第二頁
その時光は、覚悟を決めた。
「……ただいま」
深い罪悪感に苛まれながら、光はゆっくりと玄関の扉を開く。
「おかえりなさい、光」
その言葉と同時に家の奥から現れたのは、陽乃の母と同じように穏やかな表情を見せる女性だ。
「どうしたの?気分悪そうだけど……」
彼女とは全く正反対である光の暗い表情を目にし、思わず声をかけてみる。
「え?……あ…うん、大丈夫だよ、母さん!」
自分を心配してくれた母を安心させようと、光は無理矢理に笑顔を見せる。かなりぎこちない笑みを浮かべる息子を目にし、母も少し察したようだ。
「……そう、それなら大丈夫ね」
そう言い残した母は、再び奥まで戻っていった。彼女の姿が見えなくなったのを確認すると、光はすぐにそばの階段を駆け上がっていった。
二階にある自分の部屋に戻った光は、鞄を机のそばに置いた後、真っ先にベッドに向かって仰向けに寝転んだ。明かりのついた天井に視線を送りながら、大きく息を吐く。
「結局、帰ってきちゃったな……」
今度は鞄へと視線を変える。その中には教室で配られた通知表に夏休みの宿題、そしてあの時拾い上げ持ち帰ってきてしまった、あの古びた本が入っている。
「僕、泥棒になっちゃったのか……」
どうしてあの時交番に立ち寄れなかったのか、それ以前になんであの本を拾い上げてしまったのか。考えれば考える程、胸の奥にぐさりと突き刺さってくる“何か”に苦しむ光がいた――――。
「ただいま」
その夜玄関の扉が開き、一人のスーツ姿の男性が現れた。
「お帰りなさい、お父さん。もう夕ご飯出来てるわよ」
再び家の奥から、エプロンを取りながら男性を出迎える母。
「おっこの匂い……今日はカレーだね?」
家中に広がるにおいの正体を笑顔の彼が推理すると、母もまた笑顔で頷く。
その父が居間に入ると、すでに二階から降りていた光が椅子に腰掛け、夕食のカレーライスに手をつけようとしている姿があった。
「お帰り」
先程までの罪悪感を漏らさないように、光は“いつも通りの自分”を演じながら父を出迎えた。
「ただいま。どうだった?通知表」
「……!?」
今まさにカレーを口にしようとしていた光は、思わずその手を止める。本の事ばかり考えていたせいで、通知表の事などはまさに眼中になかった。
「う、うん、特に問題なかったよ。ちょ、ちょっと待ってて」
手にしていたスプーンを置き、慌てて二階へ駆け上がる光。暫くして戻ってくると、その手にはしっかりと通知表が存在していた。早速それを父へ献上する。
「……うん、確かに。この調子でこれからも頑張っていくようにね」
父からの言葉を耳にし、ほっと一息つかせる光。慌てた為に中々鳴り止まない鼓動を落ち着かせようと、そばにあるコップに手を伸ばし、中身の水を口に含ませていく。
「ところで、この夏休みの間も書いていくのか?日記の方は……」
「……っ!!??」
あまりにも突然の質問を食らわされ、思わずむせ込んでしまう光。「大丈夫か?」と心配する父に対し、まだ苦しみを感じつつもその首を縦に振る。
「う、うん!そうするつもりだよ…げほっげほっ!」
光は必死になって作り笑いを浮かべる。それを見た父と後から戻ってきた母は、互いに不思議そうに向き合った――――。
いつも通りに夜は更けていった。
二階の部屋の扉が開き、パジャマ姿に着替えた光が部屋の明かりをつける。室内に再び明るさが舞い戻る中、片隅の勉強机の前に光は腰掛けた。
「結局……言えなかった……」
そう呟くと、光は大きくため息を漏らしながら、机にその顔面を密着させる。
「明日は必ず話そう。じゃないと僕、このまま本当に泥棒に……」
その視線を本へと向ける。何気なくそれに手を伸ばし、再び本を開きページをめくっていく。
(…………)
最初はただ見つめるだけだった。何かをしようと思ってもいなかったのだが、段々と様子が変わっていく。
(……あれ?)
