もう一つの世界 前篇~After 5 years~
既に日は落ちている。
暗いアスファルトの道には家々の陰りが連なり、街灯の淡い光が闇の中に点々と現れていた。
俺はやや急ぎ足で、職場からの家路を辿っている。
渚とのあいだにできた子供――|汐≪うしお≫が生まれてから、もう五年もの月日が経過していた。
不遇が重なったというべきか、はたまた渚の願いが叶えられたというべきか。結果的に自宅出産にも成功し、体調に不安のあった渚の容態もずっと安定していた。だから俺たちは、時たま古河の家に世話になりながらも、順調な育児生活を送ってこられたのだ。
汐が大きくなるにつれ、古河のおっさんは俺たちに同居を勧めてくれていた。だが、俺たちとしてもそこまで甘えるわけにもいかない。確かにおっさんの言うように、いつまででもボロアパートの一間を借りて、汐を育てていくのは難が生まれてくる。汐は女の子で、そこそこ年ごろになってくれば自ずと一人部屋も欲しがることだろう。稼ぎと貯金、そして渚に相談しながら、俺たちは転居の計画を立てていたのだった。
自宅にたどり着くと、いい匂いが鼻をくすぐった。……揚げものだな。豚か?
「ただいま」
「あ、おかえりなさいです。朋也く……じゃなくてっ」
玄関のすぐ脇にある台所から、エプロン姿の渚がこちらを覗いていた。心なしか、顔を赤らめている。
「おかえりー、パパ」
「おー。ただいま、汐」
パタパタと可愛らしく歩み寄ってきた汐を抱きかかえて、俺は慣れ親しんだ我が家の床に足を踏み入れた。
「旨そうな匂いだな。トンカツか?」
「は、はい! トンカツですっ」
家庭で揚げものは片付けが大変なのに、渚はむしろ喜ぶように凝った料理を作りたがるのが常だった。
「まだ時間かかりそうですから……しおちゃんと先にお風呂に入っててください……、パパ」
相変わらず「パパ」の発音が不自然だ。渚は未だにパパママ呼びに慣れていない。
「分かったよ、ママ」
……なんて返すのも最初は恥ずかしかった俺だが、今ではすっかり慣れてしまった。仕事の電気工事といい、人間の適応力というものは恐ろしいぐらいだ。
「よし汐、パパと風呂入るぞ」
「うん、はいるー」
そのまま汐を抱きかかえ、俺は浴室に向かった。
何故だかいまいち分からないが、汐はどうも俺と風呂に入りたがる。別段、好かれるようなことをした記憶もないのだが……いや、汐が単にあまり人嫌いなところがないというだけかもしれない。汐はおっさんを「アッキー」と呼んでいて、たまに野球に付き合わされているという。五歳児相手にあのおっさん何やってんだと内心思いながら、それでも元気よくボールを投げ、バットを振って駆け回る汐の姿は頼もしい。
幼稚園では杏が汐の担任をしてくれていて、「汐ちゃんはとっても元気いっぱいなのよね~」とニコニコしながら言うのが常だった。確かに毎度迎えに来るたびウリ坊の進化系みたいな猛獣と仲良く遊んでいる。「ぼたん」とか言ったか、危なくないのかアイツ?
「ちょうど揚げたてが食べられるくらいに呼びますね~」
「おう、ありがとなママ!」
「ありがと!」
汐の衣服を籠に入れてやりつつ、
「よかったな汐。カラッカラのやつが食べられるぞ」
「よかったー」
にんわりと表情を崩す汐に、優しく笑いかける。
温かな家族の団欒、その一片。
親子のこんな何気ない会話こそが大切で、金よりも名誉よりも価値あるものだ。
そしてそんな些末な幸せの積み重ねこそが、俺たちが生きていく意味だと思う。
金はあまりないし、家もボロ。だけど俺は、この生活がとても幸せだった。
渚がいて、汐がいて。俺たちは家族で、一緒に支え合って生きていく。時間を少しずつ、積み重ねていく。
「……パパ?」
汐の呼びかけで、俺はふっと我が子の顔を見つめた。
――何故だろうか。不思議と見覚えがある。デジャヴに似た感覚ともいうべきか。
ただ、それははるか遠い遠い昔のことのように感ぜられた。どれくらい遠い過去なのか。きっと俺はまだ生まれていなかった。この世界に生まれる、ずっと前の記憶だ。
「……なーんてな」
何をバカげたことを考えてるんだ俺は。
「ほら、さっさと入っちまおうぜ。でないとアツアツのカツが食えなくなるぞ」
きょとん? と首を傾げる汐の頭を、そっと撫でてやる。
俺と渚の一人娘は「うん」と頷いた。
*
揚げたてのトンカツを三人ではふはふと頬張っていると、不意に渚が例の件についての話題を口にした。
「パパ、その……新居のこと、ですけど」
「ああ」
「よさそうなお家、見つかりそうですか?」
