初陣の火曜日
今日の授業は全く落ち着かなかった。大好きな本でさえも頭に入らず、立上くんの言葉も右から左へと耳を通り抜ける。せっかく青梅姉が手に入れてくれた発泡スチロールも形が変わっていない。昨日の魔法講座による疲れもあるけど、大きいのは緊張の方だろう。
いよいよ、というほど待ってはいないけど、大決戦が今日、行われるのだから。
練習もほとんど無しのぶっつけ勝負。誰にも知られないところで、誰もの運命を賭けた戦いに、この小さな体で挑むわけだ。
空は青く、学校もこんなにも平和だっていうのに、気持ちが全然落ち着かない。
給食って、こんなに美味しくなかったかな。何を食べても今は味がしない。
「椿、お前が給食にがっつかないなんて珍しいな。大丈夫か?」
「いつもだって、立上くんほどがっついてないよ。食材は粗末でも、麻美姉のご飯の方が美味しいし」
立上くんはいつも、お預けをされた後の犬みたいな勢いで食べる。
「顔色も悪いぜ?」
「そりゃあ美白には気をつ……顔色? 自分では見えないけど、そうでもなくない?」
ああ、本当に今日は僕、どうした?
こんなことで口を滑らせかけるなんて、どうかしてるよ。
「いや、絶対悪いって。保健室行くか? なんなら連れて行ってやるぜ?」
保健室か……。あんまり行ったことないんだよね。医療費がもったいなくて風邪を引けないから、色々と努力していて身体も結構丈夫だし。
ん、待てよ?
保健室には蘭堂先生がいるじゃないか。決戦前だし、色々と話しておくと後で役立つことが聞けるかもしれない。
「うーん、一人で行ってくるよ。僕の分の給食は立上が食べても……あっ」
ここでチャイムが鳴り、給食の時間が終わる。
「ごめん、下げておいてくれるかな」
「ああ、任せとけ。ゆっくり休めよ」
なんだかんだで良いヤツだよなぁ、立上くん。
あの命も、僕が背負っている。心の宝石――その重みは諸刃の剣で、良い方ばかりに働くとは限らない。心の負担も半端ではない。
やる気が削がれることはないけれど、やっぱりプレッシャーは大きいな。
俯き加減で保健室を目指す。昼休みが始まった廊下は、楽しそうな生徒達で賑わっていた。あの笑顔も命も、僕が背負っているのか。
はしゃぐ声が聞こえる度に、心が沈んでいく。
「椿ちゃん、どこ行くの?」
友達三人を引き連れた法蓮とバッタリ出くわした。例の件は昨夜、土下座して額を床に擦りつけることで何とか許していただいた。いや、帰ってみた時にはもう、それほど怒っていたわけではなかったんだけど。
それどころか、例の不審者の話もあったことで、特訓で帰りの遅い僕を心配していてくれたくらいだ。法蓮は本当に可愛いなぁ。
また心が重くなった。
「んー、保健室」
「調子悪いの? 大丈夫?」
「ああ、大丈夫だから」
この口調じゃ、とてもそうは聞こえないだろうな。
「付き添いは要る? それとも家に連絡しよっか?」
あー、もう可愛い……じゃなくて、あんまり優しくしないで欲しい。今は逆効果だと悟ってくれ、法蓮。無理だろうけど。
「法蓮、何でもするよ。どうしたら良い?」
「だから大丈夫だってば!」
思わず大きい声を出してしまった。法蓮はビクッと震えて、目に涙を浮かべる。
「ごめんね椿ちゃん。法蓮、心配だったから……」
泣きそうな顔も可愛い……じゃないだろ、僕。妹を泣かせるなんて最低ですよ。
「いやいや、こっちこそ怒鳴ってごめん。ちょっと気が立ってるんだ。でも本当に大丈夫だから、法蓮は遊んでおいで」
そう言い残し、僕はその場を後にした。
重い足取りで辿り着いた保健室。今日も女の子の行列が出来ているのかと思っていたんだけど――、
「あれ?」
誰もいなかった。その代わり、扉に張り紙が一枚。
「えーと……先生から皆へのお願い。今日は忙しいから、お話や相談はまた今度。本当に調子の悪い生徒以外は立ち入り禁止で頼むよ……か」
もしかしたら今日の戦いに向けての準備なんかがあるのかもしれない。例えば僕の変身道具の調整とか。相性がピッタリだったとは言え、専用に改造する必要があるとか言っていたし。
うーん、僕のこれは保健室本来の機能でどうなるものでもないか。だとすれば遠慮するべきなんだろうな。
そう言えば、凛火や氷花さんはどうしているんだろう。
「やぁ椿ちゃん。入らないのかい?」
おっと蘭堂先生、いつ背後に回ったんだい?
