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プロローグ

例によって最終話まで書き溜めてます。

ゆるりと更新しますので、お付き合いお願いいたします。

 春の日曜日。金、土と二日間に渡って降り続いた雨は、この朝になってようやく終尾を迎えた。緩やかながらに吹く風が雲を散らし、燦々と輝く太陽が姿を見せる。街路樹や道端の草に付いた雨粒、濡れたアスファルトが陽光に照らされる様は、豪華絢爛に煌めくシャンデリアを思わせる。

 こんなにも綺麗な景色とあっては、外を歩かずにはいられない。

 やはり雨上がりの朝にする散歩は最高だ……ったはずなんだけど、

「浩一てめぇコラァ! 邪魔なんじゃいボケェ!」

「黙れ浩二、弟の分際で調子に乗り過ぎだ。このゴミめが!」

 道路の曲がり角に差し掛かったあたりで不快な喧騒を耳にする。

 ホント、やれやれですよ。こんな素晴らしき日に騒いでいる、趣のわからん下品な連中は一体どこの庶民だ?

 文句の一つでも言ってやろうと、僕は角を曲がる。

 するとあらまぁ、なんということでしょう。そこでは狭い道の上で、二台の無駄に長い超高級車が睨み合っているではありませんか。

 何メートルあるんだ、この車。生意気を言ってスンマセン、庶民は僕でした。

 車の横には黒いスーツに黒いサングラス、白い手袋を身に付けた人物が二人立っていて、こちらも睨み合っている。

タダならぬ雰囲気を感じ取り、僕は電柱の陰に身を隠す。このまま去っても良いんだけど、湧き上がる好奇心には抗えない。

「天下の御崎家にケンカ売っとんのかい、ワレェ!」

「貴様こそ、由緒正しき名家である桜庭家と事を構えるなど、命が惜しくないのか?」

「うっさいってんじゃ、バータレ」

「黙ってそこを退け、クーズ」

 似たような顔の良い歳こいた大人が、眉間にしわを寄せて胸倉を掴み合う。

 ハッ、みっともないこと極まりないね、ホント。別に、怒鳴り合っているのが金持ちじゃなくて使用人だとわかったから態度を変えているんじゃないんですよ。

ただ、僕は思うわけです。子供の手本となるべき大人が、こんな醜態を天下の往来で晒すべきではないと。

「なんじゃい、浩一のバーカ」

「なら浩二は、バカを超越したビキだな」

「じゃ、テメェはブクだ!」

「ベ…………ボーコ」

「一つ抜かすなや!」

 何歳だアンタら! 低レベルにも程があるだろ!

 いつまで幼稚で不毛な争いが続くのかと思っていると、両方の車のドアが開き、中から一人ずつ少女が現れた。

「浩二さん。わたし急いでいるんですけど、まだ車は出ませんか?」

「浩一、さっさと車を出しなさい。クビにするわよ!」

 一方は優しくて穏やかな声で、もう一方は高圧的でトゲのある声だ。どちらの声も幼く、実際に声の主も幼かった。ついでに言うと、妙に見覚えも聞き覚えもある。

 さて、僕よ。覚えているなら結論を出そうか。ここまで強烈な存在、知っているなら既存の情報で答えを導き出せるだろう。

 まず一つ、絵に描いた様な金持ち。正直これだけで答えは出たんだけど、続けよう。

 そして二に御崎と桜庭という姓。これで確信。

 三に僕と同じくらいの年頃、即ち小学四年生くらいの少女たちであるということ。

 オーケー、百パーセントオーバーで理解した。

 彼女らは隣のクラスの有名人、御崎氷花と桜庭凛火だ。

 あのおっとりした御崎さんの垂れ目、桜庭さんのキツそうな吊り目、覚えているビジョンともピタリと一致。二人が有名な理由は言うまでもなく金持ちであること。この街にある、競うように構えている二つの大豪邸の主たちだ。正確には主の娘か。

 そうなると、僕はここから一刻も早く消え去るべきだろう。いやなに、別に「あの二人」とは関わり合いたくないとか、そういうことじゃない。ただ僕の「こんな恰好」を見られるわけにはいかないからだ。

 今は相手が誰であれ、僕を知っている可能性がある人物とは顔を合わせたくない。

 さてさて、そうと決まれば長居は無用。無関係な一般市民は、抜き足差し足、ただ静かに去るとしますか。

「周りにも迷惑よ。あちらの方を見なさい! 通れないからと、回り道をしようとしているでしょう!」

 背後から聞こえる冷たい声。しまった、気付かれたか?

