第四頁
その時二人は無言のまま、それぞれの顔を凝視していた。
「…………」
先程の危機から自分を救ってくれた少年の顔を見て、すっかり言葉を失ってしまった光。
その顔の様子は、光のそれとは全く異なったものだった。茶色い体毛に覆われた肌に据えられている、目、耳、鼻、口、そして彼の顔を包む鮮やかな鬣……。人間とは大きくかけ離れた出来ばえから推測し、光は自分でも見覚えのある動物に似ていると感じた。
(その顔って……ライオン……!)
対する少年はというと、こちらもかなり不思議そうに光の顔を見つめていた。
「お、お前……」
光がライオンに似ていると感じたその顔に、止め処なく溢れ続ける汗。その表情はまるで、新種の動植物や未知の古代遺跡を発見したかのような驚愕に包まれたものだった。
「まさか……お前が……!?」
そう呟くと、少年はいきなり光の目前まで近寄ってきた。
「ひっ!?」
彼の突然の行動に、思わず自分が出した事もないような甲高い悲鳴を上げてしまう光。そんな彼に対し、はっきりとした明るい声で、少年はこんな質問をぶつけてくる。
「お前、“あっちの世界”の人間か!?」
「…………えっ?」
突然奇怪な質問を食らわされ、どう答えればいいのか分からないままの光。そんな彼に対し、少年はもう一度質問を投げかける。
「だから、お前は“あっち”の人間なのかって聞いてんの」
少年は、自分からしてみれば先程よりももっと丁寧に問いかけたはずだと言わんばかりの表情で光を見つめる。それでも光は未だにこの状況が飲み込めていないままであった。
「えっちょっ、ど、どういう事なの……?」
「だーかーらーなー……そうだ!」
何か思いついたように笑顔を見せつける少年。
「じゃあさ、お前オレに見せてくれよ、“あれ”を」
今度は質問するのではなく、要求するという方針に切り替えた。どうやらこれが彼の思いつきだったようだ。
「えっ?“あれ”って……」
「ほら、“あれ”だよ。その……」
少年は両手の人差し指を使って、その場に一つの長方形を描いてみせる。
「ちょうどこのくらいの大きさで、赤い文字が刻まれた……」
その情報は決して詳細なものではなかった。しかし……、
(それって、まさか……)
光には覚えがあった、少年が伝えようとしている“あれ”に関しての。
(確か家を出る時一緒に持ってきたはずなんだけど……)
早速身体中を手当たり次第に確認し始める光。ところが……、
(あ、あれ?どこにもない…)
身体のどこに触れても、どうしてもそれが見当たらない。徐々に焦りを感じてくる光。
その時だった。
「……あっ!」
光は自らの足元の砂に少々埋もれかけている“何か”を発見した。
それは学校からの帰宅途中何気なく手に入れた、あの古びた本だった。
「いつの間にこんなところに?……あっそうだった」
咄嗟に拾い上げ砂を払い除けると、それを少年に近づける。
「君が言ってた“あれ”って、これの事?」
「どれどれ……」
少年は光から本を受け取ると、じっくりとそれを確認し始めた。暫く見つめているうちに、彼は笑みを浮かべながら首を縦に振る。
「間違いない、これだ!それじゃやっぱりお前が……」
再び光に視線を向けた少年の瞳は、眩しい程に輝いていた。
そして今度は光の手を掴み、笑みを浮かべると、一言こう述べた――――。
「ようこそ、“こっちの世界”へ!」
「――――えっ?」
その時光は、開いた口が塞がらない状態のままであった。
「ったく、もっと大切に扱えよな。これマジで大切なアイテムなんだからよ……」
光の現在の状況を無視し、先程とは打って変わって、今度は抱えた本を指差しながら説教を始めようとする少年。それに対し光は、咄嗟に彼を静止させ、自分の意見を述べる。
「ちょっ、ちょっと待って!“こっちの世界”ってどういう事!?僕は何でこの世界に……!?」
「お前は“選ばれた”んだよ」
落ち着いた状態でそう述べる少年。それを聞きまたしても訳の分からない状態に陥る光。
「……え、“選ばれた”……?」
未だに少年の発する言葉全てを理解できないでいる光。そんな彼の様子に我慢できず、少年は大きく溜息を漏らす。そしてもう一度本を指差し、今度はあえて光に、一つ質問をぶつけてくる。
「お前、確かにこれを拾ったんだよな?」
「う、うん」
「そうか。じゃあ……」
