第三頁
その時光は暗闇の中を、頭から急降下していた。
見上げてもそこにあったはずの明るさはなく、それ以外のいかなる方向は何も見当たらない。
そんな黒一色のみで染め上げられた空間の中、光は思った。
(僕はいったい、どこまで落ちるんだろう……?)
もはや悲鳴すら漏れる事がない。この緊急事態の最中、なぜ自分はこれ程まで落ち着いていられるのだろう。今の光には理解出来ないでいた。
そんな中でただ一つ、思い当たる場面が浮かびかけていた。
(この状況、どこかで……あっ!)
ようやく彼は闇の底部に何かを見出した。それは、かすかではあるが確かに輝いて見える“ヒカリ”だった。
(あのヒカリの向こうに、いったい何が……?)
徐々に明るさを増していくそれに近づき、眩しさも激しくなっていく。
「うっ!!」
あまりの眩しさに光は思わず瞼を強く閉じる――――。
その時光は、自身の身体に吹きつける強烈な風を感じた。
(さ、寒い……。でも何だろ?この寒さも、初めて感じた気がしない……)
激しく感じる風に覚えを抱きながら、光はゆっくりと視界を開かせる……。
赤茶けた土が広がる大地。
殆どが土で占められる中、ごく僅かな緑も見受けられるこの景色。
(この景色も見覚えが……!)
光はようやく思い出した。
「これ、昨日見たあの『夢』と一緒だ!」
親友への用事を済ませ、不思議な感覚を覚えた“本”を拾い上げたあの日の夜に見た夢。暗闇もこの景色も、夢と全く一緒のものだったのだ。
「……ってあれ、ちょっと待って」
光はここである事に気づく。
「もしこのまま夢と同じになったら……」
改めて見知らぬ大地を見下ろす。
「僕、お…ち……」
その時最後の「る」は、絶叫と化していった。
絶叫を続けながら、上空に残った自分の声と、徐々に近づいてくる地面を交互に見つめつつ、光は混乱していた。
(ど、どうしよう!?こ、このままじゃ僕、本当にぶつかっちゃうよぉ!)
必死に解決策を見出そうとしていたが、もはや成す術がなかった。つい先程まで遠く感じていた大地が、いつの間にかすぐそばにまで迫りつつある。
(も、もう駄目っ!)
腹を括り、強く瞼を閉じる光。もはや覚悟を決めざるを得なかった。
その時突然不思議な感覚を味わわされた。
(あ…あれ…?)
光は少しずつ瞼を開かせる。
まず最初に視界に広がったのは、先程まで遥か上空から見下ろしていた大地だった。
「僕…落っこちたはずじゃ…?」
なぜか身体が軽くなったように感じた光。改めて自分の状態を確認した時、ここで彼はようやく気づいた。
「……浮いてる?」
その言葉通り、彼の身体は着地寸前のところで浮遊しているのだ。幸いにも大惨事には至らなかったが、未だに混乱し続ける状態ではあったのだが。
「はぁ、助かっ……って、え!?」
突然垂れていた光の頭が空へと上がり始めた。そして地面に腰掛ける体勢にまで整われた直後だった。
「…うわっ!?」
先程まであまり気にならなかった重力を感じると、尻から一気に強く落下した。周囲に砂埃が舞い、尻餅をついた拍子に激しく咳き込む光。
「げほっ!げほっ!…はぁ、はぁ……」
何とか呼吸を整えた後、光は辺り一面を見渡してみる事にした。
上空から見下ろしていたのと同じ色彩の大地が広がっていた。所々に草木や岩も見受けられるが、やはりその殆どが赤茶けた地面ばかりだ。その一色が地平線の向こう側にまで及んでいるように思える。
ここで光は大地の正体を確認しようと、足元の土を両手ですくってみた。非常にきめ細かい粒子で出来ている。吹きつけてきた生暖かい風により、すぐさま彼方へと飛び去っていく。
「砂だ、これ……じゃあここって、砂漠……?」
もう一度周囲を見渡してみる。どこに目を向けても砂があるばかりで、段々と気分が悪くなりそうになる。
「ここは、どこ…?何で僕は、こんな所に…?」
再び混乱してしまい、思わず頭を抱え砂漠に両膝を密着させる光。この苦悶の体勢を持続させていたのだが、暫くしてようやくその手を頭からはがした。
「…………はぁ」
深い溜息を一つ漏らすと、日差しを遮る為に右手を“ヒカリの塊”にかざしながら、光は空を見上げた。
「とにかく、ずっとこのままでいる訳にはいかないよね……」
そして今度は再び周囲を見渡す。
「まずは日陰を探そう。このままじゃ僕、焼け焦げちゃうよ」
ここで光は、自分の身体中がすっかり濡れてしまっている事に気づいた。考えてみれば先程からずっとこの日差しに照らされ続けており、もはや尋常でない程の汗が滲み出てしまっていたのだ。