光はふと気づいた、いつの間にか自分の右手に、日記用のボールペンが握られていた事を。
(どうして、僕、これを……?)
その理由が分からないまま、今度は机上で本に視線を戻した。先程に開かせたままで、白紙のページが目に映るばかりだ。
突然光の脳裏に、一つのとある思考が浮かぶ。
(これ……日記に使えそう……)
次の瞬間、手にしていたボールペンの先端をページに密着させる。そこから間髪をいれず文章が一文字ずつ、白紙のページに刻まれていく。
夏休み前最後の授業で曽根晴児と一喜一憂した事。持病の為欠席した岸川陽乃の家に向かった事。そして、この本を拾いこうして持ち帰ってきてしまった事……。今日起こった出来事を、ただひたすらに書き綴っていく。
(ど、どうして……?手が…止まらないよ……)
もはや自分でも訳が分からないままだった。そして……。
「…………ああっ!!??」
ようやくその手が動きを止めた頃には、本の一ページが文章で埋められていた。
「か、書いちゃった……ど、どうしよう……」
もはや成す術がなかった。ひたすら思い悩むばかりの光。悩んで、悩んで、悩み続けた結果、導き出した答えは実に姑息といえるものだった。
「…………寝よう!」
そう決意した直後、光は真っ先に布団の中に潜り込み、すぐさま目を閉じる事にした。これが正しい選択だったという事をただ一途に祈りながら――――。
その時光は、深い暗闇の中にいた。見渡す限りどこまでも闇が広がっており、自分が今どこにいるのかさえ理解できない。
「ここは、いったい……」
その時だった。
「……待ってる」
「!?」
突然聞き覚えのない声が光の耳に飛び込んできた。
「ここで、待ってるから……」
「だ、誰!?『待ってる』って、何の事!?」
明かり一つない闇の中で、光はひたすら問いかけ続ける、見知らぬ声の持ち主に向かって。
「ここだ……」
「……うわっ!?」
光は闇の中を進み始めていく。自身のその両足で歩むというより、宙に浮かんでいた身体が、前に向かって飛んでいくような感覚だ。第一これは彼自身の意志に関係なく、むしろ身体が勝手に動き出していると言っていいだろう。
「僕は、どこに向かってるんだろう……?」
光の視線の先に、一筋の小さな輝きが飛び込んできた。
「何だろう、あの光……」
輝きは徐々に大きさを増してきている。まるでそれに吸い込まれているように、自分の身体が近づいている事を光は感じ取った。
やがてその身体は、輝きの中へと飛び込んでいく。
「うっ!」
これまでに経験した事のない眩しさが、光の視覚を強く刺激させ、強制的に瞼を閉じさせる――――。
眩しさが治まり、瞼を閉める力を緩めさせる。
(もう大丈夫かな……うぅ、それにしても何だろ?さ、寒い……)
今度は巨大な扇風機を浴びているのだろうか。自分の身体に、とてつもなく強烈な風が打ち付けているのだろうか。
(もう目を開けても大丈夫だよね…)
光は恐る恐る視界を広げてみる……。
赤茶けた大地が広がっている。
稀に緑が残っている場所もあるのだが、やはり大半が土で占められている。
「こ、ここは…?…………!!!???」
自分の現在の状態が確認出来た時、光は激しい驚愕を覚えた。
彼の身体は、広がる大地からとてつもなく上空にあった。そして今、自分はその大地に向けて、勢いよく降下している。何の装備もしていない為、その様子はさながら背中にパラシュートを備えないままスカイダイビングに挑んでいるようなものだった。
先程から感じていた寒さの元である風は、気圧の塊を貫く事で生み出されたものだった。
「…………うわ」
突然漏れ出したその声は徐々に音量を増していき、最終的には大音量の絶叫に変わっていった。
(ど、どうして!?ここはどこなの、何で僕、落ちてるの!?)
