第9章 おらの…僕の作戦
翌日の昼少し前に、広田さんはいらした。
僕は、そのときを待ち構え、ご到着と同時にお出迎えをし、広田さんが応接間に通された後も、扉の周りをうろついていた。
朝からずっと、応接間はもちろん、厠や、そこに至る通り道に例の決闘状が落ちていないか、念入りに偵察していたので、今のところ、危機的事態の兆候は何ら見当たらなかった。しかし、油断は禁物、広田さんがお帰りになるまでは、一時も目が離せない。広田さんのような知識人に、あんな無能な手紙を見られたらたまらない…あれはお嬢様のいたずらだって説明するのも言いわけがましいし、それに、そんなことをしてまで、この縁談をつぶしたいとお嬢様が思っていることを広田さんに知られたら、それこそ大変だ。この縁談に乗り気な先生を裏切ってしまうことにもなる。僕の名誉を守るためにも、先生のご希望を叶えるためにも、あの手紙を広田さんに見せてはならない…
そう決意を新たにしていると、先生に呼ばれて、お嬢様も応接間にお入りになった。いつもの仏頂面だったが、僕と目が合った瞬間、天使のような笑みが浮かんだ。凶兆だ!!!
ここからは、一瞬だって気を抜くわけにはいかない! お嬢様が扉の外に決闘状を落したりせずに中に入るのを見届けた後、僕は急いで外に回ると、窓から応接室の中を覗いた。
僕が外に回る間に、先生は退室なさって、若いお二人だけになっていた。何か災いが起きた様子はまだなかったが、ちょっとでもおかしな兆候が見えたら、すぐに応接間に飛び込んで、広田さんの手に決闘状が渡るのを防がなければならない。応接間に飛び込む口実を作るために、急須と盆も、すでに裏口のところに用意してあった。
僕は息を殺して決定的瞬間を待ったが、それは中々やってこなかった。広田さんはにこやかに何かお話になっていたが、お嬢様のほうは、肘掛椅子の背の上から大きな赤絹の蝶結びが見えるだけだった。胸の高さほどの窓枠に、へっぴり腰で長いことしがみついていたもんだから、しまいに膝ががくがく震えて来たが、そのとき「ちょっと失敬」とばかりに片手をあげて、広田さんが立ちあがった。厠にでも行くつもりだろう…
厠への道すがら、万が一にも決闘状が落ちていないか確かめたい衝動にかられたが、しかし、ここはこの場に残って、お嬢様が、この隙に乗じて決闘状を部屋の中に仕込んだりしないよう見張っているべきだろう…
しかし、お嬢様はピクリとも動かなかった。やはり、厠方面に予期せぬ罠が仕掛けてあるのか…? でも、厠への道筋には、さっき点検したときも何も落ちていたなかったし…そのとき、僕は重大なことに気が付いた。お嬢様は、便所紙の間に決闘状を挟んだのかもしれない! しまった、そこまでは点検していなかった…広田さんが便所紙を一枚めくったら、そこに、あの、菓子の包み紙に書かれた間抜けな決闘状が…! しかし、広田さんが紙を使うとは限らないし…嗚呼、でも…!! 僕の心臓はこむら返りを起こしそうに高鳴ったが、そのとき、広田さんが戻ってきた。そのお顔には、先ほどとなんら変わった様子はない。広田さんは紙を使わなかったのだ! 安堵の涙がこみ上げてきたが、しかし、まだ一瞬だって気を抜くことはできない…
「うわ! 本当にのぞいてら!」
と、頓狂な声がして、僕は驚きに後ずさった拍子に、石に蹴躓いて尻もちをついた。日焼けした顔に白い歯をきらめかせ、栄作さんが僕を見下ろして笑っていた。
「さっき、厠の前で広田さんに会ったら、君が窓から応接間を覗いてるっておっしゃってたから、本当かどうか確かめに来たんだ」
と、栄作さんは手を差し伸べて、僕を助け起こしてくれた。
「ひ、広田さんが、僕が覗いてることに気付いてらっしゃる…?!」
僕がどもりながら尋ねると、栄作さんはにやりと頷いた。さぞや、ご気分を害されたことだろう! 僕は、自分がコオロギではないことに、たった今、気がづいたゴキブリのように、しんみり項垂れた。
「広田さん、笑ってたぜ。かわいい坊やが窓から覗いてるって。お嬢様に気があるから、焼きもち妬いてるんだろうとおっしゃってた」
「おらが、お嬢様に惚れてるだって?!」
僕が飛びあがると栄作さんは肩をすくめた。
「ま、普通、そう思うよな。でも、大丈夫。広田さんは怒ってなかったぜ。かわいそうな坊やだと笑ってらっしゃった」
お怒りでないのならいいけれど…しかし、決闘状が広田さんの手に渡るのを阻止するために、かえってそんな誤解を招いてしまったとは、なんという不覚!…いや…僕は、頭からさっと血の気が引くのを感じた。いや、そもそも最初から、これがお嬢様の狙いだったのだ! 僕が決闘状を恐れて窓から応接間を覗いたり、広田さんをおかしな目つきで眺め回したりすることによって、広田さんに僕とお嬢様の仲を誤解させることが狙いだったのだ…! なんと邪悪な! なんと悪辣な!