その時光は自分の間近に、大昔に築かれたと思われる建物が存在している事に気づいた。
一見するとその建物は、巨大な岩石から造られており、しかもその一つひとつが細かく加工されているようだった。
まるで歴史の教科書に登場する神殿のような外観を成している。
「な、何なんだろう、この建物…?」
あまりの迫力に、思わず気後れしてしまう光。それでも少しは安心した表情を見せられるようになる。
「でもよかったぁ。あの近くなら大きな日陰があるに違いない」
“この世界”に降り立ってから、初めて笑顔を浮かべる事が出来た。
「まずは建物の近くに……」
一歩足を踏み出そうとしたその時だった。
「……っ!」
突如として光の周囲に、激しい砂煙が舞い上がった。咄嗟に顔を背け、瞼をきつく閉ざす。
「うあっ!くっ…」
砂煙が現れたのはほんの数秒間程度だった。
「ビックリした…何だったんだろ、今の…?」
不思議に思いながら、光は前を向き直し、ゆっくりと瞼を開けていく――――。
その時光は自分から少し距離を置いた場所に、“何か”が出現した事に気づいた。
「え…何あれ…?」
未だに砂が漂っている為にその姿は確認しづらいままでいる。
(どうしよう。何だか嫌な予感が……)
その場に立ち止まったままの光がふと思った直後だった。
「……!?」
今まで小さく見えていた“何か”が、徐々に大きさを増しているではないか。
「えっ…ちょっ……」
少しずつ視界が晴れてきたので改めて確認してみると、どうやらそれはその場で巨大化していっているのではなく、こちらに近づいてきているようだ。ゆっくりとではあったが、次第に自分との距離を縮めてくるそれに、徐々に不安を募らせていく光。
「まずい。こ、このままじゃ…」
頬を伝う一滴の冷や汗、震えが治まらずにいる両脚。知らぬ間に喉の渇きも酷くさせる恐怖心……。
「に、逃げなきゃ……」
心の中で唯一生み出せた“最良の選択”を呟くと、光は少しずつ後方へと足を運ばせてみる。
その時だった。
今までゆっくりだった“何か”の歩みが、突如として速度を増してきたのだ。
「!?」
光は驚愕し、すぐさまその場を立ち去ろうともう片方の脚を下げようとした。
「…………うわっ!?」
その時光は、時の流れが遅くなったように感じた。
前方の“何か”に集中し過ぎ、下げた脚が想像以上に砂へとのめり込んでしまったのだ。バランスを崩した光の身体が砂地に向かって、背中からゆっくりと倒れ込んでいく。
(う、嘘…そんな……)
もはや“絶望”の一言しか浮かばないままでいた。
光の身体が大の字の状態で地面と重なり、その瞬間再び砂煙がその場に舞い上がる。砂地だった為、全身への衝撃はそれほど感じなかった。しかしそれ以上に強く感じたものは、想像以上に激しく襲い掛かる“恐怖心”に他ならなかった。
「…か、身体が……」
身体に力が入らない。そのせいで逃げ出す事も、それ以前に立ち上がる事も、ましてや少しでも抵抗する事さえ不可能であった。
「……!!」
その時光の目前には、彼の恐怖心の元凶である“何か”が立ち止まっていた。それが間近に到来した事で、不確かだったその全貌が明らかとなった。
それは一見したところ、猪のような外見を持ち合わせる獣だった。茶色い体毛で覆われた鎧を想像させる図体、何もかも簡単に貫いてしまいそうな鋭い二本の牙、顔面の中心に存在する潰れた鼻……。それはまさしく猪そのものだった。
その獣が鋭い両眼で、小動物のように怯える少年を睨みつける。暫く様子をうかがうと、今度は荒々しい息遣いや不気味な呻き声を上げながら、少しずつ近づいてくる。
「や、やめて…こ、来ないで……」
搾り取ったような弱々しい声で語りかけるも、当然聞き入れられる事もなかった。最後の力を振り絞って少しでも後方へと逃れようと試みる光。それでも獣はとどまる事を知らず、前方の獲物から離れようとしない。
「も、もう動けない……」
ここまで抵抗し続けてきた光も、さすがに体力の限界が迫ってきた。その瞳から止めどなく溢れ続ける滴が頬を伝う。
これ以上逃れようとしない獲物の身体中を嗅ぎ始める獣。その口から溢れる涎が、少年の上着に付着する。
(うぅ…き、気持ち悪い……)
光はもう声を上げる余裕すらなかった。
一通り嗅ぎ終えたそれは口を大きく開くと、自身の牙を獲物の胴体へ、今まさにとどめを刺そうとする。
(も、もう駄目っ……!)
