1:9 「一週間が経ちまして」
『グース文字』の勉強を始めてから一週間が経った。
朝は日が昇るギリギリの五時頃に起床。
朝食の八時までは基本的に空いている部屋を使い自習。
朝食後は、特に用事がなければ夕方までファルに教えを請いながら、たまに母さんを呼んだりもして勉強に励む。
そして夕食後、入浴を済ませてから二時間ほど自習をしたのち、夜十時には就寝。
我ながらよく続いていると思う。
その甲斐あってか、五日後にはグース文字はほぼ完ぺきに扱えるようになっていた。
まあ、母さんはミァさんの言っていた通り二日目には『エルフ文字』もマスターしてしまったのだが……。
それでもわずか五日で一つの言語を覚えてしまうということはとんでもないことだ。正直なところ、こんなところで自分が人間を辞めていることをひしひしと実感してしまった。
しかしそれでも前世で英語という教科を苦手科目としていた身としては、夢でも見てるんじゃないかと何度も頬をつねってしまったのだ。
……そして昨日、一連の振り返りとして200問のテストを受け――見事満点を収めた答案用紙が、今俺の白い手の内にある。
「すごいですエルナさん! 僕『日本語』覚えるのに3年かかったんですよ!」
「ありがと……う? え? 日本語?」
「はい、日本語です。母国語なんですよね? 義父さんやエルナさんの」
うーん? 今とんでもない爆弾発言しましたねこの子。
日本語が使えるですって?
「は、初耳なんだけど……ファルが日本語使えるとか」
「え? あ、言ってませんでしたっけ」
「言ってない言ってない……〝に〟の字も聞いたことない。それどころか、俺らの素性を知っている風な感じすら一言も……」
「あれ、そうでしたっけ……」
「そうですー……」
いつ聞いたかとかはまあどうでもいいことだ。素性が知れてる方がこちらとしては動きやすいし、損はないだろう。
それよりもファルが日本語を扱えるということは、もちろん教えたのは親父なわけで……そっちの方が大丈夫なのだろうか。すごく心配だ。
まあ、まず使うことは無いだろうからいらぬ心配ではあると思うが。
「……あ、ファルが使えるってことはもしかしてミァさんも?」
「あ、はい。あの人すごいんですよ! この世界で使われている言語は大きく分けて『グース』『ビット』『アルマ』『エルフ』『ヒィムル』の五つなんですが、そのすべてを網羅した上、日本語も一年でマスターしてしまったんです!」
「ほ……ほぉ……」
うーん、イマイチどのくらいすごいのかが分からない……いや、すごいんだけど、すごいんだけども……。
この体のおかげかグース文字は五日で覚えてしまったし、他のはまだ知らないし……でも日本語一年と三年は素直にすごいと思う。
「あ! でもエルナさんはグース文字五日で覚えちゃいましたもんね……」
「いやいや! これはほとんどこの体のおかげだし! すごいと思うよ! ホントに! うん!! 俺らの世界じゃ、日本語は世界一難しい言語とか言われてたんだぜ! それを三年だ、ファルも十分だって!!」
「そ……そうですか?」
「そうそう!!」
「……ありがとうございます」
そう言うファルの顔が心なしか赤く染まった気がする。
まあ、誰しも褒められたらうれしいものだ。
実際本当にすごいのだから、もっと誇っていい。
うーん……だがしかし、それをわかりやすく表現するためにはどうしたらいいものか……。
―――ガチャ。
「エルちゃんファル君入るわよぉー」
俺の思考を遮るようにして、母さんが突然勉強部屋に入ってきた。
「……母さん、それ入ってから言うのやめよう? せめてノックくらいしよう?」
「まーまーエルちゃん、そんなこと言わないで―。おうちの中なんだしぃ」
「いや最低限のマナーだと思いますけど!?」
本当俺の母親はなぜこうもマイペースなのか……ファルは「ははははは」と笑って流しているものの、そのうち耐えかねてぷっつんしないかと心配になってしまう。
こういう普段温厚な人ほど怒ると恐ろしいとは昔からよく言われているのだから、気を付けてほしい限りである。
「そんなことよりエルちゃん、町にショッピングに行きましょ!」
「……………… はぃ!?」
今なんて?
