4:25「老賢の戯言 1」
「だ、誰……?」
「む? どうかしたか?」
腰のあたりで折り返しうなじの辺りで結い、それでも立ち上がると地面についてしまうのではなかろうかというほどに長い髪をなびかせるエルフの女性は、何事もないかのように疑問の表情を俺に向ける。
しかし次の言葉を口にしようとしたところで、俺はそれを出さずに飲み込んだ。
瞬きした次の瞬間には、そのエルフがいた場所に元の獣人のおばあさんが腰掛けていたのだ。
「あ、あれ……見間違いかな」
「ああなんじゃ、『視えた』のか」
「え?」
「おぬしが見たのはこの姿じゃろう?」
そう言っておばあさんが指を鳴らすと、今度は瞬く間もなく彼女の姿が先のエルフへと変貌した。
美しいと言う言葉を体現したような美女と、何の特徴もない獣人の老婆と言うギャップのありすぎる光景に俺の頭はついて行けず、全く状況を飲み込めない。
「い、一体どういう……」
「簡単な話よ、エルフが本当の姿じゃ。獣人の方は隠居するために魔法で見繕った幻じゃて」
「隠居って……ますますわかんないし……」
「ああもう! 口より手じゃ、おぬしの場合そっちのが早い!」
「えっ? ちょ――!」
おばあさん?が強引に俺の手を取った矢先。
瞬きよりも早い……本当に一瞬の間に、数百もしくは数千年もの時を見て来たかのような、摩訶不思議と言わざる負えない感覚に襲われた。
記憶にとどめておくにはあまりにも短すぎる時間。しかし確実に言えるのは、これは目の前にいる女性が今まで見てきた光景――記憶その物であること。
俺は過去に、これとよく似たことを経験していた。
それは、あのルーイエの里で執り行った樹霊の儀……神樹さまの中の人の記憶を見た時と、全く同じものだったのだ。
「賢者……? まさか……」
「エルナ――聞き覚えがあると思っておったが、やはりおぬしがそうであったか。あやつとはちょっと違うが似たようなもんじゃ。わしの名は『アリュシナ』、むかーしむかーしのそのたまむかーしは、それなりに名の知れた賢者だった者じゃ。今は『シーナ』と言う名で通しておる」
「アリュ……シナ……」
彼女の言葉からして。神樹さまと知り合いなのか。
それに俺を知っているようなセリフ……神樹さまはあそこから動けないはずだし、俺たちが去ってからルーイエの里でコンタクトを取ったのか、はたまた精霊が教えてくれたのか……それとも何か別の連絡手段でもあるのか。
いずれにせよ謎が深まるばかりだ。
「おっと、シーナで頼むわい。しかし意外とリアクション薄いのう……まあ、そんな状態じゃあ無理もないかの」
俺の反応に不満を漏らすおばあさんもといシーナさん。
お生憎様だが今の俺にそんな元気はない。無論それが分かっている上での言葉だが……分かっているということは、神樹さまの時同様に俺の記憶も見られたということになる。
つまりは俺が元々は男であることも、彼のデートの後からこうなっていることも、既にシーナさんには筒抜けになっているということだ。
まさに口で言うより早い……彼女の思惑通りと言ったところだろうか。
「…………」
「ほれ、言うてみい。記憶を覗けても、言葉でしか伝わらんことはいくらでもあるんじゃ」
早くしろと急かしてくるシーナさんに、俺は曲げた膝を腕で抱え込み、体育座りになっている膝の隙間へ顔をうずめる。
知られてしまったとは言え、自分の口からこれを吐き出すのはかなり勇気のいることだ。
一度視界を暗闇に閉ざした俺は、覚悟を決めるとともに少しだけ顔を浮かせ、伝わるかもわからない己の感情を口にした。
「……わかんなくなっちゃったんです。自分が、本当は誰なのか……男なのか、女なのか。恵月なのか、それともエルナなのか」
「ふむ……?」
「心だけはまだ男のつもりでいたのに、そう在りたかったはずなのに……あのデートの後から、もう頭の中ぐちゃぐちゃで……考えれば考えるほど……自分が、わけ……わかんなくて……グズ」