 声すらも出したくない僕は、いえ違うんです、道を間違えただけなんです、とは言えない。

「お待ちなさい、そこのアナタ。わたくし達が迷惑をかけたのだから、謝罪とおわびをさせてもらうわ」

 しかもわざわざ追いかけて話しかけてきたよ。僕は愚民ですよ。地を這う虫けらなんて放っておいて下さいよ。

「いえいえ、結構です」

 素の声色を隠し、裏声で短く答える。お願いします、見逃してください!

「……そうね、どこかへ行こうとしていたのでしょうから、そこまでこの車で送るわ」

 無視ですか、そうですか。被害者本人の言葉には、傾ける耳もないのですね。どうして金持ちってのは、こう自分の意見を曲げないんだろう。そりゃ僕だってこんな恰好をしていなかったら、その無駄に長い高級車に乗ってみたいけどさ。

 仕方ない、逃げるか。運動会のリレー、毎年アンカー常連のこの僕が本気を出せば、瞬く間にエスケープだぜ。

 グッ、と脚に力を込めてアスファルトを蹴る。それと同時に後方でパチンッ、と軽快に指が鳴った。

「浩一」

「承知」

 すると黒服の男が、僕の眼前に現れた。どこから回り込んだのか、その軌道すら僕には見切れなかった。

 忍者か、忍者なのか?

「凛火お嬢様。目標の捕獲、完了しました」

 あっという間に、僕はいわゆる「お姫様だっこ」の形で持ち上げられていた。

「ま、浩一にしては悪くない働きね。あとでビーフジャーキーをあげるわ」

「やった」

 犬か、犬なのか?

「ではでは通りすがりのお嬢様、車内へお連れします」

 なんなのコレ、もう拉致じゃないか。訴えれば勝てる域だろ、もう。

 桜庭さんが僕に近付く。屈辱的だとは思ったけど、背に腹は代えられず、僕は黒服の胸に向けて顔を背ける。

「あら、少しくたびれているけれど、センスの良い服飾ね。思い出の一品かしら。顔立ちとも良く合っていて、なかなか素敵よ」

 いやいや、思い出の品とかではないんだけど。しかし、うん、眼力も養われているはずのお金持ちに褒められると照れちゃうよ。

「この服の良さ、わかる? さすがだねぇ。実は今まで僕が作った服の中でも最高の出来栄えで……」

 思わず興奮して首を捻り、桜庭さんを見る。その動きで僕のウィッグが落ちる。

 ……って、うぉおおおおっ?

「――男? それに、どこかで見たような……」

「え、マジですか?」

 驚いた黒服が僕を取り落とす。

「ふぉおおおおおッ!」

 僕のプリッとしたお尻が先駆けて、続いて背中がアスファルトに激突する。反射的な行動で首を上げた事により後頭部を打つという最悪の悲劇は免れたものの、この高低差での落下によるダメージは深刻だ。

 成り行きを見守っていた御崎さんが僕に駆け寄り、心配して屈みこむ。

「大丈夫ですか?」

 どうやらウィッグとか僕の正体とか、その他の核心については、御崎さんは触れないでくれるらし――。

「氷花、このコに見覚えない?」

 桜庭コノヤロウ!

 そこはスルーしてくださいよ!

 ほら見ろ、御崎さんが興味を持って僕の顔を観察し始めたじゃないか。

「……あ、法橋くんじゃない?」

「誰よソレ?」

「法橋椿くんだよ、隣のクラスの」

 一瞬にしてバレてる……だとぉ?

 御崎さん、なんて洞察力だ。恐ろしいコ!

「ああ、隣のクラス。どおりでピンと来ないわけね」

 確かに桜庭さんと僕の関係は無に等しい。だから僕も、桜庭さんのことは耳に入る評判程度しか知らない。

 一方で御崎さんは、実は一・二年生の時にクラスが同じだったため、お互いに知らない仲ではない。そうは言っても、クラスメイトの全員と親交を深めることなどできないのだから、会話したのは数えるほどだったけど。

 それにしても、僕が「こんな恰好」をしていることには何も言わないのだろうか。もちろん僕としては、その方がありがたいけど。

「それで……」

 でもまぁ、世の中はそんな蜂蜜みたいに甘くないわけで。

 桜庭さんがまず僕の落ちたウィッグ、それからヒラヒラの少しくたびれた可愛いドレス、最後に顔と、順番に視線を移していった。

 はいはい、そうですね。死ねば良いんですか?