「ショッピングよショッピング! お買い物!」
「いやいや何故今それを言う!?」
お勉強中!! 見てわかりませんか!?
さすがにそこまで空気の読めない人だとは思いたくないんですけど!?
……いや、十分空気は読めてないけれども。
「お父さんから聞いたのよー、グース文字覚えたってぇー。今なら字読めるでしょー?」
「いやだからって……俺、まだエルフ文字の方は全く手着けてないし……」
「そのくらいでしたら、大丈夫だと思いますよ。たまには息抜きも必要でしょうし」
「ほら! ファルだってこう…………ふぇ?」
ファ、ファル君?
聞き間違いかな? 行って来いという旨の言葉が聞こえたような……。
俺が疑いの目をファルに向けると、ファルはニッコリと笑顔を見せて頷いて見せる。
うん、これは聞き間違いじゃない。なんということだ。
「ファル君もこー言ってるしー、ね! 行きましょうよぉー」
「ぐ……ぐぬぬ……」
「あまり根を詰めすぎるのも体によくありません。元々想定の何倍も早く進んでいますから、今日くらいゆっくり羽を休めてください」
「そーよー。エルちゃんお洋服も全然持ってないじゃない? わたし、娘と一緒にショッピングするの夢だったのよぉー♪」
本命はそっちかぁ……!!
まあ、確かに母さんのお古とファメールで譲ってもらった一着しかないし、もっと〝まとも〟なものが欲しいというのは一理ある。
それにこの様子だと絶対断れそうにないし……ファルの言う通り、この一週間勉強ばっかりだったからなぁ……致し方なし、か。
「はぁ……わかったよ。行けばいいんだろー」
「わーーい♡」
「では、僕はお先に失礼します。エルナさん、せっかくですから、楽しんで来てくださいね」
「え……あ、う、うん……ありがとぅ」
楽しむ……か。まあ、努力はしよう……楽しむ努力ってなんだよとは思うが。
しかしそうと決まれば流石に今のまま外に出るわけにもいかない。
どうせ出ないだろうと思って、髪以外(最低限梳かしておかないと母さんがうるさい)は割と適当に済ませてしまっている。
「俺も準備してくるから、庭で待ってて」
「はーい♪」
そう言い残し、俺は自分の部屋へと一度戻っていく。
髪を梳かし直し、ヘアピンで両サイドを留め、一応唇にリップくらいは塗っておく。
こうして鏡と向き合うたびに思うのだが、いつ母さんの口から『お化粧』という言葉が飛びだしてくるか割とビクビクしている。
衣類くらいは甘んじて受け入れているが、流石にそこまでするほど心変わりはしちゃいない。
「……せめて、何か羽織ってくか」
衣類―――今の服装はレースの入ったノースリーブの白ワンピ。
もうそろそろお気づきかと思うが、ワンピースばっかりだ。
というのも、実際に母さんの趣味がそれなのだから仕方がないのだが。
「んー……これでいいか。多分、これくらいなら着れるだろ」
クローゼットを開け、俺が取り出したのはデニムジャケット。
中学生だかの頃に買ってからそのままにしてあったので、サイズ的には結構丁度いい感じに見えなくもない。
俺は早速それを羽織り、姿見でチェックしてみる。
「さ、流石にメンズだな……。でもまあ、これはこれで」
悪くない。
少なくとも、変な風には見えない程度のはずだ。
母さんのお古だけじゃなく、今持っているもののありあわせで何かコーディネートしてみるのも案外楽しいかもしれない。
もちろん、客観的に見て楽しむ程度のものだ。
俺自身がオシャレをしたいとか、決してそんなことではない。
わざわざ女物を買って組み合わせを考えるなどもってのほかである。
「……と、もう結構経ってるな。そろそろ行かないと」
あまり待たせるのもまた変なことを言われそうで怖い。
一週間ぶりのファメールの町……文字が読めるようになって、きっと今までとは見え方も各段に変わってくるだろう。
なんだかんだその辺を少し楽しみに思いながら、俺は母さんの待つ庭へと繰り出して行った。
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