すると今度はいきなり表紙をめくり、その最初のページをじっと凝視する。暫く見続けた後そのページを開かせた状態で、目の前の光に見せつけた。そこには光がこの本を拾ったその夜、日記として何気なく筆を起こした文章が記されてある。
「これ書いたのもお前か?」
「そ、そうだけど……」
少年は深く息を吐きながら、ゆっくりと本を閉じる。そしてそれを光に差し出すと、彼に対し言い放った。
「この本を手にし、一滴でも墨を滲ませる者こそ、その“持ち主”として選ばれる……」
またしても浮かび上がった摩訶不思議な一言。光はもはや頭を抱えるしか他なかった。
「……えっ、何の事?訳が、分からないよ……」
そんな彼の状況を見て、少年はとうとう愛想を尽かしたかのように、再び溜息を漏らす。
「ったくよぉ、こんなんじゃ全然先に進まねぇじゃねぇかよぉ……」
今にも泣き出してしまいそうな表情を浮かべる少年に、ただただ戸惑うばかりの光。
「もう、こうなったら!」
「……うわっ!?」
いきなり少年は光の腕を掴む。そして彼はこんな言葉を口に出す。
「一緒に来い!そうしたらもっと詳しく話すから……あっ!」
「ど、どうしたの?」
「“忘れ物”!」
そう叫んだ少年が向かった先にあったのは、彼の“炎”によってすっかり焼け焦げた獣だった。
それを片手で掴み持ち上げると、そのまま光の元に戻ってきた。そして残った片手でもう一度彼の腕を掴む。
「これでよしっ。さあ行こうぜっ!」
「えっ待って、『行こうぜ』って……わっ!?」
少年は光の腕を引っ張り、一面に広がる砂漠を進んでいこうとする。
「僕を、どこへ!?」
「来れば分かるって!」
その時光の質問は、こうも簡単にかわされてしまった――――。
その時二人は砂漠の中を、無言のまま突き進んでいた。
既に光の腕は解放されており、殆どを砂が占める大地を見回している。一方の少年は獣の巨体を、今度は両手で担ぎながら進んでいく。
「…………あ、あのぉ」
先にこの沈黙を破ったのは、意外にも光だった。
「ん、どした?」
「それ……どうするの……?」
光はそう言って、少年が担いでいる獣を指差した。
「えっ、これか?」
それに目を向けた少年は、直後にあっさりとその使い道を教えた。
「そりゃあ決まってるだろ、“食い物”だよ、“く・い・も・の”」
「えええっ!?た、食べちゃうの、これ!?」
光は只ならぬ衝撃を受けた。何しろ今でこそ息絶えているが、つい先程まで自分に牙を向くような獰猛さを剥き出しにしていた存在だ。驚くのも無理はなかった。それでも少年は冷静に話し続ける。
「そんなに驚く事なのか?まあ見た目は不気味だけど……」
突然その場に立ち止まり、そのまま言葉を途絶えさせる。最初は真剣な表情を見せていたのだが、徐々に様子が可笑しくなってくる。
「フフッ、フフフフフ……」
それまでの堅い表情が段々と緩み始め、不気味な笑みを浮かべる少年。その不気味過ぎる様は、既に獣のそれを越えていた。
「じっっっくり火を通すと、とんでもなく美味くなるんだぜぇ、ヒヒヒヒ……」
彼の口から自然と溢れ出る、尋常でない量の涎。それを見た光の肌から流れ出る、尋常でない量の冷や汗。
「……おっといけねぇ」
ふと我に返り、慌てて口元を拭う少年。直後光に視線を向け笑顔を浮かべ、親指を立てて笑顔を見せる。
「ま、一度食えば分かる事さ。お前にもご馳走するからさ、楽しみに待ってろよ!」
「えっ、あ、うん。ありがと……」
やけに明るく振舞う少年の笑顔に目を向け、思わず苦笑いを浮かべる光。
「…………あっそうだった!」
突然何か思い出した少年。ふと気になり、声をかける光。
「ど、どうしたの?」
すると少年は頭をかきながら苦笑いを浮かべると、とてつもなく恥ずかしげに返答した。
「まだ名前を聞いてなかったっけ?せっかくこうして会えたっていうのに、名前を知らないままじゃどうしようもねぇもんな」
それを聞いた光は、自身の心の内側で練り固められていた一種の蟠りが、少しはどこかへと去ってしまったように感じた。
(何だ、よかったぁ。いくら見た目が変わってても、僕らと同じような感情を持っているみたいで……)
ようやく緊張がほぐれた事で、少年に対する不信感も若干除かれたようにも感じる。ただこの質問には、少し気がかりなところもあった。
(でも何で僕の名前を……?)
