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梅香馥郁

作者: あやちょこ

他のサイトのイベント「感染」用に書いた作品です。




「鳥屋につく」

鷹の羽が夏の末に抜け落ち、冬毛に変わる前の時期をいう。

江戸時代、吉原では梅毒にかかって毛が抜け落ちてしまった状態をこう呼んだと言われている。



*****


なあ、さくら。


見てごらん。


鳥屋とやを超えたら一人前なんてさぁ、言うけども、そんなの嘘だ。


大嘘だ。


一旦治ったと見せかけて、恐ろしい病を体に隠し持ってるんだとよ。



あれになれば子供が生まれねぇって重宝がられるけど、そりゃあ赤子だってよ、病の所にゃ寄りつきゃしないのさ。


この間死んだ紫だって、鳥屋について、回復して来た女だ。



ほら、部屋を覗いてごらん。


明里あけさとが苦しんでるよ。


髪まで落ちちまって可哀想だ。



だけどよ、やっとの思いで元気になったと思っても、数年したらもっとひどい目に遭うんだ。


鼻が溶けたり、肌が恐ろしくただれたり、酷いもんは頭もどーにかしちまって、んで死ぬのさ。



あれは病だ、人から人へうつる。


だからよ、本当に好いたお人には、決して吉原の女を抱いちゃならんと教えるんだ、わかったか?


