第一頁
その時世界はいつも通りに、時間が過ぎていった。
七月の終盤。
天気は快晴。いかなる雲の邪魔もなく、大きく顔を見せる太陽からは日差しが強く大地に注がれている。蝉も元気よく鳴き声を響かせ、これから暑さを増してくる天気を更に盛り立てる。
いつも通りの“夏”の一日が経過していた。
その時一学期の終業式を終えた中学校のとある教室では、担任の男性教師が通知表を生徒一人ずつに手渡していた。
それを受け取り、それぞれ違った表情を見せる生徒達。満面の笑みを浮かべる生徒もいれば、引きつった表情で両手を震えさせる生徒もいる。
「げっ、嘘だろ、何じゃこの成績!?これじゃ親に怒鳴られちまう……」
奈落の底へ叩き落されたように叫びうなだれる、茶髪気味の少年。視線は下を向くばかりで、ただため息が漏れる一方だ。
「え?ちょっと見せて」
無言で頷く茶髪少年のそばに近づき、彼の絶望を呼び起こした「一枚」を確認する黒髪の少年。一通りそれを眺めた後、少年は不思議そうに首を傾げた。
「あれ?落ち込む事なんてないと思うけど。だってほら、赤点だってない訳だし……」
「よくそんな事が言えるな、光(ひかる)。お前は頭いいから何の心配もないだろうけどさ。俺うちの親に毎日言われてるんだぜ、『お前も少しは光くんを見習いなさい!』ってな」
その言葉を口にした後、少年は茶髪をかきむしりながら、自身の机に顔を沈めていく。
「ご、ごめんね、晴児(せいじ)くん……」
光が申し訳なさそうに、茶髪少年に頭を下げた。
「謝らなくていいよ。まぁ、まだ中学校生活も始まったばかりだし、二学期こそは挽回出来るように頑張るからさ!」
そう言いながら再び顔を上げる晴児。表情は笑顔に満ちていた。それを確認した光にも、ふと笑みがこぼれる。
そんな二人のもとに、先程まで通知表を配っていた教師が近づいてきた。
「朝日奈、ちょっといいか?」
「はい、何ですか?」
そう答えたのは光少年の方だった。
「今日渡すはずだったこの通知表と宿題を、岸川に届けに行ってもらいたいんだ。今日も身体の具合がよくないみたいで、せっかくの終業式も出られなかったからな」
光は教室の一角に目を向けた。そこには一ヶ所だけ、手つかずのままでいる机を椅子が放置されている。
「先生が直接渡しに行ければいいんだが、何せまだ用事が残っていてな。ほら、朝日奈の家、岸川の家に近いだろ。そこで私の代わりにそれらを持っていってもらいたいんだが……」
「あっはい、いいですよ!帰る途中に渡してきます」
少しも拒みそうな様子もなく笑顔で返事する光。
「おお、そうか!それじゃ、これ頼んだぞ」
その言葉の直後、光の机上に積まれた自身の宿題に、さらに岸川たる生徒の分が積み上げられた。どうやら想像していた以上の量だったらしく、光は少々困惑してしまう。
それを傍らで見つめていた晴児が我慢出来ず教師に申し出た。
「そりゃないよ先生。こんなに大量の荷物を光一人に持たせるなんて、いくら何でも可哀想じゃないですか」
「ま、まぁそうだな。しかしこれは、出来れば今日中に渡しておきたいんだが……」
教師もまた、困惑する表情を見せる。
「………しょうがないっすねぇ」
その言葉を発したのは、他ならぬ晴児だった。
「俺も光を手伝いますよ。これくらいの量なら、二人で簡単に持っていった方が楽だと思うけど。なっ光?」
その提案を述べた後、光に視線を向け笑顔を見せる。
(晴児くん……)
それにつられて光も微笑む。
「そうか、それなら曽根にも任せよう。確かに二人でなら簡単だからな。ただし……」
教師は晴児をじっと見つめる。そして笑顔のまま一言告げる。
「こうして友達に快く協力したとしても、今さら成績を上げることなんてないからな。それだけは自覚しておくように」
一瞬の静寂の直後、ずしりと何か重い物体が落下したかのような音を光は耳にした。
教師がその場から離れたのを確認してからふと視線を変えると、そこには先程よりさらにうなだれる様子を見せる晴児の姿があった。
「そりゃないよ、せんせぇ……」
蚊の鳴く声で呟いた彼の一言を聞き、光はただ苦笑いを浮かべるのみだった――――。
その時二人は、任務を果たす為親友の住む家に向かっていた。
「はぁ……怒鳴られ決定か……帰るのやだなぁ……」
教室を出てから校門を通過するこの瞬間まで、晴児はため息を漏らし続けるばかりだった。
「…………」
ともに校舎を離れる光も思い悩んでいた、絶望に苛まれている晴児にどんな言葉をかけるべきかと。
(ど、どうしよう。こんな時、何て言ったらいいんだろう……)
光は悩み続けた。ただひたすら悩み続け、ようやく重い口を開けた。
