5:39「やくそく」
『たす……け、て……――――』
「――!!」
ただただ落ちていくだけ。
それだけだったハズの空間で、聞こえないハズの声が聞こえた。
聞き間違えようがない。
ずっと聞きたかった、何よりも大切な人の声。
幻聴でもなんでもいい。
俺はその声に応えようとして、闇の中で声を上げる。
「グレィ!!!」
強くエコーのかかった声が、果ての見えない空間をどこまでも響いていく。
当たり前ではあるが、ただそれだけだ。
返事が返ってくることは無く、深い深い、限りの無い暗闇が、変わることなく続いていく。
だが、それでも十分だった。
彼の声を耳にして、失いかけていた何かを失わずに済んだ気がした。
まだ諦めてはいけない。
そう思え――
「……お嬢、なのか?」
「へ?」
あり得ない。
そんなはずはないと思っていたのに。
間違いなく、鮮明に……俺を呼ぶ声が、後ろから聞こえてきた。
落下の感覚が消え、足の裏に重圧がかかる。
依然真っ暗な世界の中。声のした方を振り向いてみると、彼は確かにそこにいた。
この目が姿を捕らえるや否や、目頭が熱くなってくるのを感じる。
「グレィ……グレィ、なの……?」
「……あぁ」
肯定し、頷いた。
次の瞬間、俺は足を動かし、思いっ切り彼に飛び込んだ。
厚い胸板にグリグリと顔を押し付け、溢れ出る涙がタキシードを濡らす。
これに彼はそっと、両の腕を俺の背中に回して応えてくれた。
「ひぐっ……会いだがった……!! うぐ、会いたかったよおぉ!!! うああああぁぁぁ」
「我もだよ……お嬢」
べそをかいても、互いに抱きしめあっても、ここなら人目を気にする必要はない。
俺とグレィは、そのまましばらく……具体的には俺が泣き止むまで、抱かれ、抱きつきの時間を過ごした。
そうして俺がまともに話せるようになった頃。
「でも、何がどうして……それにお嬢、その姿は」
「ぐすん。あぁ、そっか……えっと」
グレィは俺がエルナでいることを選んだのを知らない。
七日目の朝、一人でメメローナの所に行って最後の選択をしたのだということを伝えると、グレィは再び、俺のことをぎゅっと抱きしめてきた。
「すまない……! 本当に、本当にすまない……ありがとう……!!」
「うん」
何故謝るのかと、一瞬だけ思った。
恐らくは、答えを出した日……グレィとの会話のせいで、俺が元の姿を捨てたのだと思ったからだろう。
だからこそ、すまないと言う中にありがとうが混ざりこむ。
グレィの為にこの姿を選んだんだと……だから、ありがとうと。
間違ってはいないが、これは俺のためでもあるのだ。
グレィが謝る必要はないし、むしろそのおかげで俺は満足する答えが出せた。
むしろこちらが感謝するべきだろう。
でも一度悲観的に見た事柄にお礼を言われて、彼は素直に受け取ってくれるだろうか。
そう思った俺は、一つ深呼吸をしてから、次の言葉に臨もうとした。
エルナとしての生を選んだ時に決めたこと……次グレィにあった時、己の口からしっかりと伝えようと思っていた言葉。
俺がグレィに感謝していると、一発でわかってもらえる言葉を出すために。
この絶好のチャンスを逃すまいと、俺は大きく息を吸った。
「ねえ、グレィ」
「……なんだい?」
「俺も、その……グレィのことが……好き!」
「――――!」
突然の告白に驚いたのか、俺を抱くグレィの手が少し緩まった。
そのまま離れて行ってしまうのではという不安に駆られ、身体が一瞬硬直してしまう。
だがそれでも、ここで伝えなければと……必死に全身を強張らせて、勢いのまま続けた。
「ずっと一緒に居たい! 主従の関係じゃなくて、ずっと……いつまでも、俺が死ぬ時まで、グレィの『隣』に居たい。きっとそれなら……グレィが言ってたように、笑顔でいられるから――だから!」
「お嬢!!」
「きゃっ!?」
離れかけた筋肉質な腕が、再び俺の体を引き寄せた。
先程よりもずっと強く、まるでこのまま潰されてしまうのではないかと思うくらいに、もう離さないと言わんばかりに。