夜鷹もだめ、そう言う女を抱いちゃならんと教えるんだ。


なあ、さくら。



*****


朝雲あさぐもは、浅い眠りの中、自分がまださくらと呼ばれていた頃の出来事を夢に見ていた。


話して居たのは、渡来人の血を半分引いた、美しい人だった。


もうその人も亡い。



そして自分の身体に巣食っているであろう病を思うと、寝ていても汗がびっしょりと出て来るのだった。



鳥屋とやはこの世の地獄だった。


朝雲は自分が駆け出しの遊女だった頃、鳥屋に入った。


体中に出来た発疹、どこもかしこも痛み、気が狂いそうだった。


いや、狂ってしまえば楽なのにとすら思った。



しかし、どの女も鳥屋から一旦は出て来るのだ。


朝雲も例外ではなく、この世の地獄を味わってから、戻って来た。



このまま病が大人しくしてれば、年季が明けて、それなりに穏やかに暮らせるやもしれない。


いつか、この吉原を出て、唄なんざ教えながら生きていけるかもしれない。



朝雲の夢は小さくて、しかし遊女なら誰でも抱くような夢だった。





見世にある風呂から出て来ると、風呂番の茂吉と目が合った。


「なんだい?」


下ろしたままの髪をひねって、朝雲は片方の肩へと乗せた。


「いや……別になにも」


ぶっきらぼうの茂吉は自分から目を合わせたくせに、顔を背けて口元を着物の袖で拭う。



茂吉の頬は、火を焚いた時に付いた炭で、うっすらと汚れているのが朝雲にも見て取れた。


そこに額から玉のような汗が滲んで線を引いた様につうっと滑り落ちていく。



「わっちに気でもあるのかしら?」


朝雲が視線を茂吉に流して言うと、茂吉はキッと朝雲を睨みつけた。


「廓言葉なんて、使わんでください!」


「だって、あんたが顔を逸らすから」



茂吉の肌は汚れていても若々しくぴんと張っていて、汗が滑る様もなんとも勢いがあるように感じた。



毎日、朝雲が風呂から出て来ると茂吉がここで待って居た。


それは若い茂吉の恋慕だと言うことは、大体女達には見当がついていた。



風呂上がりの着崩した着物と、使った手拭いを両手で上に上げてしゃりしゃりと歩くと、茂吉の前を半歩通り過ぎてから、顔だけで振り返る。


「おいでよ、お稲荷さんに一緒にお参りしようじゃないか」


返事を待たずに再び朝雲は下駄を鳴らして歩いて行く。



お稲荷さんと言っても、見世の敷地にある、小さな稲荷神社のていをした、社の事だった。



朝雲はまだ吉原に来る前に、それはそれは立派な稲荷神社を参ったことがあった。


あれは5つの頃だったろうか。


大八車で野菜を運ぶ親に連れられて、町へ出かけた帰り、通りがかった道にあった、立派な稲荷神社だった。


普段は忙しくて構ってはくれない父が、その日は何を思ったか、寄って行こうと朝雲の手を引いて行った。


大きな赤の門をくぐって、立派なお社を拝んだ時に見た、左右に控えるお狐さんが、つんと澄ましていて、なんだか心がときめいたのを覚えている。



ここの狐は小さくて、しかも子供のように柔らかい表情をしている。


お社だって、土台こそ立派だが、手を入れたらそれでおしまいの、小さなものだった。



朝雲はお稲荷さんの横にある、梅の木を見上げながら、後からついて来た茂吉を待った。


青々と葉を繁らせた梅の木に、茶色の雀が数羽止まっている。


見ればまだ小さく、子供の様だった。


ちゅんちゅんとさえずって横に移動しては、木から木へと飛び移ったりしている。



背後に茂吉がやって来たのを感じ、朝雲は口を開く。


雀たちを驚かせない程度に声音を抑えて、囁く。


「子雀かねぇ。可愛いもんだ。ここらでちょいと練習して、いつか飛んでいっちまうんだろうけど」


朝の日は見上げているのには少々眩しくて、朝雲は目を細めて、鳥たちを眺めていた。


「雀たちは自由なもんで」


「そうだねぇ。羨ましいことだ。でも、五穀豊穣の神様であるお稲荷さん達からすれば、憎き相手なんだろうよ。せっかくの穀物を食い荒らすんだからねぇ」


「確かに」



二人は暫く雀たちを見上げ、そして雀の方が呆れてしまってどこかに身を隠してしまった。



仕方なく、朝雲は顔を戻して、社の方を向く。


参ったら、また互いの住む場所に戻らなくてはならない。


朝雲は男たちの元へ。


茂吉は仕事が終れば、吉原から出て町へと戻る。



二人は黙ったまま社の方に体を向けて、手を合わせる。



「茂吉さんさ」


「はい」


「あんた、そろそろ嫁でも貰っちゃどうだい?」



手を合わせ、目まで閉じたまま、朝雲は言う。


茂吉は答えない。



二人の元に誰が弾くのか、三味線の物悲しい音が届いて来る。


その間をぬうようにして、雀がまだちゅんちゅんと声を上げている。



「それを俺に言うんですか……」


「うん、何度だって言う。あんたが馬鹿なことをしでかさないようにさ」


「馬鹿なことってなんですか」


朝雲は手を合わせたままゆっくりと瞼を上げていく。



「遊女に手を出すことだよ。絶対にそれだけはやっちゃいけない」


毅然と言いきった朝雲は、ゆるりと振り返って茂吉の目を見つめた。


「恋はいい。だけど、手は出したらいけない。うまい果実には毒があるっていうじゃないか。絶対にいけないよ」


「俺が欲しいのは一つだけだ」


茂吉の瞳は怒っているようでもあり、嘆いているようでもあった。


ぶつかり合う視線を朝雲は逸らしはしなかった。


けれど、言う。



「その果実、手に入らないから欲しいってことはないのかい?」



雀がバタバタと羽ばたいて、地面に下りて来た。


ぴょんぴょんと跳ねて、地面に落ちた青梅を弄んでは、移動している。



「……さぁ、一度だって食わしちゃくれねぇでしょ。あんたは」


「当たり前だ、毒なのに、食べさせる訳ないじゃないか」



二人を沈黙が包み、雀たちが空気を読まずに声を上げながら寄ってくる。



茂吉は言う。


「例え、毒だろうと食いてぇ気持ちに変わりはねぇんで」


しかし、朝雲は首を振る。


「毒だと分かっていて、食わせる馬鹿がどこに居るっていうんだい」


「他の男に食わせるじゃねぇですか」


間髪入れずに朝雲は答える。


「死んでも構わない男になら、ね」



朝雲は着物と一緒に掴んでいた手拭いを見下ろすと、それを掴んで茂吉の顔へ持って行く。


そして、未だに滲んでいる汗をそっと拭ってやった。



「あんたさ、私のお願いを一個、聞いてやくれないかい?」


朝雲の手は汗を拭ってもまだ、名残惜しそうに茂吉の頬から首に留まって止まっていた。


茂吉はため息に似た息を吐いて「なんですか」と返す。


朝雲は自分の手を、茂吉の首を見つめたまま、「あんたの子供にさ、私の名前を付けちゃくれないか? 朝雲じゃないよ、さくらの方だ」とぼそぼそと伝える。


茂吉は朝雲の手首を掴んで問い返す。


「あんたと俺の子か?」


朝雲ははっと吐き出すように笑った。


「それはないって言ってるだろう。あんたには生きててほしいんだ。だから、食わせるわけにはいかないんだよ」


朝雲は茂吉の手から自分の手をひどく時間をかけて抜いて行った。


そして、ふうっと優しく微笑んだ。


「あんたは町の娘と子をなして、立派に育てておくれよ。私はもう、毒に侵されて子供なんか持てぬ体になっちまったんだよ。だから……あんたは子をなして、もしも女の子だったらさ」