「いや、それほど体調が悪いわけでも……」
僕の言葉の途中、コンビニの袋を手に提げた蘭堂先生が片目を瞑り、保健室の扉を親指で指した。
「ちょっと耳を当ててごらん」
言われた通りにピッタリと耳を付ける。すると、中から声が聞こえてきた。
「凛火ちゃん。もっと、もっとお願い」
「あー、鬱陶しいわ。喜ばせるためにやってるんじゃないって言っているでしょ!」
「してくれないの?」
「ええ、してやらないわ」
「……それはそれで、いいかも」
「もう何なの!?」
氷花さんと凛火だ。
「この紙は?」
「ちょっとした人払いさ。今は買い出しの帰りでね、この荷物を置いたら君を呼びに行くところだったんだよ」
袋の中はお菓子やジュースで一杯だった。
「あの二人は四時間目が自習だったらしく、抜け出して来てね。ちょっと魔法の練習をすると言って、さっきまで頑張っていたよ。室内だからウォーミングアップ程度だけど。そのままここで談笑しているよ」
そうなのか。ちょっと仲間外れにされたみたいで寂しいような、でも呼びに行くところだったと言われて嬉しいような、複雑な気持ちだ。
そう言えば、この人達の命も背負っているってこと、あんまりにも近くにいるから忘れていた。これでまた、心の宝石は大きくなる。
「やぁ、二人とも」
「あ、椿くんだぁ。待ってたよぉ」
「クソ犬、遅過ぎるわ。わたくしを待たせるなんてどういうつもり? クソ眼鏡も、買い出しくらいパッパとしなさい!」
くそぉ、何だよ、待ってたって。知らないよ、そんなこと。でも何だろう、嬉し過ぎて涙が出そうだ。さっきまでの暗い気分が嘘のように晴れている。
「ちょっとクソ眼鏡、アルトラスのチョコレートがないじゃない。しかも何コレ、安物ばっかり」
「アルトラスって――無理言わないでくれ。コンビニに売っているわけがないだろう」
「そうなの? ハッ、コンビニエンスっていう割には使えないのね」
「でもでも、二十四時間やってるらしいよぉ?」
「それがどうしたってのよ。店なんて普通は電話一本で二十四時間いつでも、どこからでも飛んでくるでしょう」
「それはそうだけど、でもでも、わたしはちゃんと営業時間内に買いに行くよ?」
「今からアルトラスに電話してやろうかしら」
「学校ではダメだよぉ!」
貧乏な僕には無縁な天上の会話が聞こえる。
本当に賑やかな人達だなぁ。それでいて、やっぱり普通の精神じゃない。僕があれだけ鬱になっていた時も、二人はこうして騒いでいたんだろうな。
「僕、男として情けなくなってきましたよ」
手渡されたお菓子とジュースというブルジョワな品を頂きながら、蘭堂先生に言う。
うん、気分が軽くなったせいか美味しい。
「君は幼女だ」
いや、だから違うってば。今だって中性的な服装だし。
「まぁそれはさておき、あの二人だって普段通りじゃないはずさ。仮にいつもと何も変わらなければ、大した成果の見込めない練習なんて、しに来ないだろう。特に凛火ちゃんは。あれでも少しは緊張していると思うよ」
なるほど。
「やっぱり蘭堂先生は良く見ているんですね」
「まあね」
「幼女のことは」
「まあね☆」
そこは否定してくださいよ、頼むから。
「巻き込んだ俺が言うのもなんだけど、もっとリラックスして良いよ、椿ちゃん。戦いでは俺も助言するし、あの二人もいる。色々と背負っているものがあるけど、それは『君が』じゃない。『俺達が』背負っているんだ。重ければ分け合うし、疲れたら回復するまで持ってやる。それが仲間ってものさ」
良い言葉だ……と思うけど、その前の台詞の所為で感動できない。
「俺に言えるのはそれくらいさ」
蘭堂先生は僕の頭にウィッグを乗せると、机に向かった。卓上には僕の魔石と、見たこともない調整用の工具が数十本、置かれていた。恐らくだけど、昨日預けてから、ほとんど休まずに調整を頑張っているんだろう。
「クソ犬、わたくしのジュースがもう空よ。注ぎなさい」
「さっき思ったんだけど、そのクソ犬って誰のこと?」
予想は簡単にできるけど。
「アンタでしょ。くだらないこと訊いてないでホラ、さっさと注ぐ」
コノヤロウ。今は機嫌が良いから許してやるけど、いつか貴様を……。
「何よ、その反抗的な眼は。これの存在を忘れたの?」
例の四分割写真が召喚された。
「はい、僕はクソ犬でございます、凛火様」
くそぉ、勝てる気がしない。
「凛火ちゃん凛火ちゃん、わたしは? クソ豚?」
「アンタは氷花でいいでしょ」
「そんなぁ。……でも、それはそれで……」
「あーーーーっ、もうっ!」
でもこの二人と一緒なら、誰にも負ける気がしない。
時は移ろい、放課後。
「じゃあな椿。今日は早く寝ろよ!」
「うん。また明日」
立上くんに別れを告げ、三年二組に足を向ける。いつものことだから、他のクラスでも慣れた感じに扉を開けた。
「失礼します、っと。法蓮」
「椿ちゃん!」
丁度ランドセルに教科書類を詰め込み終えた法蓮は僕を見るなり、パタパタと走って来て抱きついた。
「元気になったの?」
「だから大丈夫だって言っただろ?」
くそっ、可愛いなぁ。
「今日は法蓮、椿ちゃんと一緒に帰るよ」
そうしたいのは山々なんだけどなぁ。
「今日は僕、用事があるからさ。悪いけど一緒には帰れないんだよ。それを伝えに来たんだ」
僕はただ、事実を普通に言っただけだ。特別に悪いことは何も言っていないはず。しかし法蓮はまた、目に涙を浮かべた。
「まだ怒ってるの? もしかして昨日、法蓮が黙って帰ったこと? 法蓮、どれが悪いことだったのかわからないよ。謝るから、どうして怒ってるのか教えてくれたら反省するから、だから一緒に帰ろ?」
落ち着け、法蓮。そして落ち着くんだ、僕。
ちょっ……この破壊力は凄いぞ。そんな上目遣いで必死に言われたら、本当に用事があるのに、一緒に帰りたくなるだろ。
「おいおい、怒ってたら伝えに来ないで帰るだろ、昨日の法蓮みたいに」
「……あっ、ごめんね。法蓮、いじわるだったよね」
しまった。最後のは蛇足だったか。
涙目どころか、本当に泣き出した法蓮に、教室に残っている生徒の視線が集まる。友達の二人は心配そうに見つめ、僕を変態と認証した常識ある子は、軽く睨んでくる。
僕はこれからどうすればいいんだ。
誰か、誰か僕を助けてくれよっ。救世主よ、今ここに来たれ!
「クソ犬ぅ、こんなところで油売ってる余裕、わたくし達にはないでしょう?」
背後から聞こえる冷たい声。その冷気か、背筋がゾッとした。
おおっとぉ、こいつぁとんでもねぇ救世主様だぜ。いや、どっちかって言うと悪魔だぜ。魂を売らなければ助けてくれるどころか、状況を悪化させそうな気がする。
「ぐすっ……あ、昨日の……」
僕の背後に立つ凛火を見て、法蓮が言った。そう言えば面識あったんだっけ。
「……椿ちゃんを女装させた人」
そして鼻を啜りながら毒を吐いた。根に持ってるんだな。
さぁて、どうなるよ。法蓮VS凛火。もちろん展開次第では、僕は命を投げ出してでも凛火を強引に引き離すけどね。
果たして法蓮の先制攻撃に対し、悪魔の女帝、凛火は……?
「違いますわ。強要したのはもう一人の方。わたくしは止めたのですけれど、半分嫌がる椿くんを氷花さんが無理矢理……」
オイちょっと待てやテメェ。なに猫被ってやがる。アンタはそんなキャラとは正反対のはずだろう。そして氷花さんに罪をなすりつけるな。
「椿くんの妹さんですわね。申し遅れましたわ。わたくし、桜庭凛火と申します。以後お見知りおきを」
誰だよ、お前!
そんなキラキラオーラを出すような人格じゃないだろ!
「あっ、えとえと、椿ちゃんの妹の法蓮です。止めてくださったとは知らずに、とんだごぶれいを……こちらこそどうか、よろしくお願いします」
ああぁぁああああっ、信じちゃダメだ法蓮ーーーーッ!
「そう、法蓮ちゃんって言うの。可愛らしい貴女に似合う、とっても素敵な名前ね。それにお行儀も良いわ。さすがは椿くんの妹ね」
だから誰だよテメェ!
