…だからね!わ…私からも…求めていい…よね…?」

手をばたつかせ、なんとか言葉にするエメラルダ。

プルトはそんな彼女を咄嗟に抱きしめる。

相手の心理に合わせて動いてきた彼にとって本能的に動くのは昨晩に続いて2度目だ。

なぜそうなるのか。

その答えは『愛』というあまりにも曖昧なものでもあった。

プルトは彼女の思いに言葉で答えようとするが、言葉にならない。

そのもどかしさと、腕の中にある彼女への愛おしさが力を強める。

「意外と…不器用同士なのかもね…」

エメラルダの言葉で我に返り、力を緩める。

「いいんだよ…私もこうやってぎゅうってされるの好きだから。」

プルトが再び力を込めようとした瞬間、部屋の扉が乱暴に開けられた。

「エメラルダ!」

慌てて駆けてきたのか息が上がっている。

プルトは一目見て、今、入ってきた人物が彼女の言う彼だと見抜く。

そしてその目には愛情よりも日常の崩壊を恐れるだけの恐怖心が宿っていることも。

要するにこの男は彼女を近くに置いておきたいのだ。

愛でるのではなく。

愛し合うのではなく。

単に置いておくだけ。

彼女が生活を支え、自分は自堕落に生きる。

そのための愛しか持ち合わせていない。

プルトは自分が怒りを抱いていることを自覚する。

「エメラルダ!昨日はすまなかった!さあ帰ろう!」

彼が声を荒げるたびに彼女が震えているのがわかった。

日常的な暴力。

おそらく服の下、目に見えない部分を狙っている。

昨晩は気づくことはなかったが確かに彼女は肌の露出を避けるような服を着ている。

それはクローゼットから見えるものも同様だ。

「さあ!」

男は手を差し伸べるが、エメラルダはプルトの袖を掴んで離さない。

君が決めろ…

プルトは目で彼女に決断を促す。

彼女の境遇がどうであれ、決めるのは彼女だ。

そうでなければならない。

それは、彼女のためではなく、プルト本人のためだ。

仮に彼女を手籠にするためだけの話であれば、ここで男を殴り、追い出すことで恩を売ることができる。

それをしない。

彼女のできないことを自分が代行する。

それが求めることであり、求められることでもある。

しかし、彼女は彼を求めることをしない。

プルトは敢えて何も言わず、ただ彼女の目を見続ける。

「そうさ!親父はこの国の財務次官だ!お前も俺と一緒にいることが幸せなんだろうがッ!」

増長したドラ息子。

つまり、それは彼自身のアイデンティティを持っていないことの裏返しだ。

元よりプルトは政治家嫌いであり、彼らを太った(おいしい)カモとしか見ていない。

そんな彼には、相手が政治家の子であってもなんの脅しにもならない。

求めろ。

プルトの目はどんな言葉よりも強く、彼女を押した。

プルト…

震えながら、エメラルダは覚悟を決める。

「お願い…!」

小さくも力強い声はプルトを動かすに十分だった。

立ち上がると、彼は男とエメラルダの間に入るように立つ。

まるで彼女を隠すように。

「なんだよ…なんだよ!お前はッ!」

「少しだけ…おとなしくしていてもらう。」

わずかに上体を揺らしてから急加速し、一気に距離を詰める。

目の前で急停止したプルトは、男の足を踏みつけながらアッパーで顎を打ち抜く。

男の意識がわずかに途絶え、仰向けに倒れそうになるが、足首の激痛で反射的に踏ん張る。

のけぞるようにして踏ん張った男の腹を右の拳で打ち抜く。

男は自身の足首から駆け上ってくる鈍い弦の音を聞き涙を浮かべる。

最後に左の抜き手を脇腹に深々と突き立てる。

引き抜いたプルトの指先が鮮血に染まっている。

外と内から暴れまわる痛みに男は悶絶した。

無様にのたうち回り、口から血の混ざった胃液をまき散らす。

プルトは振り返り、エメラルダに手を差し出す。

まだ引き返すこともできる。

そう思っての行動だったが、手を差し出す。ということは彼女を求めるということでもある。

そして彼女は求めに応じる。

そこに転がる(過去)を一瞥することもなく。


これが一つの出会いの顛末である。

プルトとエメラルダ。

出会い。

別れ。

そして娘。

すべてはただの一つの何でもない出会いから始まって今へつながる。

世界を巻き込むトラ教団と大同盟の全面戦闘。

そこへつながるすべての始まり。

それがあまりにも小さく、そしてあまりにも歪んでいる。

そして、その全てを知るものは1人と生きていない。

次回は土曜日です。

シーズン3にも繋がる意外と重要な振り返り?です。

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