いくら大声を上げようと、その声は周囲に分散して成り立たない、それを自覚しているのか、心の中でもひたすら叫び続ける光。それでも広がる光景は徐々に拡大していき、その身体は確実に大地へと近づいていく。
(このままじゃ…ぶつかっちゃう…!!)
もはや成す術はなく、この状況においての光は、その身体を地面に強く叩きつけられるのみだった。
(も、もうだめ……!)
絶望の淵に立たされた、というよりすでに叩き落されている自分に出来る事などないと感じた光。見知らぬ大地が近づく中、彼の瞳からこぼれ落ちる雫達が、次々と舞い上がっていくように見える。
もはや覚悟を決めるしかなかった。
「う……うわぁぁぁああぁあぁ!!!!」
「――――っ!!??」
その時光は、自らのベッドの上にいた。
「……ゆ、夢……?」
荒い呼吸と鳴り止まない心臓の鼓動を少しずつ鎮めていき、落ち着いたところで深呼吸を行う。全身は尋常でない量の汗に濡れていた。
「怖い夢だったぁ」
先程までの一部始終を思い出し、たまら身震いを引き起こしてしまった。部屋のカーテンを開くと、すぐさま強い夏の日差しが室内へと入り込んできた。
「何だったんだろう、あれ……」
差し込む日差しを浴びながら、光は一言そう呟いた。
「…………」
夏休み初日の朝。朝日奈家の三人は食卓に集い、食事をともにしていた。
父は今朝の新聞を広げ、そこに母がコーヒーを差し出す中、光はトーストを口にくわえながらもの思いにふけっていた。
(やっぱり気になるなぁ、あの景色……)
未だにあの夢が忘れられないでいる光。自然と口は動いてはいるが、明らかに租借している様子はうかがえないでいる。
「…………ひゃっ!?」
突然片方の頬に当てられた冷たさに驚き、思わず悲鳴を上げる光。すぐさま顔を向けると、冷えきったオレンジジュースが注がれたコップを片手に持ったまま笑顔を見せる母の姿がそこにあった。
「どうしたの、光?夏休み初日なのに、そんな暗い顔しちゃって…」
母は優しく息子に声をかける。父もまた気にするように、一瞬彼に目を向ける。
「あっいや、何でもないよ!さ、さぁ食べよ食べよ!」
くわえたままだったトーストを無理矢理口に押し込み、母から受け取ったジュースを流し込んでみせる光。
「……っ!?げほっげほっ!」
突然大量に投入したせいで思わずむけてしまう。見かねた母はすぐさま息子の背中を叩く。
「もう、いきなりたくさん飲み込んじゃうから…。大丈夫?」
心配する母に対しひたすら首を縦に振る。そんな息子の奇妙な様子に、父と母は不思議そうに見つめ合うばかりだった。
何とか朝食を済ませ、再び二階の部屋に戻ってきた光。脚を踏み入れるなり、深いため息を一つ漏らした後、自身の机の前に腰掛ける。
「もー、何か変な事ばっかり…」
すっかり沈んだ気分を抱きながら、ふと机の片隅に目を向ける。そこには昨日のあの時、光るが偶然手にした古本が置いている。
「それも…」
何気なくその本に手を伸ばし、改めて表紙を見つめる。
「この本を拾ってからなんだよね。書く気もなかったのに日記書いちゃったり、あんなに怖い夢見たり……」
ここまで自身の身に舞い込んできた出来事を、愚痴をこぼすような口調で声に出して振り返ってみた。
「……待ってる」
「……?」
突然どこからともなく声が聞こえてきた。すぐに周辺を見渡してみる光。しかしどこをどう見ても、この部屋には光以外誰もいない。
「ここで、待ってるから……」
「!?」
またしても声は聞こえてきた、それも先程よりもはっきりと。しかもその声は聞き覚えがある。
「この声、どこかで……!」
暫く考え抜いた末、自分の脳裏をよぎった物の正体に、光は気づいた。
「…そうだ、あの夢の中の声だ!!」
未だに彼の脳内に疑問符を残すあの夢、その中で耳にした、光を呼ぶあの声。数秒間動きを止めた後、彼は意を決した。
(今度は僕から呼びかけてみよう)
姿形すら分からぬ声の主に向かって、光は自分の“心の声”を投じてみる。
(君は誰?どこで待ってるの?)
