第四章 風使いと宿屋の夫婦-7-
カズホは、残り僅かのワインを飲めずにいた。
ずっと聞き入っていたのだ。
「酷い友人だ、俺は」
「そっ、そんなことないです! ミーシャにとっては、この方が……え? でも、ミーシャは風使いに……確か、秩序の鷲を……」
カズホの言葉に、アイマンは顔を強張らせた。
カズホは、口にしたことを後悔した。
言わなくても分かっていたことだ。
ミーシャがここに残らなかったこと。彼女が風使いになり、傭兵となって首都イーリアにいたこと。
そして、ここに、アイマンの妻であるハーラがいない。
アイマンは、小さく息を吐いた。
「いいんだ。全部話すつもりだった。秩序の鷲であるタクシィ・アエトスは、スィエラがここを去ってから五年後、戻ってきたのさ。幻獣の姿でな」
荒れ狂う大嵐の夜だったという。
「雨など滅多に降らないこの国で、地を溶かす勢いの土砂降りだった。タクシィが、雨雲と共に闇夜を支配したんだ。サリアが泉の底へ沈んじまうかと思ったよ。風がすべてを吹き飛ばしてな。俺は、街の男達と慣れないながらも堤防を作り、どうにか家族を守ろうとした。街の兵士も、雇われ傭兵も総動員で……そこに、現れた……今でも憶えているよ。あの瞬間でも、美しいと思ったな」
人々に恐怖を抱かせながらも、神々しく、気高い鷲が深緑の気を放ち、天から舞い降りた。
それは何かを探すように、サリアの街の上空を旋回した。
「俺はすぐに分かった。スィエラのタクシィ・アエトスが、ミーシャを迎えに来たのだと。俺は恐れた。娘を奪われる……そして、スィエラは二度と戻ってこないのだと感じた」
幻獣が元の姿に戻る時――それは、宿主である肉体がこの世界からなくなった時だからだ。
だが、哀しみを抱く暇はなかった。
アイマンはすぐに宿屋に戻った。ハーラとミーシャが心配だったからだ。
街は大混乱で、逃げ出そうにも水と風が人々を阻んでいた。流される者もいれば、突風で飛ばされ、怪我を負っていた者もいた。助ける求める者達の声を断腸の思いで振り切り、アイマンは家族の待つ家に駆け戻った。
そんなアイマンの目に映った光景は、悲惨なものだった。
宿屋は風で半壊していた。隣の家が倒壊し、二階を押し潰していたのだった。
アイマンは構わず、中へ飛び込んだ。
――が。
「ハーラはすでに息絶えていた。ミーシャを守るようにしてな。そのおかげで、ミーシャは今ここにいる」
「……お気の毒に……」
カズホの泣き出しそうな顔に、アイマンは苦笑で答えた。
「ハーラの下にいたミーシャを、どうにか連れ出そうとした時だった。天と地が割れるかと思うほどの雄叫びが聞こえたんだ」
タクシィ・アエトスが、宿屋の真上でその巨大な翼を広げていた。
アイマンは、娘を守ろうとした。
が、それを拒んだのは、ミーシャだった。
『おじさん、あたしは、風使いになるの』
ハーラの亡骸を感情のない顔で見詰めながら、ミーシャは言った。
『あたしが、……今度は、あたしがみんなを守る。必ず、守るわ』
ミーシャが、タクシィ・アエトスを睨んだ。
『あたしの中においで! あたしを探してたんでしょ? あたしは絶対にあなたを許さない! あたしの大切な人を、大切な場所を奪ったあなたを……いつか必ずあなたを葬る別の力を見つけてみせるわ! それまで、あなたはあたしと共にいるのよ!』
荒れ狂った風が、ミーシャを呑み込んだ。
アイマンの叫び声は、どこかへと吹き飛ばされていった。
「気付いた時には、水も風も街から引いていた。残されたのは、壊れた家々と家族を失った俺達だった。ハーラを弔ってすぐに、ミーシャはイーリアへ行くと言い出したんだ。俺は止めた。はじめてミーシャを大声で怒ったよ。世間知らずで、無鉄砲だとね。父親と同じ道を歩ませたくはなかった。だが、ミーシャの意志は固かった」
「ミーシャがイーリアに行こうと決めたのは、もしかして……」
アイマンの目が、真っ直ぐカズホに向いた。
「タクシィ・アエトスを倒すための強大な力を探すためだ。そして、君に出会った」
カズホは、ミーシャを見た。彼女は、小さな寝息を立てていた。
「お願いだ、カズホ。ミーシャを救ってやってくれ。これは、君にしかできないことだ」
アイマンが頭を下げた。
スィエラも、こうしてアイマンに頭を下げたのだろうか。
スィエラは、本当に――
(もう一体の幻獣はどこへ?)
カズホは、自分に背を向け眠る少女を、しばらく見ていたのだった。