「椿ちゃん、一緒に帰れない用事って、もしかして……」
「あら、ごめんなさいね。これからわたくしと椿くん、それから昨日の氷花さんで、先生から頼まれたお仕事をしなければならないの」
悪魔じみた誤魔化しが、また発動している。しかも今度は嘘がない。笑顔も表面だけは見惚れるほど綺麗だ。
裏の顔は見えないけど、絶対ドス黒いはず。
「……そうなの?」
「ああ、うん。そうなんだよ。だから今日はごめんな。明日は一緒に帰ろうな?」
「心配なさらなくても、氷花さんの暴挙は今度こそ、わたくしが身を呈してでも止めますわ。だから今日だけ、椿くんを貸してもらえるかしら?」
アンタが言うな、アンタが。あと法蓮の中で氷花さんの株が地中深くに埋まっているんだけど、大丈夫なんだろうな?
「わかった。我慢する」
「偉いわ、法蓮ちゃん」
おいテメェ、汚い手で法蓮の頭を撫でるんじゃねぇ、悪が移るだろうが!
「……法蓮、気を付けて帰れよ」
あと、近づいてくる人の本性にも気を付けような。割としっかりしているから問題視していなかったけど、騙されて誘拐とかされないか、急に不安になってきた。
「うん。お仕事頑張ってね、椿ちゃん、凛火おねーちゃん!」
僕と聖母のような笑顔の凛火は、法蓮に手を振って別れた。教室から少し離れたところで、凛火は言う。
「ちょろいわね」
ですね。
「ま、わたくしにも世間体があるから、不特定多数の前では素を見せるのよ」
素っていうのは、取り繕った方じゃないよ。
きっと舞踏会とか船上パーティとかいう都市伝説なイベントに参加したりしているんだろうから、あれくらいは当然のように作れるんだろうな。
法蓮と凛火の戦いは、展開こそ予想外だったけど、凛火の圧勝だった。
「あ、凛火ちゃん。椿くん見つかったんだね」
トテトテと歩いてくる氷花さん。それと同時に、友達と帰ろうとしている法蓮が教室から出てきた。
この二人も一応、面識はあるんだよね。……ってこたぁマズイなぁ。
「あ、椿くんの妹ちゃんだぁ。そう言えば挨拶がまだだったねぇ」
ああっ、今はダメだ氷花さん。こら凛火、笑いを堪えるな。いや、もういっそ高笑いして正体をバラしてしまえ!
「わたし、御崎氷花。よろしくねぇ」
「………………」
法蓮は驚くほど冷めた目をしている。
「あの、お名前はなんて言うの?」
「………………法蓮」
「そっかー、良い名前だねぇ」
「御崎さん、椿ちゃんに近付かないでください! それじゃ!」
法蓮は友達の手を引きながら走って行った。
「なんで、どうしてぇ~っ?」
こういう事にはショックを受けるらしい。もの凄く凹んでいる。
「うーん、わたし嫌われてるのかなぁ?」
そうだね、主に凛火のせいでね。
「人柄じゃないの? ちなみにわたくしは『凛火おねーちゃん』と呼ばれたわ」
「いいな、いいなぁ~」
「あの時の法蓮ちゃん、とっても可愛かったわ」
「いいないいなぁ~っ!」
一見、いや、何見しても非道に見えるけど、こうすることでしか氷花さんに勝てないんだろうな。それに凛火も案外、法蓮を気に入ったのかもしれない。この取り繕う必要のないメンツで居ながら「法蓮ちゃん」と呼んだことから、そんな感じがした。
まぁウチの法蓮は世界一可愛いからねぇ!
「さてと、それじゃあサッサと大魔王とやらに制裁を下しに行くわよ」
しょぼくれる氷花さんをズルズルと引きずり、凛火が言った。
「まずは保健室だね」
そこから蘭堂先生の車で移動だ。
今日の午後六時、封印が解ける。決戦の場は地下のあの空間だ。
初舞台にして大舞台がもうすぐ、幕を開ける。
封印解除の予定時刻、午後六時まではあと少し。魔法の復習を終えた僕たちは変身した姿で壮大な地下空間に腰を落ち着けていた。この超短期間でやれるだけのことは、それなりにやったと思う。蘭堂先生の頑張りのおかげか、僕も昨日よりは上手く魔法を扱える。
大魔王と言ったって、所詮は長い眠りから覚めたばかりの、いわば寝起き。頭とかがもの凄く痛いかもしれないし、もしかしたら封印が解けても寝ているかもしれない。
大丈夫、僕らなら負けないさ。
この戦い前の緊張感。心臓を冷水に浸した様な感覚、震える歯と手足。スポーツとかはやっていなかったけど、試合前なんかはこんな感じがするんだろうか。それとも、これはそれらを遥かに超越しているんだろうか。
本ばかり読んでいる僕だけど、やっぱり知識には経験も必要なんだな、とつくづく思う。実際に体験しなければ、真の知識にはならないんだ。
あと少しで、世界の命運を背負った戦いに身を投じるこの状況……さすがの皆も、緊張で口が動かない……はずと思っていたことも、遠い昔にはあったのかもしれない。
「アルトラスも良いけど、コニャーのミルクも美味しいよ?」
「いいえ。アルトラスのビター、これが至高よ。コニャーのミルクなんて、味の分からない子供が食べるものだわ」
僕が黙っているのは、話に付いていけないからもあるんですけどね。アルトラスもコニャーも、縁のない僕ですら知っている有名なチョコレートのブランドだ。
僕はチョコレート自体、口に出来ることがほとんどない。
「ビターは苦いよぉ」
「甘過ぎると味覚が狂うわ」
まったく、平和な人達だ。
「ははは、まだまだ子供だな。もっとも、それが良いんだけどさ。でもチョコレートといったら、クレーバに決まっているだろう。あの甘みと苦みのバランスは……」
「クレーバはないわ。味が雑過ぎ」
「ないねぇ」
「え、マジ?」
……あのさ、そろそろ僕を話に混ぜようよ。そんな金持ちの会話をされても、異国語にしか聞こえないよ。
「椿ちゃん、どした?」
「僕の家、経済的にアレなんで、そういう話は付いていけないんですよ」
あ、空気が凍った。
違うんだ、みんなの楽しい雰囲気を壊すとか、そういうつもりで言ったんじゃないだよ。ただ寂しかっただけなんだよ。
「そう、それなら今度、アルトラスをご馳走してあげるわ」
ええっ? そんなっ、良いんですか凛火様っ。
「……法蓮ちゃんに」
うぅぅぉぉおおおおおおおおっ! 上げて落とすなよバカ野郎チクショウ!