光はまだしぶとく残る不安感を付け加えながら、少年の希望に応じる事にした。
「ひ…光…朝日奈光……」
それをしみじみと聞き入れる少年。暫く黙り込んでいると、ぽつりと一言呟いた。
「“アサヒナ・ヒカル”か……意味はよく分からねぇけど、きっといい名前に間違いないな」
(…………)
本当に分かっているのか不安になってきた光の頬を伝う一筋の汗。少年は感慨深い表情の後、今度は自分の親指を自身へ向けた。
「オレの名前はファメル。よろしくな、光!」
ファメルと名乗った少年はそう言うと、その親指の生える手を広げ、光の元へ差し出した。最初光は彼のこの行為の意味が理解出来ないでいた。
「へ?な、何?」
「何って……こういう時って握手すんのが普通だろ?だから、ほら!」
「えっ?あっそうだよね。じゃあ……はい」
ようやく理解し、恐る恐る自分の手を差し伸べる光。何せ目の前にあるファメルの掌には、鋭く伸びる爪や全体を覆う体毛が存在しているのを確認している。光にとって彼の手は、まさに“異質なもの”に他ならなかった。
それでもこの時二人の掌は、紛れもなく一つの塊と化した。するとどうだろう。
「…………ふぇ?」
突然全身の力が抜けてしまったかのように、急に表情まで緩んだ光。
(な、なにこの“ぷにぷに”ぃ……?)
「お、おい、何なんだよその変顔!?」
互いに不思議な感覚を覚えながら、握り合っていたその掌をゆっくりと離してみる。そして光がファメルのそれを改めて確認する。
すると彼の掌と指の部分に、妙に盛り上がっているものを発見した。ライオンをイメージさせるファメルの風貌から考えると、まさにこれは……、
(に…肉球……だよね?)
「ん、これの事か?」
そう尋ねながら自身の肉球らしき部分を指差す。
「“オレ達”が生まれた時からくっついてるものなんだけど……」
ファメルはそう言いながら自分の掌を見つめると、再び光の手を握ってみる。
「……ふにゃあ、この“ぷにぷに”だめぇ……」
またしても脱力感に苛まれる光。
「そんなに可笑しくなっちまうのか?」
「う、うん……」
光は自分の掌に目を向けながら、その理由を語る。
「何だか変な触り心地がして、不思議と力が抜けちゃうんだ……」
「ふうん…………」
ファメルはそう言いながら自分の掌をじっと見つめる。その直後自身の顔面を正反対の方へと向けると、突然不気味な笑みを浮かべる。
(ふふっ、“弱点”はっけーん!)
その時ファメルは、光に気づかれないように、“無音の笑い声”を口に出した――――。
どれくらい時間が過ぎているのか、当然ながら光には全く理解できなかった。それでも自分を先導する目の前の不思議な少年について来るしかないと決め込むしか出来ない状況だった。
以前より少しは息が荒くなっているものの、それでも彼は相変わらず獣を担ぎながら、ひたすら前へと進んでいく。
一方の光も、全身に大量の汗を流してはいたのだが、それでもしっかりとファメルの後方について来ていた。
「はぁ、はぁ……あと…どれくらい…歩けば…いいの……?」
ファメル以上に荒い息を吐きながら、前方の彼に尋ねてみる光。
「もう…少し……。あそこを越えたら…オレ達の…村がある……」
ファメルはそう答えながら前方を指差す。どうやらもう少しばかり進んだ所に、砂が高く盛り上がっている部分が見える。
暫く進み、ようやくその場所へと辿り着いた二人。
「これが最終関門だな。どうだ?いけるか、光……?」
「はぁ…はぁ…はぁ……」
心配に思ったファメルが振り返り尋ねてみたが、聞こえてくるのは荒い吐息ばかり…。もはや光には答える余裕もなかったようだ。
「(どうやら相当疲れてるみてぇだな……)……ほらっ、つかまれっ!」
そう言いながら光へと手を差し伸べるファメル。光は自身に残った最後の力を振り絞り、その手を強く握り締めた。既に疲労困憊の光にとって、彼の肉球は全くそれどころではなかった。
「よっしゃ、行くぞ!!」
そして二人はその砂山を登り始めた、互いの掌をきつく結び続けながら。
「はぁ…はぁ…はぁ……」
「はぁ…はぁ…はぁ……」
二人とも沈黙のままであった。ただこの砂山を登りきる事に集中していた。そして……。
「はぁ…はぁ……つ、着いたぁ……」
ついに二人は砂山の頂上に辿り着いた。
「ほらあそこ!見えるだろ?」
ファメルは前方を指差す。
その時光の目に飛び込んで来たのは、正面に広がる砂漠の一画に建ち並ぶ、建物の数々だった。
「あ…あれが…君の村……?」
光の質問に対し笑顔で頷くと、ファメルは自身の故郷を紹介した。
「あれが“オレ達”の故郷、《タルスト村》だ!」