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掌編小説集「雨の日は憂鬱な」 収録作品例

掌編「歌声を越えて」

作者: 蓮井 遼
掲載日:2018/06/07


お読みいただきありがとうございます。久しぶりの新作です。ジャンルは随筆ということでもあり、エッセイといたしましたが、ヒューマンドラマでもよいかと思います。



 とある休日に、私は部屋で音楽を聴いている。部屋のなかの物を色々と漁っていると、あるCDを見つける。それは1970年代の音源を再録音した当時、人気の詩人のCDであった。この詩人は今も活動を続けていることを私は知っていた。輝きを放っていた70年代の彼の歌は狂気と苦しみに満ちていた気がする。それは途方もない生きている者たちが受ける喪失や傷に関わるものだと私は思っているが、この現在、2010年代を経てもなほ彼が歌っているということは、彼の歌が様々な変容を遂げたことは脇に置いていても、人が歳月の経過によって受ける別離は必ず避けられないことだろう。要は私よりも、彼の現在の歌はかつての文豪が悼みを告白する随筆のように幾つもの別離を経験してもなほ、歌手として詩人として自身の体験や思想、直感や霊感が混じり合い出来上がった嘆きを徹底的に胸の内に留めた歌なのだろう。煙草と酒に慰められると同時に記憶やそれに結びつく感情を薄められたかもしれないし、達観とでもいうかのように起きうることをありのままに受け止めているようにした故かもしれないが、彼の現在の歌は当時の狂気が溢れた頃よりも変哲ない歌になっているが、そのすれ違いが私には納得するのはできても、ただ痛みのままに吠え声を叫び続けるわけにはいかないのはあんまりなことだと思えるのであった。私のこの部屋にこの詩人の現在歌っている歌のCDがあるわけではない。そして、この詩人自身や当時からこの詩人とともに齢を重ねた聴衆ももしかすると当時の歌を黄金の時代の歌だとして今も愛し続けているのかもしれない。

 その間に流れた時間は約半世紀といえよう。一日一日という区切りを継続して生きているのは誰も変わりないのに、経験や体験が重なる内に過去の自身の失敗や衝動を恥じたくなるのか飽きたくなるのか、理由はわからないが、人の言動は半世紀前のその人とは変わっていく。50年前なんて考えたら私は生まれていないし、この魂はどこにいたのかも全く思い出せない。雲の上にいて、出番を潜めていたのかもしれないし、地獄の熱いところで前世という名の時代に生きていたであろう私の行いの穢れを浄化していたのかもしれない。そんなことは私にはわかるはずがないが、そのくらいの年代になれば、文学という系譜も多岐に別れ、内向の世代だとか、高度経済成長時代の華やかさとは対照的な自己の内面を見据える作家が顕れ始めた時代なような気はするが、その辺りは私にはうろ覚えだから間違っているかもしれない。このような作家が居住していた場所に私は訪れてはみたが、彼らと対話できるのは書物のなかであるというのは悲しいことだろうか。今はその作家もこの世に別れを告げて去っていった。私はこのようなことを思ってはみるものの、実際に次にどのような小説を書こうか思い浮かべることができず、これらの過去に埋もれた諸々の物に囲まれながらそれに接する時間もあまりないままに部屋の整理をしていたのであった。

 定期的に私が便利だからと投稿しているウェブサイトの小説が実際に本になって近くの本屋で見られるようになったり、映画化として上映したりされるのも随分驚いてしまい、その事実をどのように受け入れればよいのかよくわからなかった。この事実は、半世紀の間の本になるまでの過程とは飛び越えたものだと思えてくる。ならばいっそのこと、たくさんのネットに溢れる小説が本になればよいと思うが、子供の頃に習った国語の授業で、誰でも小説が書けるようになれたら、作者と読者の割合が逆転してしまうだろうと示唆されたように、本屋に並んでいる本がもし誰も買わないのだとしたら、それは本としての機能を果たすのか、実際に本を購入される読者はいるが、膨大な種類の本が本屋にあれば、そこから一冊も売れずにずっと本棚のなかに出番を待つ本も一定数いる気がする。これはその本の内容がどうというわけではなくて、数学の統計や確率から考えられる結果からである。仮に本が出番を待つというなら、魂が雲の上で出番を待つという状態と共通するものとして思えはしないだろうか。だとしたら、一冊の本は存在するだけではなくて、誰かの手元に届き、出番が発揮されることにより命を持つのだろうか。一方で、沢山の人に認知され、より多くの人に届いた物語は本当に命を持ったのだろうか。私は熟考したくなってきたのだった。

 そういう思いを抱いたのは本に命が宿るという考えをまさに今、この文章を書いている間に私が思いついたからであった。不可解なのは、より多くの人に認知された本だとしても、命の定義になにかその存在が追い付いていない気がしたのだ。命のうち生命は生命の間で連関し、消失し殖えていくものではあるが、出番を待っている雲の上の命の原型は決して生命ではなく、なにか人間の間でかけがえなのなく思われるあの命なのである。その命は軽く失ってはならないものなのである。より多くの人に好まれるものではなくて、幼い子が大人になるまでも形見に愛し続ける物こそが命なのである。この意見自体に、それは誤解だ飛躍し過ぎだと反論する者もいるかもしれないが、私としての命が考え出す命としての像はそういうものであり、できればそれらのように出番を待つ一冊一冊の本がどこかの読者に愛され続ける物となれたらと思うのだ。本に命を持たせるなんてどうかしている、またはこうやって本が色々な形態となり一人歩きしているのもまさに息しているようなものではないかとどこかから聞こえる気がするが、要は本にも色々な命の形があるのではないかということで私はどちらの立場も立てることにしておこう。そして、私がどのような命を宿したいのかと思うことが、もしかしたら今後の私が書く小説の性格に影響させるかもしれない。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 「より多く人に好まれるのではなくて、幼い子が大人になるまでも形見に愛し続ける物こそが命なのである」の部分で少しウルッときました。数にならない価値だってたくさんありますものね。 [一言] 作…
2018/06/09 01:42 退会済み
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