「法橋くんは性同一性障害なのかしら?」

 なにやら真剣な顔で尋ねてきた。随分と難しい言葉を知っているな。

 普通の小学四年生なら縁のない言葉だけど、読書好きの僕には余裕で守備範囲内だ。まさかあの時に読んだ医学関係の本がこんなところで役に立つとは、人生は不思議なものだ。

 性同一性障――心と体の性別が不一致の、非常に厄介な問題だ。明確な判断が出来ないから周りにとっても難しいし、それ以上に、本人に立ちはだかる壁が数知れない。

 さて、これは困ったことになった。幸か不幸か、僕は身も心も男だ。

 つまりはこの歳にして、究極の二択を迫られているってこと。

 周囲への拡散が予想されるだろう、同じ学校の女の子への変態告白か、これから心は女として生きていくか。

 実は罰ゲームです、とか言って誤魔化すという新たな選択肢が脳を過ったけど、この会心の作「ハート・オブ・アリス」をあれだけ饒舌に語ってしまったため、それは無理がある。

 ……いや待ちたまえ。僕としたことが何を迷っているんだ。どうするか、なんて初めから決まっているじゃないか。僕は男だぞ?

 だったら男らしく……。

「違います、ただの変態です☆」

 下半身を地面に着いたまま上半身を上げ、セクシーポーズを決めて言ってみる。これが漫画ならきっと、キラッという擬態語が描かれるに違いない。

 対する桜庭さんはというと、さっきまでの真面目な顔つきとは一転し、冷やかな目で僕を見ていた。というか、地面に丸まった芋虫を見下すかのような目だ。

 おっとりした御崎さんは、何が何だか分かっていないらしく、キョトンとしている。

「そう、よく分かったわ」

 いやいや、ここで分かったというのは焦り過ぎだよ。僕にだって、こうなった理由があるんだから。

「言い訳をしよう。いいかい?」

 立ち上がって僕は言う。

 キョトン顔が桜庭さんの分、一つ増えた。ちょっと唐突過ぎたか。でもこれは、またとないチャンスだ。ここで理屈っぽい事を捲し立てて、正論化して押し切る!

「変態というのは一部分の異常な性格を示す言葉だと僕は思う。では異常とは何か、誰かが決めることは出来るだろうか。否、それは不可能だ。なぜなら僕らは大小様々ではあるけれど、個々に違いを持っているから。つまりは全てが異常にして全て正常。僕が変態なら君たちもどこかが変態なんだよ。そもそも僕のコレは、母と姉二人に妹という環境が紡ぎ出した偶然の産物であり、僕の意思とはまるで関係ない趣味なんだ。だって趣味も大きく分ければ思考、もっと言えば性格の一部なわけで、それらを形成するのは持って生まれたものと育った環境の二種なわけだから、そんな環境で育った僕がこうなってしまったのは、もはや必然なんだよ」

 どうだ、この流暢な語り。本で培った知識を活かした完璧な理屈。

「……浩一、要約しなさい」

「はあ、正直なにを言っているのかサッパリ分からないのですけど……」

「けど?」

「今が変態という事実だけで充分じゃないですかね」

 うおい! 僕の熱弁を無視するな!

「それもそうね」

 そして納得するなよ!

 愕然とする僕に構わず、桜庭さんは踵を返して車に向かった……って待てコラ。

「乗せてくれるんじゃないのかよ!」

「イヤよ、車が腐るわ。浩一、さっさと行くわよ」

「承知」

 無情にも扉はバタンと閉まり、排気ガスをまき散らした車は去って行った。あとに残されたのは、相変わらずの表情をした御崎さんと、浩二とか呼ばれていたもう一人の黒服。

「氷花のお嬢、そろそろ行かんと遅れるけぇのぉ」

「あ、そうですね。椿くん、わたし急いでるから、もう行くね」

 手を振って車に駆けていき、乗り込む寸前に振り返りもう一度手を振り、発車してから見えなくなるまで車の窓を開けての合計三回、御崎さんは僕に手を振った。

 住宅街の一角は、何事も無かったかのように静寂を取り戻した。なんだか久しぶりに木の葉が踊る音を聞いた気がする。

 ……ふぅ、僕も帰るか。

 濡れたアスファルトに落とされた際、当然服も汚れた。僕は惨めな気持ちで大きなリボン付きのウィッグを拾って、ヒラヒラのハート・オブ・アリスの汚れを気休め程度に叩き、そのまま帰路に着く。

 明日から学校で皆から「タイヘンなヘンタイ」とか呼ばれるのかと思うと、道中気は浮かばない。こんな時は心を無にするか、あるいは何かに熱中するに限る。

 というわけで、ハート・オブ・アリスの秘密ポケットから取り出したるは、お手製ブックカバーつきの本。今日は何を入れたんだっけ?