あまりにも嬉しくて、俺も彼の胸板に思いっ切り体を押し付けた。
でもキリキリと秒を置くごとに強くなる圧迫感に、体の方が悲鳴を上げる。
「ちょ、痛い痛い」
「あっ……すまない! つい嬉しくて」
「ううん。俺もすごくうれしい……でね、グレィ。ひとつお願いがあるんだ」
「お願い?」
「きっと……きっと助けに行くから。その時。次にちゃんと、現実世界で会った時にね。その……今度はグレィのほうから、ちゃんと告白してほしいなって」
「――――!!!」
少し次の言葉までに間が開いた。
グレィの顔を見ると、口を半開きにして、目を見開いたまま、まるで時間が止まっているようだった。
しかしすぐにその顔は真剣なものにかわり、背中にあった逞しい両手はするすると移動して、俺のか細い両手を包み込む。
「ああ……! 絶対、絶対に告白する!!」
「約束だよ」
「ああ!!」
心なしか、グレィの声が震えている気がした。
俺もさっきから震えっぱなしなので人のことは言えないけれど……。
「信じて待ってる。次こそは絶対に離さない……お嬢の全部を受け入れて、隣に立って見せるから……迷惑をかける」
「! ――うん、まかせて」
最後に触れあっている手を指きりの型へ持ち替えて、グレィに返事を送る。
次に瞬きをすると、そこは再び真っ暗闇の、一人ぼっちの空間に逆戻りしていた。
一瞬体が震えてしまったが、そこに絶望や恐怖と言った感情はわいてこなかった。
それよりも俺は、指きりをした右手を左手で包み、胸元に押さえつけながら二つ誓った。
ひとつは、絶対に諦めないということ。
必ずグレィの元にたどり着いて、また一緒に笑える日が来るまではと。
そして二つ目は――自分自身を『受け入れる』こと。
グレィは言ってくれた。
俺の全てを受け入れて、隣に立っていてくれると。
それを聞いて分かったのだ。
賢者の試練二つ目――己の負に打ち勝つ。
その答えとは、何も乗り越えることだけじゃない。
例えどれほどおかしなものを抱えていようとも、それは他の誰でもなく、自分自身だ。
切り捨てるだけじゃ前には進めない。
人にはだれしも裏がある。そして裏があるからこそ、表が際立ち、人は美しくいられるのだ。
表だけじゃ成立しない。喜怒哀楽の『怒』も『哀』も、必要だから存在する。どちらが欠けても、人は人でなくなってしまうのだ。
だから俺は受け入れる。
怒りも憎しみも、すべてが俺の一部だと言うのなら、全てを受け入れて前に進む。
その先に大事な人が待っている――そして大事な人は、俺の何が欠けることも望んでいないから。
これが俺の、第二の試練に対する答えだ!
確信して、覚悟を決めて、先の見えない暗闇を見据える。
すると不意に、身体と瞼が重く感じられた。
閉じられた瞼を再び持ち上げてみると、そこには星々が煌めく、あのギャラクティカルな空間が目に入ってきた。
「――もどって、きた?」
「エルナ! よくやった、無事帰って来たね!」
「シーナさん」
倒れていたらしい体を持ち上げ、何やら余裕がなさそうなシーナさんを見る。
よくやったと言ってくれたということは、俺は無事試練を突破することができたようだが……どうもその表情が芳しくない。
「アリュシナ。何を悠長なことを言っておる……事態は最悪の一歩手前じゃぞ」
「わかってる」
「え……何?」
最悪の一歩手前。
シーナさんの少し後ろで構えているおじいさんが、まっすぐ前を指さしてそう言った。
俺はその指の指すものを見ようと、背後を振り向く。
そこには、うつぶせの状態からゆっくりと立ち上がる母さんの姿があった。
しかし様子がおかしい。
心なしか全体が光を帯びているようにも見えるが……。
「エルナ、よく聞きな……最後の試練は予定変更だ」
「え?」
シーナさんがそう言って、ぽんと俺の肩をたたく。
「負の人格に落ちちまったメロディアを救いだせ。……それが、あんたに課す最後の試練だよ!」