契約関係の逆転
ロゼアさんの作業が順調に進んでいた。いや、正確なところはわからないけれど、多分進んではいるのだと思う。
僕はずっと、さっきのことを考えていた。
あのあと、お爺さんはちょっと困ったような顔をしてロゼアさんの両手を優しく離し、その代わりに空いた両手でロゼアさんの両肩をそっと掴んだ。ロゼアさんの涙は、もう落ちてこない。
「何泣いてるんですか、あなたもルエル君も。私がやりづらいですよ。私が了解して、今ここにいるんですから」
「……いや、そうですけど、」
「じゃあ、わかった。こうしましょう」
お爺さんは、人差し指を立ててみせた。
「私は、あなたに自分を殺してくださいと頼んだ。あなたはそれに了承して、これから私を楽にしてくれる。そういうことで、どうですか」
でもどうして。ロゼアさんが息のような声で呟いた。
「どうして、そんな簡単に言えるんですか。私も死にたいと思ったことは何度かありましたが、それが出来たことなんて一度も」
「まあ、それは老いぼれ故の考えということで。いいでしょう? 妻がいなくなってしまっては、こちらとしてももうすることがありませんし」
そう言って、お爺さんは何回か見せていた微笑みを僕達に向けたのだった。
「そういえばあなた、お名前は」
作業をしているロゼアさんに向かって、お爺さんが尋ねた。
「ロゼア・アルルスといいます」
「そうですか。おいくつですか」
「今年で十七です」
ええ! とお爺さんが驚きの声を上げた。
「てっきり二十は超えているものかと……高校生でしたか」
「……よく分かりませんが、それは私が老けているという解釈でよろしいですか」
「いえ、そうではなくて」お爺さんはかぶりを振った。「しっかりしているなあと思いましてね」
「ああ、そういうことなら」
言いながら、ロゼアさんはまんざらでもなさそうだった。やっぱり顔に出るタイプみたいだ。
「で、ルエル君は弟さんかなにかですか」
「冗談じゃない!」
ロゼアさんが吼えた。な、何もそこまで言わなくても。
「えーっと、じゃあ……?」
「一年限りのパートナーなんですよ、ロゼアさんと僕」
なんだか言っていて空しい。
「おや、そうなんですか。なんだか兄弟のように見えたもので」
「勘弁してくださいよ! 一年きっかりでこいつとはおさらばですので!」
ロゼアさんの否定のせいで、更に空しい。そんな僕らを見て、お爺さんははっはっはと笑った。
「もう、兄弟でいい気がしますけどねぇ、ロゼア君とルエル君」
ロゼアさんは、説得するのはもう諦めたのか、ふて腐れながら作業に戻っている。
はぁ、と溜息をついた僕を、お爺さんはくすくすと笑った。
「二人ともおもしろいですねえ、一年なんていわずにずっといたらいいじゃないですか。見てて飽きませんし」
「いや、さすがにそれは……」
言われて、一緒に暮らしている図を想像してみた。
――ルエル、茶碗はそこじゃねえ、奥の棚だ!
――何皿割ってんだよルエル!
――火ぐらいちゃんと見とけよ!
――なんで雨なのに洗濯物干してあるんだよアホか!
……だめだ、考えただけで目眩がする。
「まあ、無理でしょうね」
「分かってるなら言わないでください」
「でも、最後に面白いものを見せてもらいましたよ、いやあ、面白かった」
満足そうな顔をするお爺さんには、とてもじゃないけれどこれから死ぬ人だとは思えないようなすがすがしさがあった。多分僕ならそんな顔はできないだろうなあ、なんて思いながら、僕はお爺さんの隣に腰を下ろした。