「ハッ、法蓮は苦いの苦手だからな。精々あげて嫌われれば良いさ」
「別にビターをあげるつもりは最初から無いわ。小さい子が苦手なことくらい、わかってるわよ」
小さいって言っても、一歳しか違わないけどな。
「それなら椿くんには、わたしがコニャーをご馳走するよぉ」
氷花さん!
これは嬉しいぞ。法橋家ではチョコレートなんて二月にしか食べられないからね。毎年くれる母さんと麻美姉には感謝が尽きない。青梅姉と法蓮は、諸事情により用意できないし。
「だったら俺はクレーバを……」
「クレーバはないわ」
「ないねぇ」
「マジで?」
もうすぐ残り一分。この戦いが終わった後も、僕らはこうして笑顔でいられるだろうか。いや、疑問に思うんじゃダメだ。笑顔でいるんだ、みんな揃って。大魔王だか何だか知らないけど、誰も傷つけさせはしない。
「……よぅし、勝ったら明日、保健室で祝勝会だ。俺は直接は戦えないけど、みんな一緒に頑張ろうか!」
「クソ眼鏡がわたくしを選んだこと、あのクソ虫は後悔するでしょうね」
「ドキドキのわくわくだねぇ」
三人が思い思いに言葉を口にする。自然に僕が、トリの流れだ。
「魔法少女隊の初任務だ。僕たちの力、大魔王に見せつけてやろう!」
決まった。
「アンタは少女じゃないでしょ!」
「痛ぁッ! 良いじゃないか、別に。ていうかヒールで踏まないでよ!」
蘭堂先生が持ってきたデジタルの置時計が今、六時を示した。
全くの同時に、遠くの鉱物の柱に一本の亀裂が入る。それは徐々に大きくなり、本数も増えていった。硬いものが割れるピシッという音がいくつも、何度も鳴り響く。
地面も揺れ、轟音と共に天井から小石が降ってきた。このまま崩れて生き埋めになりそうな勢いだ。
そして遂に――。
爽快な音を立てて、巨大な鉱物が砕け散った。地震も止み、鉱物が落下する音以外は聞こえない。
見えるのも、煌めきながら崩れていく鉱物片だけだ。
「クソ虫はどこよ!」
「見えないねぇ」
いるはずだ。目を凝らせ。
「先生、結界はもう無いんですよね」
「そのはずだよ」
だったら、行くしかないだろう。
僕は中指に指輪が光る右手を構え、前に歩みを進める。
僕の魔法は風を自在に操る力だ。風はどんなところにもあって、今はそれがヒシヒシと感じられる。だから異質な風、呼吸や存在によって歪んだ風があれば、そのものの位置を特定できる。
触覚に集中し過ぎてもダメだ。視覚と両方を特化させるんだ。
「クソ犬、虫は?」
「ちょっと待って。今、妙な風を感じた」
尋ねた凛火も鞭に炎を纏わせ、すでに戦闘態勢だ。凛火の魔法は炎の力で、基本的には火焔の鞭で戦う事になる。一撃必殺の威力はないけど、一発一発が痛く、軌道が読みにくい。
「見つけた!」
前方、鉱物の中央に、巨大な生物を確認。
「いけっ、ウインドショットォ!」
指輪が弱く発光し、右手から風の弾丸が発射する。奇襲上等、悪に対して手段は選ばない。
ウインドショットは小さな鉱物片をまき散らしながら敵がいると思われる地点に衝突し、炸裂した。さらに粉塵が巻き上がる。
「んー、痛いのら。人が眠っているのに、なんなのらぁ?」
なにやら妙に籠った、間抜けな声が聞こえてきた。
「おおっ、なんだか自由に動けるのら。あの魔法使い共め、厄介な魔法を使って……絶対に許さないのら!」
ソレが宙に浮かび上がった。加速して浮かび上がって、更に加速して上がって、そして――天井のシャンデリアに激突した。照明が大きく揺れる。
「痛いのらぁ、ここはどこなのらぁ?」
シルエットは丸い。ほぼ球体だ。なんていうか、色々と気が抜ける。
「虫って言うより、豚ね」
「蘭堂先生、本当にアイツ、大魔王なんですか?」
「えっ……多分、そうなんじゃないか?」
まぁ他にいないしねぇ。でも蘭堂先生も戸惑っているようだ。封印されていた時は結界で近づけなかったから、先生もよく見るのは初めてなんだろう。
「お、人間がいるのら。おーい、ここはどこなのらぁーっ?」
うわっ、こっち来た。
姿が徐々にハッキリと見えてくる。なんて形容すればいいのか……そうだなぁ、多分ペンギンとイルカを足して二で割って球体に膨らませたら、こんな感じになると思う。
小さ過ぎる帽子、はち切れそうなズボンと上着、つぶらな瞳が意外と可愛い。
そんな珍獣が、僕らのすぐ近くまで降りてきた。
「おい、答えるのら。ここはどこなのら?」
デカッ、半径一メートルはあるよ、この球体。
「黒三山神社の地下だけど」
一応答えてみる。
「黒三山神社ぁ?」
ま、知るはずもないか。ここが建てられたのは、コイツが封印されてからだろうし。
「今度はこっちの質問、いいかい?」
「んぁ?」
僕、意外と落ち着いてるなぁ。勝手に鬼神のような姿を想像していたところに現れたコイツだ。そりゃあ昂ぶっていた気も沈静化して、冷静になるよね。
「君が大魔王?」
僕が問うと、球体だから分かりづらいけど、コイツは胸を張った。
「そうなのら。このボクこそが大魔王ヌーヌ・アルリアラステル・ファッジゴードルフ一世なのら。だからお前達、頭が高いのら。恐れと敬意を持って、ひれ伏すが良いのら」
一世って、自分で名乗るものなのか? いや、それはこの際流すとしてアンタ、言ってはならないことを言ったぜ。
そんなことを言われて黙っていられるほど、人間が出来てはいないよ……凛火は。
「わたくしに、向かってッ……」
炎を纏った鞭が空を裂き、ヌーヌの身体とぶつかり乾いた音を響かせる。
「痛いのらぁッ! 急に何するのらぁ?」
「そんなッ、口をッ、きくなんてッ……」
三回連続、鞭が鳴る。
「痛いのら、やめるのらぁ!」
「覚悟くらいはッ、出来ているんでしょう……ッ!」
そして二発、強めの攻撃。
髪を振り乱して鞭で打つ様は、恐いくらいにピッタリだ。それはもう、相手が可哀相だと思えるほどに。
でもまぁ、案外楽に勝てそうで良かったよ。氷花さんなんかは、このまま出番が来ないで終わりそうだ。
「この豚ッ、クズが……ッ!」
いや、ホントに恐いですよ、凛火様。
「もう嫌なのらぁ。これでも……」
ヌーヌの身体が一回り大きく膨れると、流れていた空気が一変する。直感でわかる、なにかを仕掛けるつもりだ。
蘭堂先生が叫ぶ。
「凛火ちゃん、気を付けて」
「わかってるわよ」
凛火は素早く距離を取って、身構えた。
「くぅらぁうぅのぉ、らぁーーーーっ!」
口から巨大な空気の砲弾、風魔法か!