「オレはここにいるぜ……」
光はふと窓の外に目を向けた。
彼の住む日和町の街並みが広がっている。この景色のどこかから声が聞こえるとは何となく感じ取れる。しかしまだ確実に理解できないでいた。
もう一度光は“声”と投じてみた。
(どこ?どこなの?)
「ここだよ、ここ……」
先程より鮮明に聞こえる声。目を閉じ、耳を研ぎ澄ます。
「この声……あそこからだ!」
光は中学校に、正確にはその裏側にそびえる小高い山に目を向ける。彼ら中学生の間では「裏山」と呼ばれており、日和町を代表する景観として親しまれている。
「間違いない、この声、裏山から聞こえる!」
そう確信した光は、おもむろに古本へ手を伸ばす。持ち上げたそれをじっと見つめると同時に、一つの決意を下した。
「……行かなきゃ!」
そして光は部屋を跳びだした、その片手で本を手にしたまま。
「行ってきます!!」
大急ぎで階段を下りながら、光は出発を告げた。
「ちょっ光、どこ行くの!?」
突然の足音と息子の大声に驚きつつ、母は尋ねてみる。
「ちょっと裏山まで!」
その言葉を発した頃には、すでに準備は整っていた。改めて靴の履き具合を確認し、光はすぐさま玄関の扉を開かせる。
「お昼前には帰ってきなさいよ!まだ午前中なんだからね…」
母からの忠告に対し「うん!」とはっきり受け入れると、光はその足で走り去っていった、見ず知らずの「誰か」が待つ裏山へ――――。
その時彼は、登山道の中腹辺りにいた。
「はぁ、はぁ……」
彼にとっては登り慣れているはずの登山道も、今回ばかりは予想以上にきつい道のりだった。
勢いよく自宅を跳び出し、目的地である裏山まで辿り着いたまではよかった。しかしその間に体力をかなり消耗させてしまい、いざ登り始めて間もなく息が上がり、大量の汗が全身から溢れ出る程になっていた。
「あ…脚が…おも…い…」
登る速度が徐々に落ち、道の終盤にある平たい場所で一時立ち止まる。息も荒く、その掌を両膝に乗せた途端頭が一気に下がった。
「つ、疲れた…あと…もう少しなのに……」
歯を食いしばりながら落ちた視線を上に向け直す。頂上はもう目と鼻の先だ。それを確認し、彼は一回だけ深く呼吸した。
「……行かなきゃ!」
自分の足に鞭を打つようにその手のひらで膝を叩き、彼は再び進み始める。
「はぁ、はぁ、やっと着いたぁ…」
只ならぬ疲労感に苛まれながらも、ようやく彼は目的地に到着した。
裏山の頂上であるこの場所は展望台にもなっているので、ここから一望出来る日和町の街並みは目を見張るものとして町民から親しまれている。
しかし今の彼にとって、そんな事はもうどうでもよかった。
「つ、疲れた…まさかこんなに…疲れるなんて…はぁ、はぁ……」
いまだ荒い息遣いのまま、自らの顔面から溢れ続けた汗を両手で拭う。
「ここだ、この中のどこかから、あの“声”が……」
疲労感漂う表情のまま、彼はもう一度耳を澄ませてみる、自分を呼び続ける“誰か”の声を確かめる為に。
「…………」
不気味な沈黙がその場を支配した。
(何も…聞こえない……)
今まで顕在していた確信が崩れかけてきた。
(あれって僕の、勘違い……?)
自分自身に疑いの念をぶつけかけたその時、“それ”は突然耳に飛び込んできた。
「ここだ、ここ!」
「!!」
咄嗟に彼はこの場所の中心部に目を向けた。
「あそこだ!」
早速そこに近づくと、今度は地面に直接耳を当てて確かめようとした。
「…………えっ?」
すると突然重力が失われたように感じた。
「何で?…身体が…」
彼がふと呟いたその時展望台には、誰の姿も見当たらなかった。