「不動産屋とか、芳野さんとか……職場の人にも色々と聞いて回った」
渚はぽろぽろとポテトサラダをこぼす汐のテーブルと頬を拭いてやっている。
「結構、良さそうなところはあった。だが借家とはいえ、家賃もそれなりにかかることになるな……正直、ここのそれとは比べ物にならない」
渚はえへへと笑って、そうですよねと頷いた。
「渚は、どうした方がいいと思う?」
「わたしは……やっぱりしおちゃんが小学生に上がる前までには、もっと大きいお家に住めたらって思うんです。わたしたちはいいですけど、ずっとここだとしおちゃんがかわいそうです」
「だよな。やっぱり、そろそろまともな家に移るタイミングだろうな」
三人で囲む食卓、びっくりするほど狭いリビングをぐるりと見渡す。なんだか笑いが出てくるようだ。俺がもしガキだったら、こんなところに住み続けるのは御免だ。
「一応、貯金もある。さすがにマイホームは無理だけど……一戸建てに住むぐらいなら、なんとかなりそうだ」
幸いなことに、俺の給料も年々上がっている。危険が伴う職種ということもあるし、率先して仕事を請けている成果が額面に現れていた。高卒ではあるが、おそらく大卒の数年目よりも多い額を貰っているはずだ。
「でも、パパの負担が大きいです。もし新しいお家に移るなら、わたしも働きたいです」
「働くって……お前、家事やらなんやらあるだろ」
「もちろんありますけど、スキマ時間を使えば生活費の足しぐらいにはできると思います」
渚の献身的なふるまいには、その華奢な体躯とは裏腹のヨメたる風格がある。
「ママ、はたらくの?」
現実的な会話に割り込んできたのは、ちょっと切なげな瞳をした汐だった。
休日など幼稚園が休みの場合は、必ず俺か渚が汐の面倒を見るようにしている。古河のおっさんと早苗さんを反面教師にした……と言えば聞こえが悪いが、実際はそんなところだ。
というのも、おっさんと早苗さんは渚が小さい頃、ほんの二時間ほど娘に目を離した隙に大変な事態に陥ってしまったのだ。家で寝ていたはずの渚がいつの間にか雪の降る屋外で倒れており、生死の境を彷徨うことになってしまった。……おっさんからそんな話を聞いてからというもの、俺は渚と共に、常に危機感を持って汐を見守っている。
「しおちゃんが幼稚園にいる時だけ、ママ頑張ろうと思いますっ!」
「おー」
「その方がいいな。俺が休日出勤のときは、汐と一緒に留守番頼む」
「はい、パパ」
「はーい」
妻と娘の溌溂とした返事に頬を緩めて、俺はまた食事に手を付け始めた。
やはり渚の飯は旨い。早苗さんの料理の味にどこか似ていて、それでもオリジナリティを感じられる味付けだ。こいつにパンを作らせたらどうなるのだろうか。一回試してみたい。
家族で囲む食事をしみじみと楽しんでいると、
「どうしたんですか? パパ」
「ああ、いやさ。……あいつら、まだ家庭とか作ってないのかなーって思って」
「というと……、春原さんとか藤林さんたちとか」
「ああ。何だかんだ、卒業してからもう六年経つからな。相手見つけて結婚しててもおかしくない年頃だ」
個人的な見解だが、藤林姉妹と宮沢辺りはすぐに相手が見つかりそうだ。ことねは……おそらくアメリカでも研究室に籠りきりだろう。智代はたぶん、大きな都市に出て、俺なんかが想像もつかないような頭のいい大学で何か学んでいるのではないだろうか。
……他にも誰かいた気がするが、思い出せない。
『っておい⁉ そりゃねぇだろ岡崎ぃ⁉』
……頭の中であのツッコミが完全再生されやがった。
ああ、お前だけは天地が逆転しても海馬から抹消されそうもないぜ春原。
「杏さんは分かりますけど、それ以外の方は……」
「俺もちょくちょくとしか話聞かねえしな。就職したとは聞いたが……辞めねぇで上手くやってるかな」
お前のことだぞ、春原。グレーの企業に引っかかったってのは辛うじて知ってるからな。
「……でも、皆さん立派な人です。きっと、素敵な生活を送っていると思います」
「……だな」
とかなんとか言っても、一番幸せなのは間違いなく俺たちだ。
別に皮肉じゃない。他人より自分の人生が幸福なのは当然のことだ。
そして俺たちはその当然を、現実のものにしている。これ以上のことはないじゃないか。これ以外に何をどう望みようがある。
「結婚しよう」といったあの日から、俺はこの幸せだけを望んだ。
きっと渚もそうだったのだろう。汐もパパとママがいてくれるだけでうれしいと、よく言ってくれる。とてもいい子に育った。
渚と、汐と、そして俺。
三人でいられるだけで幸せだもんな、と問いかけるように、俺は天井を仰いだのだった。