「……と、とにかく、今はこれを届けに行く事だけを考えようよ!」
上手な言い回しが思い浮かばず、率直に自らの思いを伝える事しか出来なかった。
こんな言葉でよかったのだろうかと、光は正直に思った。こんなに軽率な発言のせいで晴児をさらに傷つけてしまったのではないかとも思った。そのせいで、光の表情はいつの間にか優れないものと化していた。
「……それもそうだな」
「えっ!?」
思い悩む光を察してか、晴児は突如俯いていた頭を上げ直した。あまりにも突然の出来事だったので、光はなおさら驚きを隠せなかった。
「そりゃ、いくら落ち込んだところで何も始まらないよな。まずはこの用事を済ませて、それから思いっきり叱られるからさ。心配してくれてありがとな」
少々照れ笑いを浮かべながら、晴児は光に向かって頭を下げた。
「晴児くん!よかったぁ……」
親友の照れ笑いにつられ、光にも笑顔が戻ってくる。
「……それにしても、ハルちゃんも可哀想だよな……」
「え…うん、そうだね…」
先程まで取り戻しつつあった明るさを失い、二人の表情はまた沈んでしまう。
「……本当に晴児くんの言う通りだよ。身体が弱いせいで、この1学期の殆どを棒に振る日が多かったから。現に今日も終業式だったのに……」
そう言うと、同級生の不幸をまるで自分の事のように思った光は更に表情を曇らせていく。そんな彼に向かって、晴児はこんな言葉を返す。
「……でもさ、今までもそうだったけど、もしハルちゃんが困っちまう時がまた出てきたら、これからも手助けし続けていこうぜ!」
落ち込む光に笑顔を見せる晴児。それを見て、再び表情を明るくさせる光。
「……うん、もちろん!」
同級生への協力を改めて誓い合った二人。その表情は再び晴れやかなものとなっていた。
その時二人は、立ち止まった。
「さて、到着っと!」
閑静な住宅街の中、二人は一軒の家の手前にいた。入口の表札にはあの時教師が口に出していた「岸川」の姓が刻まれている。
玄関前まで入り込んだ二人。代表して光が家のチャイムを鳴らした。
しばらく経過すると、閉ざされていた玄関の扉がようやく開き始める。
扉を開けたのは、穏やかな表情とややふくよかな体格が特徴的な女性だった。
「あら、朝日奈くんに曽根くんじゃない。どうしたの?」
「あっこんにちは。今日は終業式だったんで、この宿題と通知表を代わりに渡すようにと、先生に頼まれて来ました」
二人は左手のビニール袋を女性に手渡す。女性は袋の口を軽く開き、その中身に目を通す。一通り確認し終わった後、女性は二人に優しい笑顔を見せた。
「いつもありがとうね。また二人に面倒な事させちゃったわね……」
「そ、そんな事ないですよ!面倒だなんて、俺達気になんてしてないですから……」
慌てて言葉を返す晴児。その直後、今度は光がその理由となる言葉をはっきりと告げる。
「だって僕達……友達ですから!!」
光から放たれた、おそらくこの日最も大きく明瞭な一言は、岸川家の内部全てに響き渡る程のものだった。二階のある一室にも。
内部は薄暗いこの部屋の一角に備えられたベッドに、一人静かに眠りにつく者がいる。それが先程光が言い放った一言で、ゆっくりと目を開かせていく。そしてベッドから起き上がると、その目をこすりながら、ゆっくりと部屋を後にしていった。
その頃玄関先では、光と晴児の二人がなおさら慌てふためいていた。
「ご、ごごご、ごめんなさい!はっきり言おうと思ってつい……せっかく休んでいたのに大声なんて出しちゃって……」
尋常ではない冷や汗を浮かべながら必死で頭を下げる光。
「だ、大丈夫よ!あの子きっとまだ休んでるはずだから……」
女性が慌てて彼をなだめる。その時だった。
「うぅん、お母さん……」
玄関からすぐの階段を経た二階部分から、か細い声とともに、ゆっくりと一階に向かってくる足音が聞こえる。その音がふとおさまった時そこにいたのは、長髪の少女だった。
まだ寝巻き姿のままでその瞳をこすりながら、玄関にいる二人を確認する。
「あ……朝日奈くんに、曽根くん……どうしてうちに……?」
「突然ごめんね、陽音(はるね)さん。先生に頼まれて、宿題と通知表持ってきたんだ」
光はそう言ってから、晴児とともに手持ちのビニール袋を掲げ、陽乃と呼ばれた少女に見せる。
「あ、ところでハルちゃん。今の具合どう?今日も学校来れなかったみたいだけど……」
晴児から体調を聞かれ、陽音は自分の胸元に手を当てながら答える。
「今は大丈夫。しっかり休んできたから……」
「陽音、今日もまた二人が手助けしてくれたのよ」
陽音の母である女性の言葉を受け、彼女は二人に視線を向ける。それに合わせて、二人は袋を確認させる。