それなら僕の出番だ。相殺してみせる。
「ウインドショットォ!」
風と風がぶつかり合う。大きさも威力も、向こうの方が上だ。
「くっ……」
気合を乗せてなんとか均衡を保つけど、発射口の手、更には腕に掛かる負担が大きい。
「クソ犬、踏ん張りなさい!」
「椿くん、負けちゃダメだよ」
敵の魔法は、呼吸を利用した攻撃だ。膨らんだってことは、使い切れば萎んで打ち止めのはずなんだ。持ちこたえればこの押し合い、勝機はある。
僕は叫びながら、全身の力で抗戦する。
風同士の衝突で、この広い空間に空気の循環が生まれる。渦のように巻く風、塵や鉱物片が踊り始める。
腕が痛い。壊れそうなほど痛い。でも相手の身体も萎みつつある。僕の心には二つの石があるんだ。だから根競べで負けることは――ないッ!
「椿くん、あとはわたしが受けるよ」
小さくなった敵の砲弾を見て、氷花さんが背後で言った。この大きさなら、一人が受ければ周りの被害はなくなる。さっきは神社自体が壊されそうだったから相殺を試みたけど、今なら大丈夫だろう。
氷花さんは、左手のリストバンドから垂れるリボンを引っ張った。するとその体が消え、次の瞬間、僕の眼前に現れる。
初めて見た時には随分と驚かされた、瞬間移動の魔法だ。
「ひゃふん!」
これぞ凛火曰く「氷花ガード」の魔法だ。
敵の砲弾を受けた氷花さんは吹っ飛んで壁にぶつかった。あまりに速く飛んで行ったから見えにくかったけど、もの凄く嬉しそうな顔をしていた気がする。
氷花さんの基本戦闘スタイルは、瞬間移動で味方への攻撃を防ぐ、盾の役割。服に特殊な魔法が掛かっていて、ある程度の攻撃までは体に傷一つ付かない仕様だ。その代わりに痛みが二倍になるという、僕らからすれば地獄な諸刃の剣、氷花さんからすればパラダイスな力を持っている。
「みんな、連撃に備えて!」
蘭堂先生の声につられて、僕と凛火は武器を構えながら片手をブローチ付近に持ってくる。ブローチに付いているリボンの片方を引くことで、こちらからも氷花さんを召喚できる。僕としては気が進まない機能だけど、凛火は喜んで使うだろうし、何よりも氷花さん自身が喜んで使われたがっているから、まぁ良しとしておこう。
本当に、恐いくらいピッタリな道具に仕上げてくれたよ、蘭堂先生は。
「……ちょっと、あの豚はどこよ」
凛火が武器を下ろして尋ねる。目の前から、丸い物体が忽然と消えている。しまった、隠れられたか?
奇襲されては、戦闘に慣れていない僕らに勝ち目は……。
「上だよぉ」
「え?」
声に釣られて上を見ると、天井にぽっかりと穴が開いていた。
「なに、逃げたの?」
「ヌーヌちゃんねぇ、『まだ魔力が戻ってないから、ちょっとオサラバするのらぁ』って言ってたよ」
とりあえず勝った……のかな?
意外と楽勝だったなぁ。
「それと『お土産もくれてやるから、感謝するのらぁ』とも言っていたよ」
よく聞き取れたな、氷花さん。確かにあの一瞬は一番近くにいたけど、そのすぐ傍にいた僕には、声なんて何も聞こえなかったのに。
「ん? お土産ってなに?」
「アレのことじゃないの?」
凛火が指さす先、ここの中央に黒煙が上がっている。
「召喚魔法かッ!」
先生、それは何だい?
氷花さん召喚とは違うのかい?
「気を付けるんだ、何が出てくるかわからない!」
ん?
おぉお?
うぉおおおおおっ?
「……随分と大袈裟なものが出てきたわね」
冷静に言ってる場合じゃないだろ!
黒煙が徐々に形を成し、高さ一〇メートルはある骸骨が出現した。眼の部分だけが血のように赤くて恐い。
「おっきいねぇ」
氷花さんは相変わらず呑気だねぇ!
「先生、これは?」
「……恐らくは、ユ・テ・アバラス。死者の魂が集合して出来た怪物……だと思うけど。俺も魔法には詳しくないから、ハッキリとは言えないな」
なるほど、取りあえず非常にマズイものだという事はわかった。
それなら道は一つだけだ。
「逃げようか。ヌーヌも逃げたし……痛ぁッ!」
「わたくしの脳内に『後退』の二文字はインプットされていないわ」
それ前も聞いたよ!
「椿ちゃん、残念ながら凛火ちゃんの言う通りだ。ここで退いたら、その後コイツが何をするか分かったもんじゃない。倒せるのは多分、この世界に君たちしかいないんだから」
戦いは常に背水の陣。
敵は必ず討たねばならない。
これが特殊な力を持った者の使命なのか。今まで読んだ本の勇者や英雄も、こんな苦しい状況で戦っていたんだな。
「どうせまた、あのクソ豚と戦うんでしょう? 肩慣らしには丁度いいわ」
それもそうか。むしろ実戦経験を積める、良い機会かもしれない。
そうと決まれば速攻だ。
「ウインドショットォ!」
もう一度、風の弾丸を飛ばす。相手は煙だ、吹き散らせ!
『ヴィキィェエエエエエエエエッ!』
ユ・テ・アバラスは奇妙な声を上げて、僕の弾丸に拳を打ちつけた。あのぅ、ユ・テ・アバラスさんアナタ、煙じゃないんですか?
いとも容易く弾き返され、僕は仕方なく氷花さんガードを使う。
「ひゃっふん!」
ちょっとちょっとぉ、コイツ絶対ヌーヌより強いでしょ。さっきと同じ攻撃なのに一秒すら拮抗できなかったよ。
「使えないわね。下がってなさい」
今度は凛火が前に出る。あのハイヒールでどうやって走っているんだろう。
「ハァッ!」
炎の鞭が、黒煙の脛に強襲――。
『キィャァァアアアアアッ!』
効いた! ……けど、少しだけみたいだ。
「ハッ、ハァッ!」
続いて二連続。今度は悲鳴も上がらない。それどころか平然と打たれた足を上げる。
踏みつぶす気か!