もはや覚悟を決めるしかないと、光は強く瞼を閉め切る――――。
その時その場所に、甲高い金属音が響き渡った。
(…………あ、あれ?何の痛みもない……)
自らが作り上げた闇の中で、光は不思議に思った。本当ならば今頃自分は獣の牙に貫かれ、既にその餌食と化しているはずなのだ。しかしどうやら様子が違う。
光は恐る恐る瞼を開かせ、暗闇に輝きを与える。
「…………!?」
光は驚愕した。
その時獣の牙は二本とも、彼の目前で構える“何者か”によって立ち塞がれていた。
「うぐっ…くっ……」
日の眩しさが視界を遮る事で外見ははっきりしないが、どうやら必死に歯を食い縛りながら自分の事を守ってくれているのだと光は直感した。
「この…ヤローーーっ!!!」
声を荒らげながら、獣の腹部に強力な蹴りを食らわせる。その巨体は軽々と宙を舞い、光からかなり離れた場所まで飛ばされていった。
「はぁ、はぁ、大丈夫か?」
荒い息遣いとともに光の耳の中に飛び込んできたのは、人間の少年らしき声だった。声の主は光に背中を向けながら、心配そうに呼びかけてくる。
「…………」
光からの返答はない。何しろ目の前で忙しなく繰り広げられているこの展開について来れず、ただ呆然と座り込むのみだった。
「おいっ!」
「うわっ!?あ、うん……」
少年からの突然の怒鳴り声に一瞬怯みかけたが、どうにか彼に返答した光。そして今度は光のほうから少年に声をかける。
「き、君は…いったい……?」
「話は後だ!まずはあいつを仕留めなきゃな」
そう言い返した少年は、彼の両手に持たされた一本の剣の柄を改めて強く握り締める。どうやら先程の金属音の正体は、この剣のようだった。
「仕留めるって、それじゃ……!」
光が前方に視線を送ると、先程少年の一撃で蹴り飛ばされた獣がこちらを睨みつけている、それもこれまでで最も獰猛そうな目つきで。
「どうしよう。めちゃめちゃ怒ってるみたいだよ?」
「心配すんなって。俺に任せとけ!」
心配する自分に反し自信に満ちた返答を受け、少しだけ安堵する光。
「危ないから下がってな」
少年の忠告通り後退する光。
その直後体勢を整えた獣が、凄まじい勢いで突進し始める。その標的は少年に向けられ、徐々に速度を増していく。
「き、来た!」
「さあ、来い!」
ここで少年は深呼吸を一回行う。そしてその剣先を獣へ向けると、はっきりとした声量で妙な言葉を叫んだ。
「≪エファイレ≫!」
すると突然不思議な出来事が起こった。周辺の気温が増したのか、突如としてかなり高温の熱気が二人を覆う。かと思えば、今度は少年が獣に向けた剣先が、力強く燃え滾る炎に包まれてくるではないか。
「えっ!?な、何で?」
「よしっ成功!」
より一層脳内に疑問符が増す光と、勝ち誇ったかのように拳に強く力を込める少年。
それでも獣の突進は続く。全く怯んだ様子もない。しかしそんな中でも少年は焦る事はなかった。自身に向かう敵に対し、今度は静かに瞼を下ろしながら、剣先をその一点へ集中させる。
「決まってくれよ……」
一言そう呟き、歯を強く食い縛る彼。その頬を伝う一筋の汗が、彼の集中の度合いを表現しているように感じる光。固唾を飲んで見守る光の頬にも、彼と同じように汗が流れ落ちる。
やがて猛進する獣の姿が二人の間近へ差し掛かる――――。
「はぁっ!!!」
力強く放たれた掛け声とともに、少年は炎に包まれた刃を、右上から一気に振り下ろす。
その瞬間、今までその刃に纏われていた炎が、まるで弧を描くような形に変わり、そのまま獣に向かって直進していくのだ。炎は敵の顔面に直撃するや否や、すぐさま全体に燃え移り、激しくその身を焼き尽くしていく。
「!?」
「……やった……」
一瞬のうちに起こったこの出来事に言葉を失う光と、既に汗だくになりながらもふと笑顔を小さく見せる少年。その二人の目前で、直前までの勢いを完全に失い、ただその業火に焼かれるのみの獣。それまで炎に抵抗しもがく胴体も、もはやなす術がなかった。
「な、何が、起こってるの……?」
開いた口が塞がらないままでいる光。そんな彼の元へ、少年は手を差し伸べ声をかける。
「大丈夫か?」
「う、うん。お陰で助かったよ。ありが…と……」
恩人への感謝を伝えようと礼を述べかけたその時だった。
「!?」
光は再び言葉を失ってしまった。
一方の少年はというと、この時はまだ顔中の汗を拭っていた為、光の姿を確認していない状態にあった。
「こんなトコ独りで出歩くもんじゃねぇぞ。ま、オレが来たからにはもうぶ…じ……」
額の汗を拭いながら光に視線を移した瞬間、初めて少年もその容姿を知る事となった。
「…………」
「…………」
その時二人は無言のまま、互いを見つめ続けていた。