 えっと、タイトルは「疲れた時のための現代短歌」か、なるほどね。随分と後ろ向きなチョイスだ。どんな気持ちでこの本を入れたのか全く覚えていないけど、もしかしたら過去の僕は予知能力が使えたのかもしれない。

 パラパラと流し見ていくと、どの句も傷口への消毒液みたいに、心に沁みた。

 小学生らしからぬ本だと自分でも思うけど、僕の守備範囲は大海のように広く、この程度は序の口だ。絵本から哲学書まで、本なら種類を選ばない。もちろん難しい言葉なんかと相対することも多く、お下がりの国語辞典はページがいくつか落ちている。

 住宅地の果てへと歩いて行くと、廃屋同然の木造建築が見えてきた。一見して幽霊とか出そうだけど、あれでも一応、住人がいるんですよ。しかも五人も。

 どうせ盗られるものも無いどころか、人すらも寄り付かないからと、鍵が壊れたままの引き戸を開ける。

 手を掛けた瞬間に引っ掛かるけれど、ある一点に蹴りを微妙な力加減で入れると……このように、何とか開くわけですよ。色々試した結果、他の方法では開かないから、ますます鍵は不要となる。

 そんな家でも、内部は意外と綺麗だ。どれくらい綺麗かと言えば、パッと見勝負なら築十年の家くらいに見えるはず。

 変わり者の次女が、趣味でプチリフォームに勤しんでいるためだ。

 よくよく見れば壁紙が本当に紙だったりするけど、皆が満足しているから問題は無い。その紙も、近所の方から頂いた新聞紙を張り合わせ、そのためだけに入部した美術部の備品で色を塗ったものだけど、問題は無い。

 そんな姉も含め、僕の家は現在五人家族。

 常に働いている印象の母、小桜。年齢不詳で、聞いても教えてくれない。子供っぽいところがあるから、妙なプライドが働いているのかもしれない。それくらい調べればわかるだろうけど、本人が隠しているのだから詮索は無用だろう。家に出現する確率は卵の双子レベルだ。

 社会人その二、まじめ過ぎる長女の麻美。たぶん二十三歳。持ち前のまじめな性格を遺憾なく発揮し、更に優秀な能力で職場の期待を一身に受けていると、どこかから湧いた噂。飲み物は水しか飲まないというこだわりを持っている、なんて妙な点はあるものの、それ以外は完璧な常識人。滅多に家に帰って来ない母に代わり、家事にも取り組んでいる。

 そして件の高校二年生、次女の青梅。果てしなく元気な変わり者。そして無駄に家族一の美形を誇る。

 年齢順では僕が続いて、その下に一人。

 唯一僕より下っ端の三女、一つ下の法蓮。今のところは果てしなく可愛くて、ごく普通の小学生だ。これからどんな変人に進化するのか、不安一割、期待九割。

 以上が法橋一家となるわけだ。こうして並べてみると、僕の趣味嗜好はなるべくしてなったのだと思える。

 ちなみに父親は他界したとか、していないとか。ぶっちゃけると知らない。

まぁ死別であれ離婚であれ蒸発であれ、今はいないことに変わりない。そのあたりに関しては結構ドライだから、もしも他に兄弟がいたとしても、たぶん僕は気付かないだろう。

「ただいま」

 日曜日のこの時間は、母が友人の飲食店の手伝い、妹の法蓮は家には遊ぶものが何も無いからと、外出していることだろう。普段は姉二人が在宅している。

「おかえりなさい。近所のスーパーで卵と牛乳が安かったから、買って来たよ。ホットケーキ焼いてあげるね。手を洗って来て」

 うっひょおっ!

 ホットケーキとか、どこの宮廷料理ですか?

 さすがは麻美姉、容姿とは裏腹に太っ腹過ぎる。

「んで、それ食ったらあたしの手伝いよろしく。最近ちょっと風呂がヤバイからさ。働かざる者、食うべからずだかんね」

 青梅姉が付け加える。もちろん、そんなご馳走を頂くなら、それくらいはするつもりさ。何もしないなんて、罰あたりにも程がある。

 言われた通り手を洗い、居間に向かうと、少し離れたキッチンから美味しそうな匂いと音が届く。青梅姉が友人から貰ったというバニラエッセンスが、非常に良い仕事をしていた。

 ただ惜しむらくは、我が家には「バター」なる伝説の高級食材が無い。

「出来たよ。お砂糖、少し多めにしておいたから」

 良い色に焼けた、後光すら差して見えるホットケーキの皿を持って来てくれた。やはり素晴らしい匂いがする。バニラエッセンス、恐るべし。

「ありがとー。頂きまーす」

 それでは二人の姉と卵や牛たちに感謝しつつ、食しますか。

 大豪邸ではバターやらフルーツソースやらチョコレートソースやらジャムやら蜂蜜やらメープルシロップやら何やらと付け加え、豪勢に頂くらしいが、僕ら一般市民には味付けなんて砂糖オンリーで充分。