「ふん、甘いわ」
凛火はすぐさまバックステップを踏む。そして……。
「氷花ガード、召喚!」
「きゃふん!」
踏みつぶされた氷花さんは、地に埋まった。
「なんでだよ! いま避け切ったじゃないか!」
「フン、自分ひとりが使って楽しもうなんて、そうはいかないわ」
なに言ってるんですか、アナタ。氷花さんのアレだって、限界を超えれば命に危険があるんですよ?
地中でリボンを引いたのか、氷花さんは僕の前に現れた。
「今日は良い日だねぇ」
大丈夫そうだった。
「蘭堂先生、どうしますか?」
「どうするって……とりあえず攻撃は効いているし、持久戦しかないんじゃないかな」
えー。
「一応奥の手があるんだけど、まだ使えないからさ」
「面倒ね」
本当だよ。あの程度しか効かないんだったら、三十分経っても終わる気がしないよ。
……そして、一時間後ですね。集中力も切れてきて、疲れも酷い。繰り返すヒットアンドアウェイにも限界があり、いくつか貰った攻撃が、体に痛みを与えてくる。
凛火も息が切れかかっているし、氷花さんはまた地中に埋まっている。
それに対して、ユ・テ・アバラスのなんとまぁ元気なこと。戦闘開始時と何も変わっていない。痛がっているのは演技なんじゃないだろうか、と思うほどだ。
ユ・テ・アバラスは、顎が外れたかのように口を開ける。
アレだ、あの攻撃にさっきから苦戦しているんだ。回避も防御も難しい、紫光のレーザー。今度は誰を狙うつもりだ?
蘭堂先生にだけは当てさせてはならない。魔力で超人化していない生身の人間が当たれば、きっと一瞬でこの世からさよならだ。
「わたくしに同じ攻撃がそう何度も……ッ!」
狙いは凛火だ。
「通用すると思っているのかしらッ?」
凛火は口の動きを見ながら、忙しなく、踊るようにステップを踏む。あの動きは、他の攻撃をことごとく避けてきた。しかし――。
「氷花ガード、召喚!」
氷花さんの盾を使っても防ぎきれなかった。この攻撃は若干だけど、氷花さんの身体をも傷つける。それほど強い攻撃だ。
女の子が二人揃って吹き飛ぶ。
「くっそぉ!」
風の弾を飛ばすけど、相変わらず痛そうな素振りだけで、なにも変化がない。これ以上は無駄なんじゃないのか?
僕も限界が近いけれど、他の二人はそれ以上にボロボロだ。蘭堂先生も唇を噛んで僕らを見守っている。
「二人とも、大丈夫?」
「んにゅう、にゃんとかぁ」
目を回しているのか、立ち上がった氷花さんの足取りは覚束ない。
凛火は……返事がない。まさかっ――。
「フフ、フフフフフッ」
どこかから聞こえてくる不気味な笑い声。ユ・テ・アバラスか、それとも新手か!
「……もういいわ。ヒットアンドアウェイ? なに温いこと言ってんのよ」
違った、凛火の声だった。
「わたくしに後退はないと言っているでしょ。氷花!」
「は、はいぃっ!」
「わたくしに来る攻撃を全部、受けなさい!」
「わかりましたっ!」
氷花さんはシュッと身体を凛火の前に移動させる。
「後悔させてやるわ。わたくしの前に立ったことを!」
うっわぁ、怖いよ。
ユ・テ・アバラスの右脛に、執拗に攻撃している。どんな攻撃も氷花さんを盾にして絶対に避けない。ただただ炎の鞭を打ちつける。
「ほぅら、苦しみなさい。生きているのが嫌になるほど、苦しめばいいわ!」
『グギェェェエエエエエッ!』
生きているかどうかは知らないけど、あれは確かに嫌になるだろうな。
「お楽しみはこれからよ。まだ地獄の焔は、見えてすらいないでしょ!」
『キィィィ、グヤァァァアアアアッ!』
ビシッ、ビシッ、ビシッと見てる側が目を覆いたくなるような攻撃。それでも全く堪えないというのだから、困ったものだ。
ユ・テ・アバラスの口が開かれる。
「僕のこと、忘れちゃダメだよ!」
敵の頬に向けて放つウインドショット。少しだけ角度を変えることができ、結果としてレーザーは二人の横を通り抜けた。そう簡単に、仲間は傷つけさせない。
「悪くない働きね、クソ犬。あとでドッグフードをあげるわ」
褒めるなら素直に褒めてくれればいいのに。
「フフフ、全てがわたくしの盾になる……良い気分ねぇ!」
おい、調子に乗るな。
呆れたことに凛火は、なんだかご機嫌になっていく。仲間が身を呈して護り、自分勝手に攻撃できるのだから、そりゃ凛火にとっては楽しいのかもしれないけどさ。結構僕たちは大変だよ。
「さぁ、わたくしの前に跪きなさい!」
もう疲れを感じさせない輝いた笑顔で、更に一発、強烈な鞭が飛ぶ。
その時――。
「あら、何コレ」
凛火の動きが止まった。ユ・テ・アバラスは相変わらず悲鳴を上げるだけで、特に変化は見られない。何が凛火の動きを止めたのか。変わった点があるとするなら、息遣いが荒く、顔が紅潮し、ブローチの魔石が僕のものと同じくらいに輝いていることくらいだ。なんだ、どうしたんだ?
僕が戸惑っていると、蘭堂先生が声をかけた。
「凛火ちゃん、ブローチの石を強く押すんだ!」
その声と同時に、怪物の口が開く。
「させるかぁ!」
再び僕のウインドショット。だが、読まれていた。腕で弾かれ、風の弾丸は遠くの壁に激突する。
ユ・テ・アバラスの口に、紫の光が収束していた。もう放たれる寸前だ。
「凛火ちゃん、急いで!」
「うるさいわね、わかったわよ」
レーザーが発射された。凛火に対しての、これまでにない直撃コース。
氷花さんは……また埋まっている。間に合わない、やられる!
