5:18「ぬくもり」
予告通り、前話のグレィ視点です。
あれからどれほどの時が過ぎたのだろう。
我はお嬢の形をした何者かと、我が従えていたはずの幻獣たちによって、何度も何度も重傷と再生を繰り返した。
永遠に終わらない、拷問にも等しい生き地獄。
いや、今が生きているのかどうかすらわからない。
殴られ、蹴られ、炙られ。
斬られ、潰され、燃やされ。
傷付き、治り、また傷付き。
もはや痛覚など機能していない。
あるのはただただ、閉じることのできない目に焼き付く恐怖のみ。
だがそんな地獄の時は、ある時突然幕を閉じた。
もう何百回目かわからない。もしかしたら千を超えているかもしれない。
数えるのも、意識することすらも恐怖にしかならない治癒の後。
お嬢の形をした少女がパチンと手を鳴らすと、幻獣たちがその動きを止めた。
「時間切れだ。そろそろ帰る時間だよ、グレィ」
「…………ぇ」
「だが君の罪が消えることは無い。次に死んだら、今度こそ完全に壊れるかもね」
少女が言葉を言い終えると、目を閉じたわけでもないというのに、視界がフッと暗闇に飲まれた。
意味不明な暴行の繰り返し。
そして最後には意味不明な言葉を残され、真っ暗闇に落とされた。
恐怖に飲まれていた感情が、視界の暗転によってより一層深く飲み込まれていく。
深く、深く。
まるで底なし沼にはまってしまったかのように。
息を吸うことすらままならない。
もがく気力もない。
どこまでも、いつまでも。
変わることのない暗闇が、何も感じなくなった体を深く包み込んでいく。
だがしかし。
溺れ、沈みゆくだけの体に、ふと違和感を感じた瞬間があった。
左手に、微かにではあるが、確かに感じることができた熱。
恐怖に染まり薄れつつあった自我が、一筋の光にすがるかのように。無意識のうちに左手へと集中する。
すると不意に、失われていた五感の一つ――触感が帰って来た。
体が重く、背中に圧迫感を伴う感覚に見舞われた。
次に、視界を覆っていた暗闇が晴れた。
そして次の瞬間には、聞き覚えのある声が聴こえた。
我を呼ぶ声。
そのうちの一つは、先ほどまで散々聞いていたものと同一だった。
光に縋ったはずの自我が、再び恐怖に侵食され始める。
未だはっきりとはしない視界の左側。
そこに見えてしまったのは、見慣れたはずのライムグリーンの髪。
「――ヒィッ!?」
恐怖と絶望に染まり切った、短い悲鳴が喉から響き出た。
しかし体は思うように動かない。
微かに動く表情筋が、ただ声と同じ感情を示すのみだった。
何か他にも声がするが、そんなものは聞きたくない。
元よりはっきりとは聞き取れないがどうでもいい。
耳を塞ぎたい。
何もかもを塞いで、暗闇の中に沈んだ方がマシだ。
光はもういらない。
孤独でもいい。
どうか、お願いだから……これ以上、恐怖に身を焼かれるのはもう嫌だ。
ただただ、何も感じない場所へ、我を連れて行ってくれ……。
切に願った瞬間だった。
背中の圧迫とは別に、何かが上から覆いかぶさってきた。
それが何者なのかはすぐにわかった。
わかった途端に、動かなかった体が微かに動いた。
逃がすまいとしてくるそれに、再び捕まるまいと抗った。
しかし――。
「おねがい……いかないで……」
声が聴こえた。
今度ははっきりと。
その声は散々聞いた、恐怖の象徴の声だった。
そして同時に、大事な……ずっと聞いていたい、優しい声だった。
優しく、温もりに満ちた――そして、恐怖にも満ちた声だった。
「……お嬢……」
自然に口が動いていた。
己の恐怖をかなぐり捨て、彼女の恐怖を取り除かなければならない。
本能がそう告げていた。
そのためならば、体が自由に動く気がした。
試しに片手を動かしてみると、するすると、思うままに目的地へと向かって行った。
もう片方の手も、迷うことなく動いてくれた。
次第に体の感覚も正常に戻ってきたが、逃げ出そうとは思わなかった。
それどころか、こうして抱き合っているだけで恐怖心が洗い流され、ずっとこうしていたいとさえ思えてくる。
体を覆うぬくもりが、忘れていた感情を呼び起こしてくれた。
そうだ、怖くなんかない。
暖かい。
ここにいるのは、我を貶めた恐怖の象徴なんかじゃあない。
命を賭してでも守りたい、この感触は――。
「あぁ。紛れもない……『本物』だ」
「グレィ……?」
「もう大丈夫。心配かけたな、お嬢――ただいま」
「……ばかあぁぁ」
ただいまの返事がバカとは。
まあ、仕方ないか……それほどに心配だったのだろう。
心配してくれていたのだろう。
本当に、一時はどうなるかと思った。
今思えば、あの地獄は我に対する断罪の場だったのかもしれない。
生き返るという事は転生とは大きく違い、それだけで世界の環を乱す大罪だ。
故意的な転生も問題ではあるが、それはまだ魂が循環しているだけ罪が軽いと言える。
【王の声】を受けた者たちは、死ぬたびに心に……魂に損傷を負い、やがて動かぬでくの坊となり果てるのだろう。
我とてその例にもれず、あと一歩で物言わぬ体になっていたに違いない。
九死に一生を得たのは、お嬢が絶対に放すまいと呼びかけてくれたおかげだ。
愛する人の心からの声が、我の魂を救ってくれたのだ。
我が主にして、最愛の人。
これからお嬢は、元の体に戻るのだろう。
それはつまり、我の恋路の行き止まりをも意味することだ。
だが例えどんな道を進もうと、我はお嬢が生きている限り、その道を共に行こう。
呪いなど関係ない。
姿かたちが変わろうとも、我は……グラドーラン・テ・シャルレーナは、お嬢を愛している。
この思いだけは、本物であるから。
この世に生を取り戻し、改めて心に刻んだ決意。
どこまでも共に行こうと、その意を表面化するように、無意識にお嬢を抱く手に力が入る。
「ぐすっ……おかえり……」
この後しばらくするまで、我とお嬢はじっと体を寄せ合っていた。