第三章 現と夢の狭間
(ここは――?)
一穂は、ゆっくりと辺りを見回す。
日中は総勢百人近くいるオフィスの中は、今半数くらいの人数が残っている。しかし、話し声はほぼ聞こえず、キーボードを叩くそれが響いていた。誰も席を立たず、自らの仕事のみと向き合っている。画面のその向こうに、自分と家族の生活が詰め込まれているという確信を、人生の根底に打ち付けている。
一穂も、十年ほどその中にいる一人だった。
今も、期日が今週末の請求書を次から次へと片付けている最中だ。だが、期日という終わりはあるのに、仕事の終わりは決して見えなかった。今週が終われば、また来週があるのだから、期日はまたやってくる。
(あぁ……今日もかぁ)
今日はまだ火曜日。一穂が切りの良いところで終わらせて帰ろうとかと顔を上げれば、時計の針は定時を二時間ほど過ぎていた。いつものことだった。
「あっ、先輩、片付きました?」
ネクタイを緩めて目頭を押さえ、一度天井を仰いだ時、後輩の及川勇人が嬉々として言った。一穂はウンザリした声で答える、
「ああ。三分の一は」
「あの量を? さすがぁ、鈴木先輩。じゃあ……」
「手伝わんぞ」
「えぇ……」
すかさず返せば、及川が分かりやすくガッカリする。
「いいじゃないですかぁ、後輩のお願いを聞いてくれてもぉ。どうせ待ってるカノジョさんもいないんですから」
「ほっとけよ!」
「仕事できて、顔もそこそこ良いのに、なんでカノジョできないんですかね?」
「そんなの俺が訊きたいよ! てか、後輩にそこそこ良いって言われても嬉しくない!」
一穂の盛大なツッコミに、周りが抑えながらもクスクスと笑った。一穂自身は疲弊が増したが、緊張していたオフィス内の空気は少しだけ緩んだ。
「じゃあ、鈴木先輩。飲みにもでも……」
「飲みに行くか?」
及川の言葉に被って、掠れた気味の問いがした。
一穂が顔を上げれば、上司の赤井宗人が少し疲れた顔で笑っていた。五十代らしい赤井は、若い社員にも積極的に声をかける良い上司の見本のような男だった。
「赤井さん、お疲れ様です」
「おう、お疲れ。おまえら、飲みに行くんだろう? 良い店があるんだ」
「あっ、えっと……そういえば俺、まだもう少し仕事があるので、今日は……すんません」
さっきまで冗談交じりだった及川が、誤魔化し、大人しくなる。一穂も後輩の気持ちは分からなくもないが、あからさま過ぎると思った。周りの空気がまた少しひんやりとしたものに戻った。赤井も肩を竦めた。
それを感じ取った一穂は、明るく言う。
「そこ、どこです?」
「あぁ、会社出て、すぐのビルだ。二階にある。及川はまた今度な」
一穂に呆れたような目を向けていた及川は、「えっ、あ、はい」とぎこちなく答えた。