「凛火ッ!」
僕が叫んだ時には、もう紫の光で姿が見えなかった。無音の砲撃。あの攻撃は非物質的で、生物だけを傷つけるらしい。それ故に、氷花さんガード以外に、阻まれることがない。
果たして凛火は無事なのか。流れ続ける光線を、僕は見守ることしか出来ない。
「……クソ犬」
声が聞こえた。
「凛火、無事なのっ?」
「……凛火様でしょ!」
燃え盛る焔が、紫の光をかき消した。凛火の体が激しい炎に丸く包まれている。
やがて球状で燃え続ける炎が裂け始めた。それは翼となって背中から広がる。両翼で約三メートルの巨大な炎の翼だ。握りしめられた拳に鞭は残っていない。
「これは……?」
「凛火ちゃんの気分が高揚することで発現する真の力、ブレイズモードだ。この状態に入った凛火ちゃんは、もう誰にも止められない」
これが蘭堂先生の言っていた奥の手か。燃え盛る炎の熱が、離れた僕にまで伝わってくる。
「さて、待ちに待った、汚物の命が尽きる時ね。ゴミは焼却してやるわ」
凛火は高く高く、天井付近まで飛び上がって停滞する。見下ろす視線の先には、黒煙の身体を持つユ・テ・アバラス。
勝ち誇ったようにニヤリと笑う凛火の顔は、まさに高飛車な女王と例えるにふさわしい。
「コイツを喰らって果てなさい。穿て! ブレイズチェーン!」
地面から燃え盛る鎖が十数本、ユ・テ・アバラスの周辺から噴出する。先端の矢尻が敵を貫く鎖もあれば、拘束しながら炎を浴びせるものもある。
『ギャアィィィエアアアアアアアアアアッ! ゴギャ、ジョィアアアアアアアッ!』
明らかに苦しみ方が今までと違う。貫かれた表面からは黒々とした液体のようなものが流れているし、手は鎖を抜こうと必死にもがく。しかし熱さで、長く掴んでいることも出来ない。
あれだけ苦戦した怪物を、ただの一撃で沈めてしまった。
「ふぅ……少し疲れるわね、これ」
凛火は優雅に降り立つと、満足そうに後ろ髪を払った。綺麗な髪が宙を泳ぐ。
炎の翼は掻き消え、その手には鞭が戻っている。ピンと背筋が伸びた姿勢、微かな笑み。その姿は、見るものすべてを魅了するほど美しかった。
「良いザマね。散々手こずらせてくれたご褒美よ。精々最期の一瞬まで地獄の苦しみを味わうといいわ」
ま、綺麗なのは見た目だけなんだろうけど。
「凄い技だね。知ってたの?」
「知っていたら初めから使ってるわ。少しはものを考えて喋りなさい。勝手に頭に浮かんだのよ」
直感というか、第六感なのかな。蘭堂先生が設計した技は、覚える時に脳内から湧き上がってくる。僕のウインドショットも最初はそうして習得した。
「そのブローチが光ると、力が続く限りブレイズモードになれる。今回は初めてだから短かったけど、慣れればもっと長く戦えるよ」
ちょっと羨ましいな。僕は確かに可愛いものが好きだけど、男の子であることに変わりはない。やっぱりカッコ良くて派手な技には憧れる。
「そう、慣れれば長く相手を苦しめられるのね。楽しみだわ」
アンタの頭の中はそればっかりか。
「……ッ! 二人とも、油断するな!」
蘭堂先生が急に動きだした。それを目で追った時には、もうユ・テ・アバラスの巨大な黒い拳で殴り飛ばされていた。
まだ動けるのか、コイツは!
「蘭堂先生ッ!」
僕らの盾になって受けた攻撃。生身であれは危険だ。
『グ……ゴゴ……』
口が僕らに向かって開く。
「凛火様、ブレイズモードは?」
「そう簡単に使えるなら、苦労はしないわ」
くそ、ここまできて負けるのか、僕たちは。真正面からの攻撃は、ウインドショットで軌道を逸らせない。
「クソ犬、避ける!」
避けて……その後どうしよう。この攻撃を完全回避はできない。
半端な攻撃は効かないも同然。炎を纏った鎖でヤツがくたばるのが先か、僕らが倒れるのが先か……この状態なら後者であることは間違いない。鎖はヤツに重傷を負わせたけど、致命傷じゃなかったんだから。
シュッ、と僕の前から音が聞こえた。氷花さんの瞬間移動だ。
「椿くん。風でわたしを、あの口まで飛ばして。このままだったら、みんなやられちゃう」
「でもそれじゃあ氷花さんが……」
「わたしは……うん、大丈夫だから。お願いっ!」
大丈夫なはずがない。だって氷花さんは、この中の誰より傷ついているじゃないか。
「クソ犬、飛ばしなさい。強い意志がある者は、そう簡単に死なないから」
強い意志……誰かを護るという強い想い。
氷花さんはずっと、僕らを護るだけの戦いを続けてきた。そして今もその身を削って僕らを護ろうとしている。きっとその根底にあるのは、ひたすらに真っ直ぐで綺麗な気持ちなのだろう。
守護を成し遂げることが氷花さんの願いだとするなら、自分勝手に身を案じるよりも協力するべきだ。
「……わかった。ごめん氷花ちゃん、飛ばすよ!」
風に乗せ、小さな体を前方に飛ばした。同時に僕らは横っ跳びをする。
「ひゃふん!」
直後、発射口からほぼゼロ距離でレーザーを受けた氷花さんが、向かったよりも速いスピードで後ろの壁に激突した。
心配で駆け寄りたいけど、僕は振り向きすらしない。今はただ、氷花さんの気持ちを無駄にしないためにも……ッ!
「ウインドショット、八連!」
反動で腕が痛むけど、これくらい氷花さんが受けた痛みに比べたら、どうということでもない。一刻も早くコイツを倒す、これが攻撃を任された僕と凛火の仕事だ。
見ると、凛火も鞭を持って接近している。
蘭堂先生も氷花さんも、この戦いではもう立てないかもしれない。でも、まだ僕と凛火は戦える。
相手だって弱っているんだ。
ここで攻め勝つ!
「まだまだ、さらに十連発!」
「いい加減しつこいわ、この汚物! 引き際くらい知りなさい!」
渾身の攻撃を叩きこむ。
「まだまだァ!」
強がってはいるけど、腕がもう限界だ。あと何発打てるだろうか。
「うッ……!」
前方で呻き声。僕の隣を高速で通り抜ける人影。大きな衝突音。
「凛火ッ!」
「………………」
どうしたんだよ。「凛火様でしょ」って返してよ!
「凛火ッ!」
もう一度叫ぶ。相手から目は逸らせないから、僕はまた振り向かない。
……返事がない。
僕は、一人になってしまった。
「うわぁあああああああああっ!」
恐れ、怒り、焦り。様々な感情が流れて、痛みも忘れて風の弾丸を撃ち続ける。
「倒れろ、倒れろよぉ!」
しかし怪物は、僕をあざ笑うかのように悲鳴を上げるだけ。もしかしたら、未だに燃え続けて貫いている鎖ですら、効いていないんじゃないか。
ユ・テ・アバラスの口が不気味に開く。回避不能のレーザーだ。
もう、ダメだ……。
僕は痙攣する腕を、そっと下ろした。
僕は物語の勇者とは違うから、勝利なんて確実じゃない。勝ち目だって幻影だった。
こんな化物に勝つなんて、初めから無理だったんだよ。だって僕らは、ちょっと不思議な力を手にしたけど、小学生じゃないか。むしろ、よくここまで頑張ったよ。
氷花さんは僕らの分の攻撃を受け続けて、僕らに攻撃の機会を作ってくれた。
凛火はその機会を活かしてアイツをあれだけ負傷させたし、蘭堂先生だって生身なのに僕たちを庇ってくれた。
………………あれ? 僕は?