「…………」
言葉に釣られるかのようにじわじわと熱くなって行く目頭から、とうとう一筋の涙が零れ落ちた。
シーナさんは真剣に聞いてくれているように見えるが、その表情は少し曇っているようにも見える。
当たり前と言えば当たり前だ。こんな感情、普通の人だったら絶対に体験することのないものなのだから。
「やっぱり、わかりっこないですよ……赤の他人に、この気持ちは――」
「確かに。軽率に分かるなどと言っていい代物じゃないの――じゃが、自分が自分で無くなると言う感覚なら、多少覚えはある」
わかりっこない。
そう言った直後に、シーナさんは迷わずに言葉を返してくる。
俺は少し驚いて彼女の顔を見ると、そのまま口を動かす姿にそっと耳を傾けた。
「厳密にいえば、それも少々違うとは思うがの。おぬしにとっては生来の『臣稿 恵月』という人間の人格も、この世での『エルナ・レディレーク』というハーフエルフの人格も、どちらも〝おぬしその者〟じゃ。自分でなくなるという表現は正しくはないじゃろう……だからこれから言うことは、隠居したババアの戯言ととらえてもらって構わん」
「……お願い、します」
シーナさんの姿が、いつの間にかまた獣人の老婆に戻っていた。
俺は優しく微笑みかけてくる彼女から逃げるように目を離しながらも、その戯言に意識を集中させた。
「己が己でなくなる……何なのかわからなくなるというのは、本当に苦しい物じゃ。苦しいし、何より恐ろしい――先の未来だけでなく、今がわからんくなるというのは、ある意味死ぬより辛いことじゃろう。並の精神では、耐えきれずに狂っちまう事もある」
「…………」
「しかしだからと言って、先におぬしが言った通り分かりっこない……同情のしようがない感情故、早々他人に相談できるものでもない。おぬしの悩みなら余計にそうなるじゃろう。それゆえ独りで抱え込み、ますます堂々巡りに陥っていく」
「……そうですけど、少し……違います」
相談なんてできるわけがない。
したらしたで、母さんや親父はきっと真剣に向き合ってくれるだろう。こんな時に茶化したりしないことは、散々一緒に暮らしてきた俺が一番わかってる。
それでもしないのは、結論が分かりきってるからでもあるのだ。
どちらが本当の俺なのかわからない――その答えはシーナさんも既に出している。
どちらも自分……恵月もエルナも、どちらも紛れもない俺自身で、偽者なんてどこにもない。それが全てだ。
両親はきっと、その『今の俺』を受け入れてくれるだろう。
でも、当の俺にそれを受け入れる余裕がないのだ。
余裕と覚悟ができていないから、どうすればいいのか分からなくなってしまっているのだ。
受け入れたくないから、他の何かを探そうと考え、しかし考えるほどに、昔の自分と今の自分とのギャップに苦しんでしまう。
人は変わるものだと分かっていながら、変わっていく自分が分からなくなる。
変わるのが怖いから、せめてどちらかを選ぼうとして、結論の出ない堂々巡りに陥っていく。
「俺は……私は……」
膝の内に顔をうずめ込み、溢れ出ようとする涙をこらえた。
全身を強張らせ、袖を掴んだ手をぎゅっと握りしめて、歯を食いしばる。
涙に逃げようとする体を必死に抑え込み、それでも一筋の雫が伝っていく。
そうしてもう何度目かもわからない暗闇に飲まれそうになった時。
不意に頭の上に何かが乗っているのを感じた。
顔を起こしてみると、それはシーナさんの……アリュシナさんの、年を感じさせない白く綺麗な手だった。
シーナさんは手を俺の肩までもっていくと、そのまま抱き寄せるように……そして、その優しい表情を俺に向けながら言葉を紡いだ。
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