甲虫戦列船メメリィ
──ブブブブブブッ!!
人によっては不快な羽音。
しかしその場にいる誰もにとっては、希望し、待ち望み、ついには叶った愛おしい音。
透き通った羽が高速で羽ばたき風を送る。
強風。
体が浮かぶ感覚。
巨大な甲虫。
今まさに飛び上がらんとしている。
ただの甲虫にあらず。
数十の人を乗せなお空へはばたける大甲虫。
甲虫戦列艦メメリィ!
甲虫戦列艦という、空を翔ぶ船の鏑矢。
とはいえ、そう特別なものでも何でもない。
素体たる大甲虫に、とある技師が頼み込んで──土下座──して、言うことを聞いてもらっているだけだったりする。
虫に土下座した技師の名は、『八色のシュムイル』。
精神的な周囲の圧力のせいか、若くしておデコが後退している、ただの、甲虫戦列艦最高責任者だ。
「あー、翔んだね。うん、完璧に翔んだ」
シュムイルは、周囲が興奮と歓喜に震えている中で一人、疲れ切った、あるいは無感動なまでに冷めた顔のままでいた。
メメリィの生んだ風が、シュムイルの後退した前髪をゆらゆらとなびかせる。
シュムイルの物理的な首がかかっていた、大甲虫戦列船計画の成功が嬉しくないわけがない。
ただ……とても疲れていたのだ。
──長かった。
それが、計画の成功を目にしたシュムイルの素直な感想だ。
喜びはなかった。
成功を確信していたからだ。
だからこそこの成功は、『あたりまえの成功』なのだ。
あたりまえの結果ゆえ、わざわざ喜ばない。
長い道のり。
その一つの終着を迎えられたことに、安堵していた。
思えば、甲虫戦列艦になってもらうには、大変なことしかなかった。
あたりまえだが、虫と人は基本的に会話とか意思疎通というものはできないのだ。
口の構造。
声の出し方。
それらの仕組みが根本から異なっている。
人が虫の声を発せられないように、虫もまた人の声を発せられないのだ。
出会いからして大いに悩まされた。
虫というものは、いっそ恐ろしいまでに効率を追求できる冷酷さを生まれながらに持っている。
迂闊に近づけば、カギ爪で引き裂かれるか、顎で食いちぎられてしまう。
虫たちにとっては邪魔ものか栄養のある肉塊でしかないからだ。
シュムイル、第一の命懸けの冒険。
シュムイルはまず、『虫たちの言葉』を調べた。
意外かもしれないが、虫たちにも言葉があるのだ。
その言葉で、大きな社会を築いてもいた。
ただ、その言葉は人間の知るものとは、似ているようでやはり異なる。
大顎をかきあわせる。
羽根をこする。
触覚を触れ合わせる。
臭いをだす。
身振り手振り。
それらを、学ぶのだ。
単身で森へ踏み込んだ。
交渉のできる虫を探し、また、共力をとりつけるために。
森には太古の支配者が満ちていることを知っていた。
獣たちよりも前の時代、竜の、そのさらに古い時代、虫たちの時代があったのだ。
森は命の宝庫。
しかしだからとそれが、楽園であることを意味しているわけがなかった。
虫、獣、病。
一滴の水にある生と死。
生にあふれるとは地獄である。
シュムイルに叩きつけられた現実だ。
自身の、シュムイルの血と肉を森へ捧げ、出会えたのだ。
『比較的』友好な虫の一族。
女王との話し合いが成功した。
とはいえその中身は単純明快。
何を要求するか。
何を用意できるか。
シュムイルが求めたのは、女王の子たちを一族の外で働かせること。
そしてその対価に女王が求めたのは、一族のさらなる繁栄への貢献であった。
人と虫の共力の始まりである。
……だが、シュムイルの気苦労の多い人生の始まりだ。
虫の女王の要求とはすなわち、次期女王の保護だ。
次期女王たちは巣立ちのさい、その始まりを一匹だけで全ておこなわけなければならない。
人に求められたのは、その巣わけで最も苦労する時期を手助けすることだ。
それの何が苦労か。
シュムイルのもとには毎年のように疲れる仕事が『必ず』舞い込んでくるのだ。
新女王たちの世話が日課。
なかなかに過酷だが、必要なことは確かだ。
だがその価値はあった。
なぜならば、空を翔ぶ手段を安定して供給できるようになったからだ。
空を翔べるということは、計り知れない価値があるものだ。
たしかに、空を翔べる種族というのは、虫だけでしかないわけではない。
天竜、飛馬、翼人など、種は数多くいる。
しかし人が利用できるとなれば話は別だ。
物を乗せて翔べ、数を揃える。
その条件を満たせてこなかった。
虫は何故、今まで見逃されてきたのかといえば、そうではない。
虫はあまりにも異質すぎたからだ。
毛や鱗をもつものと、明らかに違う。
対話は不可能と考えられていた。
箱を開ければ、そうではなかったわけだが、幾度もの兆戦者と前例となったものは、シュムイル以外未帰還であり、成功しなかったのは確かだ。
シュムイルの成功まで、多くの血が星に還った。
一つの理解のためには、そういうものだ。
「──」
甲虫戦列船であるメメリィが何か話そうとしていた。
それは虫語ゆえ、多くのものにはわからない。
しかし、虫の言葉を訳せるものの耳には、その言葉は届く。
人と虫の交流が増え、また、その虫の言葉を知る者も増えた。
その逆も然り。
──どんなもんだい!
虫の言葉を知るシュムイルは、苦笑した。
その苦笑に悪い意味は含まれない。
ただ、女王候補でもかつてはあった親衛隊の一匹、メメリィは古い個体だ。
人の手を借り、小さくなる傾向の女王候補親衛隊にしては規格外の大きさ。
それゆえに改造に参加してもらった。
しかしメメリィのような個体は、あまり作られないだろう。
調整された特殊個体がになうことになっていた。
品種改良。
強力な力だ。
だがもっとも恐るべきは、産み分けられる女王種か。
女王種が産生するのは、卵ではない。
胎の中で孵った蛹の中身、ドロドロとした肉と内蔵を直前で成形しながら生むのだ。
大いに変わった生態だ。
どのような個体を産生するかは女王しだい。
鳥とは違う、コウモリとは違う羽根をもつが空を翔ぶ、虫特有の羽根。
鳥のように柔らかな羽毛があるわけではなく、コウモリのごとく骨に膜が張られているわけでもない。
固く透明であり、凝固した血管が細かくはしる。
太陽の光を透かし、きらめいた。
メメリィは多少の自慢を誇示しながら、そしてそれを見た人々は喜んだ。
「シュムイル様。参謀会議への召喚命令です」
場に似合わぬ軍人が、耳元で囁く。
それは戦争への招待。
シュムイルは参謀会議が、甲虫戦列艦が実戦投入可能か脅してくることを知っていた。
「すぐに行く」
人と獣。
人と虫。
異種といえど、交流は不可能ではない。
人と人。
わかりあおうなどとは、考えないことだ。