みんな骨身を削ってまで頑張って結果を残したのに、僕は……何一つできていない。
仲間がやられるのを、指をくわえて見ていただけだ。この魔法少女隊の、たった一人の男の子なのに!
「うおおおおおおおおおおッ!」
まだだ、まだ終わらせない、終わらない!
回避不能? 防御不能?
だったら素直に受ければいい。それで、立ち上がればいい。それが男ってものだ!
僕は拳を握る。ただ受けるだけじゃダメだ。後方にはみんなが倒れているんだ。今の状態で流れ弾が当たれば、ただでさえ危険なのに追い打ちをかけることになる。
今までよりも、ウインドショットよりも強い攻撃を打つにはどうすればいい?
考えろ、手はあるはずだ。
口に紫の光が集まる。
ただ撃つだけじゃダメなんだ。もっと力を乗せるには……。
僕は腰を捻り、右拳を引く。一か八かだけれど、何となく上手くいく気がする。これはウインドショットを覚えた時と、同じ感覚だ。
レーザーが今、放たれた。
「…………撃ち抜け砲弾、ガストバレットォーーーーッ!」
全力で突き伸ばす拳の先から、巨大な風の砲弾が発射する。
ユ・テ・アバラスのレーザーは生物にしか効果はないはずだけど、非生物から絶対に干渉されないわけじゃない。その証拠として、凛火が炎で消し去っていた。恐らく魔法ならば接触できる。
だからこれなら、後方まで届かせないくらいはできるはずだ。
やはりというか何というか、一時は拮抗したものの、最終的に僕の攻撃は掻き消された。余力を残した閃光は、攻撃後の隙だらけな僕を捉える。だけどこの程度なら、後ろの三人までは届かないだろう。
見てろよ。すぐに立って、次はお前にガストバレットをお見舞いしてやるからな。
「うッ……アッ……!」
焼けるような痛みが全身を襲う。意識に霞みが掛かったように、視界が白くぼやける。
「ぐゥッ!」
おいおい、僕。ここで気絶はないだろ。もう少しだ、頑張ろうぜ。
唇を噛む。ちょっと血が出て痛い。だけど痺れるような痛みの中で、この鮮烈な痛みは意識を繋げてくれた。
立ち上がる必要はなかった。なぜなら、僕は立ったまま耐えていたから。あの光線攻撃に吹き飛ばすほどの威力が残っていなかったことが幸いした。立ち上がると誓ったけど、とても実行できそうにはなかったから。
全ての想いを拳に乗せる。さっきと同じ構えから――。
「いくよ、ガストバレッ……」
あれ? 身体に力が入らない。
おい脚、お前は僕の脚だろ、ちゃんと立てよ。
ねぇ僕の手。せめて後一発、倒せるかどうか分からないけど、撃たせてくれよ。
こら目、閉じるなって。
耳、お前は偉いな。まだお前だけはこうして、聞き取ってくれるんだから。
「椿くん、ありがとう。さっきの攻撃を受けていたら、わたしはもう立てなかったよ」
ほら、優しくて温かい声が聞こえる。みんな耳を見習えよな。
「でも、もう戦いは終わるから、休んでて良いんだよ」
戦いは終わる?
それって負けるってことか?
冗談じゃない、そんな結末は認めない。
「あとはわたしが、この力で……」
……今気付いた。この声は、氷花さん?
オーケーオーケー。手と脚、お前らは一時休止でいいぜ。でも目、お前はダメだ。何が起こっているのか、僕に教えてくれ。
僕は前のめりに倒れながら、薄らと目を開ける。地面に向かって吸い込まれるように落ちる僕の身体を、何かが支えた。
氷花さんだった。
襟元にはブローチが、眩しいくらいに輝いている。
僕をそっと地面に横たわらせ、氷花さんは黒煙の怪物と対峙した。僕にはか細い背中しか見えない。やがて、体と同じく細い腕が、天に向かって掲げられた。
『ギィィィィィィィッ!』
ユ・テ・アバラスは、また口を開く。しかし氷花さんは、ただ冷静に呟いた。
「あなたも痛みを感じるのなら……ごめんなさい。でもわたしには、どうしても護りたい人達がいるから!」
言葉の後、空気中に渦潮ができたように、巨大な水流が氷花さんの体を取り巻いていた。
激しい流れの中、僕が辛うじて目視できるのは、その水が氷花さんの手に集まっているということ。
放たれた閃光は渦の流れで受け流され、全く違った方向に進んでいった。
やがて水流の勢いが弱まると同時に姿を現すのは、ガラスみたいに透き通った氷の剣。紙のように薄いが、長さは三メートル程という長剣だ。
シャンデリアの光を受けるその剣は、息を呑むほど美しい。
危険を察知したのか、ユ・テ・アバラスは二発目のレーザーを準備する。
だけど、果たして撃てるのだろうか。
――あの縦横無尽に斬り裂かれた身体で。
『グォォォォ!』
崩れ落ちる身体と首。それでもレーザーは氷花さんに向かって放たれた。
「……一撃必殺、アブソーバーブレイド」
しかしそのレーザーすらも、粉々に斬り裂かれた。
「……ごめんなさい」
この短い時間の出来事は正直なところ、僕には何も見えなかった。ただ推測できるのは、氷花さんがあの怪物、ユ・テ・アバラスを斬ったということだけ。どんな太刀筋で斬ったのかは勿論のこと、その場から動いたかどうかも僕には分からなかった。
黒煙が空気に混じり、溶けて消えていく。
割れて散った氷花さんの氷剣、その欠片の舞う光景が、そして氷花さんの哀しそうな顔がとても印象的だった。
「椿くん、立てる?」
僕の隣、屈みこんだ氷花さんが声をかけてくる。
「んー、今はちょっと無理かなぁ。他の二人は大丈夫?」
「たぶん大丈夫だと思う。凛火ちゃんからはさっき、小さく寝息が聞こえたし」
あ、そう。心配するだけ無駄だったか。
「疲れたねぇ。明日、学校行けるかな?」
「そうだねぇ……僕はそれより帰りが遅くなったことと、この傷だらけの身体をどう家族に誤魔化すかで、頭がいっぱいだよ」
本当は氷花さんの戦いについて訊きたかったけど、まぁ後で良いや。戦いが終わった今はせめて……平和な事を考えたかったから。