まだ足元で遊ぶ雀に視線を投げる。


「私の名前を付けてさ、私が見れなかったものをいっぱい見せてやっておくれよ。あんたみたいな男ならきっと出来るだろ?」


「俺の願いを一回たりとも叶えちゃくれねぇで、それであんたの願いは聞いてくれって言うのかい?」


「……そうだよ。私はわがままな女だからね」


朝雲はそう言い残すと、足を前に出す。


数歩歩みを進めた所で足を止めて「あんたの想いに私はとことん染められちまった。本当はちっぽけな夢しか持っちゃいなかったのに……。あんたなら、私を自由にしてくれるんじゃないかって思っちまったよ」そして再び歩き出す。


「一緒に、吉原を出たいってことなら……」


茂吉の言葉に朝雲は振り返ることはなかった。


ただ前を見て、視線だけ空を彷徨わせ、塀の無い空を見ながら歩き去って行った。




あれから、茂吉とは努めて言葉を交わさぬようにしてきた。


茂吉の気持ちは朝雲の眠っていた心を起こすから、怖くなって、接することを自ら禁じた。



そんな矢先、朝雲は自分の手の甲に大きなしこりのようなものが浮かび上がって来たのを見つけた。


それは日に日に成長して行く。


朝雲はこれとそっくりなしこりを見たことがあった。


明里の体にも無数のこれが出来ていて、恐ろしい見た目になったと思ったら、次第に訳の分からぬことを口にするようになり、明里はとうとう窓もない様な狭い部屋に押し込められた。


その後は、決して覗いてはいけぬ地獄の沙汰。


障子戸と障子戸の合間からこっそり盗み見た朝雲は、あの時、余りの恐ろしさに吐き気すら覚えた。



毒に侵された果実は、なんと醜く腐るのか。


恐ろしい形に溶けて、流れて、じわじわと形を失っていく。



朝雲は自分のしこりを見て、恐ろしくなり、かたかたと震え出す。


私も、明里ねえさんのように死んでいくのか。


頭の髄まで侵されて、自分が何者だか分からなくなっても、痛みに呻いて死んでいくのか。



確かに私たちは病に侵されている。


治ったように見せかけて、皆毒を体内に隠し持っている。



私はこれからどんどん朽ちていく。


醜いばかりの果実に成り下がる。



遊女の最高位、大夫にはとうとうなれなかったが、次位の格子の中でも、売れっ子だった私が、窓もない部屋で死臭を放って溶けていく。


それを……



朝雲は茂吉の顔を思い出して、思わず「ううっ」と声が漏れて口を抑える。


酷い姿を茂吉に見られるのかと思ったら、声が漏れた。


ぽたぽたと涙があふれて畳を濡らす。


濡れた畳は乾く間もなく次の水滴を受けて、シミのようになっていった。



一度でも茂吉の願いを叶えてやっていたら、私の願いを叶えてくれただろうか。


でもそれじゃあ、茂吉まで毒されてしまう……



茂吉の気持ちはいとも簡単に私を染めあげた。


恋なんて知りたくもなかったし、知ることもないと思っていたのに。



それが辛くもあり甘くもあった。



あんただけは毒されずに生き抜いておくれ。



朝雲は火鉢に刺さる、金で出来たひっかき棒を手にし、それをすうっと引き抜いた。


すくっと立つと、尖ったひっかき棒からパラパラと灰が落ちていく。


その灰は点々と部屋の外へ向かい、かつて茂吉と手を合わせたお稲荷さんの前まで続いていく。




茂吉はその光景を見ても涙することはなかった。


ただ茫然と喉に棒を刺したまま地面に突っ伏す朝雲の姿を見つめていた。



茂吉も吉原で働いて数年経つ。


遊女の死体はさほど珍しくない。


毎回、なんとも言えない気持ちになったが泣くことは一度たりともなかった。



でも今回、涙が出なかったのは今までのそれとは違っていた。



朝雲のすぐ横にある梅の木に、今日も呑気に雀が止まって跳ねている。


茂吉は雀を見て、思う。


飛んで行ってしまったのだと。



朝雲がこだわった毒から解放されて飛んで行ってしまった。



どうせなら、一緒に毒されたいと思っていた。


でも朝雲が死んだ今、何となく朝雲の気持ちが分かった気がした。


元気に生きていてほしい。


好いた相手には。



茂吉は一人、決心する。


朝雲の願いを受け取って、自分の子に託そう。


毒の脅威から解放された朝雲の魂を我が子に託そう。



毒を貰うよりずっとずっと大事な何かを託されたような気がして、茂吉は奥歯を噛みしめて、大空へ飛び立った雀を見上げていた。


茂吉の鼻腔に仄かに甘い、梅の香りが届いている。













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