 むしろ素材の味と調理した人の腕前がそのまま反映されるから、これはこれで良いと思う。

 ナイフとか無意味な食器もないから、事前に麻美姉が切ってくれていた。さすが社会人の気遣いはレベルが高い。

 その一切れを箸で掴み、パクリと口に放る。

 香る甘い匂いが鼻を支配し、卵の風味が後から追いかけてくる。牛乳で濃厚になった舌触りの中、輝きを魅せる砂糖の甘み。正に素朴にして王道、煌めく黄金の味わい。

 うむ、美味過ぎて涙が出そうだ。昨日のおやつ、母作の水で溶いた小麦粉(片栗粉ではないところが法橋家のポイント)をお湯と混ぜて冷やした何かも悪くなかったが、これはその上をいく出来だ。

「どう、美味しい?」

「そりゃもう、舌が大満足で欣喜雀躍だよ」

 思わず卓袱台を叩いて立ち上がり、小躍りする。

「そう、良かった。それにしても上手い事を言ったね。確かに椿ちゃん、スズメさんみたいに可愛いもんね」

 欣喜雀躍は、スズメが喜びから飛び跳ねて小躍りすることからの言葉だ。別に自分と掛けて使ったつもりはないんだけどな。

「ま、あたし達に似て女っぽいからねぇ」

 段ボールを弄りながら、青梅姉も賛同する。

「そうだね。アリスちゃんも良く似合ってるし……あら?」

 麻美姉が僕をまじまじと見て、目を丸くした。

一つ言っておこう、アリスちゃんじゃなくてハート・オブ・アリスだ、と。

「汚れてるね。すぐに洗濯するから、早く脱いで。染みになっちゃう」

「いや、これくらい自分で洗うよ。むしろ麻美姉たちの洗いものも洗っちゃうよ」

「ダーメ、私が洗うわ。椿ちゃんはまだ小学生なんだから、気遣いなんてしないで、お姉ちゃんに甘えて良いのよ。子供は元気に遊ぶのが仕事なんだからね」

 実直な麻美姉は、本当によく働く。それが楽しみだと言うかのように、起きているときは休日だろうが仕事から帰って来てからだろうが、常に家事に勤しんでいる。朝も早起きして炊事や洗濯をしているものだから、本当に頭の下がる思いだ。

 ちなみに掃除は青梅姉が担当している。

 だから少しは休ませてあげようと思ったんだけど、そんな心理もお見通しだったみたいだ。

「そうそう。それに椿はあたしの手伝いっしょ?」

 ああ、そう言えばそうだった。

「だからほら、しっかりと味わいつつ、だがしかし一瞬で食してよ」

 僕は部屋着のジャージに着替える。これも無論、どこぞからのお下がりだ。ジャージは高いからね。

「もうちょっと待ってよ。せっかくだから、ゆっくりと楽しみたいんだよ」

 ハート・オブ・アリスを受け取り、いそいそと洗濯に向かう麻美姉を見送りながら青梅姉に答える。麻美姉が向かったのは、たぶん小さな庭だろう。降り続いた雨のおかげで水も結構溜まっただろうから。

 それからしばらく、麻美姉お手製のホットケーキに舌鼓を打った。

 食べ終えてから何かを言われる前に素早く食器を洗い、青梅姉と風呂場に向かう。何と言うかまぁ、青梅姉の言う通りヤバかった。何がヤバイかって言うと、色々と。

 先週直したはずの湯船が割れてお湯が堪らなくなっていたり、他にも壁と床の隙間が壊れていてピー(自主規制)やピー(自主規制)、他にもピー(自主規制)が出てきたりと、思わず乾いた笑いが漏れ出て絶えない。

 途中から麻美姉も仲間に加えて格闘し、どうにか平穏を取り戻したのは小一時間ほどが経ってからだった。

 それから僕は本を読んで過ごした。これが僕の日常で、大体いつもこんな流れ。本は学校や図書館から借りたものが多い。今まで読んだ本は数知れず、所有している本は数えるほど。そのおかげで多少は見識が深くなれたし、精神を成長させることができたと思う。……たまに中身だけ成長しすぎとか言われるけど。

 でも、ちょいと金銭に困っていると趣味も限定されるし、僕の読書趣味はある種の運命だろう。僕が覚えている限りでは「タダで読める」が発端だったから。



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