「朝日奈くん、曽我くん、今日もありがとう。いつも私の事心配してくれて、本当に嬉しいよ」
それを聞いた二人は笑顔を見せ、再び自分達の心情を述べた。
「なぁにこんな事。俺達小学校からの仲じゃんか。友達なら当たり前だって!」
「この夏休みで元気になって、そうしたらまた一緒に勉強しようね!」
二人の言葉に後押しされたかのように、陽音も母親も優しく微笑んでみせた―――――。
その時二人は、親友の為の用事を済ませ、来た道を引き返していく。その途中の丁字路に差し掛かり、そこで一旦立ち止まる。
「ハルちゃん、元気そうでよかったな」
岸川家の方角に目を向けながら、最初に話を切り出す晴児。「うん」と呟きながら静かに頷く光。
「陽音さん、喘息だっけ。さっきは大丈夫みたいだったけど……」
光もまた晴児と同じ方向を見つめる。そして三人が出会った小学校時代を思い出す。
「僕らが陽音さんと初めて会ったのが小学校の時だよね。その時からもう喘息が酷くて、よく欠席や早退してたんだよね…」
「そんなハルちゃんに救いの手を差し伸べたのが、俺達だったという訳だ」
「それからだよね、陽音さんと僕らが『友達』になれたのって」
晴児ははっきりと首を縦に振る。
「……もしかしたら、僕らが家を出た後、陽音さんまた具合悪くなったりしないよね?」
光は心配そうに、二人がつい先程までいた陽音の家に目を向ける。
「……心配すんなって!」
その言葉と同時に親友の肩を叩き、振り向く彼の視線に笑顔を見せつける晴児。
「あの笑顔なら大丈夫。何たってそりゃ、俺達の『友情パワー』をしっかり受け取ったからな!」
親指を立てながら満面の笑顔を見せる晴児によって、暗い表情だった光も思わず吹き出してしまった。
「そうだよね、僕もそう信じるよ!今日は本当にありがとう!」
「いやいや、お構いなく!」
そう言いながらも、思わず得意げな表情を見せる晴児。すると突然、晴児はこんな質問を問いかける。
「ところでさ、お前この後どうすんだ?このまま真っ直ぐ帰りそうもなさそうだけど……」
それに対し光は、ごく普通に答えを述べる。
「うん。この後『佐久間書店』に寄ってくるつもりなんだ」
「ははぁん、さてはお前、日記帳だろ?あそこに行く目的って」
光はまた何の疑いもなく頷く。そんな彼に対し、晴児は思わず呆れ顔を見せる。
「やっぱりな。にしても変わった趣味だよな。日記なんて女の子っぽいし、第一面倒くさいし……」
「つい書きたくなっちゃうんだよね。僕も何でかはわからないけど……」
照れ笑いを浮かべる光。
「じゃあ、晴児くんは?」
「俺はスーパーで買い出し。今朝親に言われててさ」
そう言って晴児は鞄に手を突っ込み、そこから大きめの買い物袋を取り出す。
「そっか!晴児くんのお家……」
「そういう事!」
晴児は再び親指を立てた。
「そんじゃまたな!いい夏休みにしようぜ!」
「うん!またね!」
二人はともに手を振りながら、互いに正反対の道を進んでいく。
その時光は、陽音への届け物を済ませ、少しは軽く感じられるようになった鞄を背に、一人住宅街を突き進んでいた。
「さて、後は日記だけっと……」
忘れないように夏休み前最後の使命を呟きながら、光は心の中で日記に綴りたい事を考えていた。
(新しい日記にはどんな事が書けるかな?せっかくの夏休みだから、いろんなとこにも行ってみたいし、いろんな事もしてみたいな……)
あれこれ考えているうちに、彼の視線の先に商店街の入口が目に映ってくる。この中の一画に、目的地である『佐久間書店』が構えてある。光にとっては最も馴染み深い店である。少しずつ速度を上げ、一歩ずつ目的地に近づけていく。
「…………ん?」
何気なしに目の前の電柱に目を向けた光。
その電柱の根元に、一冊の本が置かれている。不思議に思った光はそれを拾い上げてみる。
「誰のだろう……?」
一見するとそれは、全体的にしっかりとした革張りのなされたものである。表紙には、どこの国のものだか全く理解できない文字が赤く刻まれている。
中身はやや色褪せた様子の古紙で、めくったどのページにも何も手を加えられていない。
「こんなに立派なのに、落としていっちゃうなんてもったいないなぁ……」
そう呟きながら、光の心の中ではこんなよからぬ思考が巡らされていた。
(これ……持ってっちゃってもいいのかな……!)
光ははっと我に返る。
(いけないっ!そんなの泥棒だもん。とりあえずこれは交番に届けよう。うん、そうしよ………!?)
その時光は、一人嘆いた。自身が最良だと思った決断を下したこの時には、すでに目の前に自宅が存在していたからだ。
記念すべき初投稿です。ご意見・ご感想お待ちしております。