第五章 初仕事-10-
アイマンの待つ宿屋に戻った頃にはすっかり陽が暮れ、街は静寂に包まれる。
幻獣達にとっては活動時間だ。いつ襲撃があってもいいように、夜の街を警護する兵士や傭兵が、東西南北を見回っていた。
松明の小さな火が、カズホの泊まっている部屋の窓から行き来しているのが見えた。
(俺ももう少し戦いに慣れれば、夜の街を守ることになるのか)
時々松明の火が集う。それは、幻獣が出現していることを示していた。
右腕にある痣を擦り、カズホは息を吐いた。
ルイーズの言葉が、頭を過った。
『あなた自身の声を、しっかりとお聞きください』
今まで自分の声を聞いてきたつもりだった。
だが、思い返してみれば、それは自分の声だったのだろうか。
カズホは、自分の歩んできた道を振り返っていた。
大学は行きたかった。学部も選んだ。経済学部で、真面目に勉強して方だと思う。会社だって、ここで働きたいと思ったから入社を希望し、内定をもらった時はホッとした。一流とはいかないまでも、それなりに大きな商社だ。今は主任で、来年度にも係長に、と声をかけてもらっていた。
初任給で、両親に旅行をプレゼントした。初ボーナスで、元カノとフレンチを食べに行った。友達と飲みに行っては、会社での出来事や大学時代の思い出を朝まで話していたことも思い出した。
どれも何かしらの喜びがあり、誰かと笑顔でいられた。
何かが欠けているとは全く思わない。今振り返ってみても――
失敗が死に繋がることはない、安全な場所だった。それが懐かしい。
昼間、ザフィリの大蛇に襲われた時、死が間近にあった。
だが、不思議と恐怖はなかった。通り過ぎてしまっていたのかもしれない。
「そっか……死ぬかもしれなかったんだ」
口に出したら、急に体が震えた。恐くなった。
死んでいたかもしれない、あの瞬間の途轍もない苦しみが蘇った。
生きている。ここにいる。自分が自分だと思えている。
(い、今更……?)
震えが止まらず、自分が情けなくなる。
「恐がるのおせぇよ、俺……」
あの中でも、集中力を切らさずに魔法を使うミーシャの姿を思い出す。
(俺が十九の時、何をしていた……?)
誰かを助けようと必死になっていただろうか。確固たる自分の意志で、親に反発してまで職を求めただろうか。
ミーシャを思い浮かべる度に、自分の弱さを突き付けられている気がした。
「強く、ならないと」
三十過ぎて、本当の強さを見ている。
彼女を守れるように、強くなりたい。二人で無事に仕事をしていくために、強くなりたいと思った。
でも、どうやって――
と、ノックが聞こえた。
「カズホ、ご飯食べに行こうよ」
ミーシャの声がする。
「カズホ? どうしたの?」
なぜか、応えられなかった。
カズホは、泣いていた。
それが恐怖からなのか、自責の念からなのかは、カズホ自身もよく分からなかった。
「ちょっと、……寝ちゃったの?」
この前のこともあり、ミーシャの声に不安が滲んでいた。
はやく開けないと、と思い、震える体を叱咤し、涙を手の甲でごしごしと拭いた。
立ち上がると、ドアが開いた。
「不用心ね……ドアの鍵は閉め……」
入ってきたミーシャと目が合ってしまった。
「あっ……」
「カズホ、どうか、したの?」
ミーシャの顔を見ると、またどうしてか。
「っ……」
安心した。三十過ぎた男が、人目も憚らず涙を流す。
それでも、ミーシャは笑うことなく、ただただ傍に寄り、カズホをぎゅっと抱き締めた。
「ここにいる。あたしは、ここにいるよ、カズホ」
そして、カズホが前に言った言葉を、噛み締めるように言った。