僕はあまりの恐ろしさに、着物の中で盛大に膝がしらをわななかせた。
「何をそんなに震えているんだい? 瘧にでもかかったみたいだぜ。それとも、もしかして本当に恋煩いでもしてるのかい? まじめな話、いったいなんで横恋慕の盗人猫みたいに窓からのぞきなんかしていたのさ?」
栄作さんはちょっと呆れたように尋ねた。もっともな疑問だった。僕は、昨日からの決闘状の一件を洗いざらいぶちまけた。
「ははは! お嬢様らしいや。しかし、君も、まじめ過ぎるよ。そんな手紙、広田さんが見たって、君が書いたとは思わないよ」
栄作さんがいかにも何でもないことのように言うので、僕はちょっとムッとして答えた。
「困りますよ! 広田さんは僕のことをよくご存じないんだから、僕が書いたって信じてしまうかもしれない」
「そしたら、それはお嬢様が書いたんだって、直接、広田さんに言ったらいいじゃないか」
栄作さんはこともなげに言ってのけた。
「そんなことできませんよ! そしたら広田さんは、お嬢様が、この縁談に乗り気じゃないってことに気付いてしまうではないですか」
「もう気付いてると思うけど? 帝大で金時計をもらったお方なんだからさ」
栄作さんは顎の先で、応接間のほうをしゃくってみせた。
「そ、そうかもしれないけど…でも、こんな低級ないたずらを仕掛けてまで、お嬢様がこの縁談をぶち壊したいと思っていると知ったら、さすがにいい心持はしないでしょう?」
僕が言い返すと、栄作さんも顎をさすって、少し考えこんだが、すぐにまた口を開いた。
「そりゃ、いいことだとはお思いにならないだろうけど、本気になって怒るとも思えないね。広田さんは、お嬢様が乗り気でないことも、あんなご気性だってことも充分、承知の上で、来春には早速もお嬢様をいただきたいって、先生に申しこんだんだから」
「…広田さんは、そんなにもお嬢様のことがお好きなのですか…!」
僕がちょっと感動して頷くと、栄作さんはぷっと吹き出した。
「まあ、そうだろうね…。何せ、二階堂先生の帝大での地位は相当なものだし、ご資産もかなりなものだし、先生のお嬢さんをいただいて、二階堂家に縁づくことができれば、広田さんの将来もますます安泰だろうから」
「じゃ、広田さんは金目当てなんですか?!」
僕が驚きに声を高くすると、栄作さんは、しぃぃっと指を立てて、応札間を横目に見た。
「前にも、ちょっと広田さんと立ち話をしたことがあるんだが、そのときもご自分でおっしゃってたよ。学者として研究を続けるにはコネと金が物を言うって。それが手に入るんなら、大抵なことは我慢するって…ま、そういうことでもなきゃ、あのお嬢様を我慢しようって気には…」
ま、そうだけど…でも…
「でも、お絹さんは、広田さんはすごくいい方だと思うって言ってましたよ…」
金目当てなんかじゃなく。僕が納得できずに尋ねると、栄作さんは苦笑いを浮かべた。
「そりゃ、お絹さんは自分だって嫁入り前の娘だからね。金時計を下げた粋な紳士を見りゃあ、それだけで目がくらんで、素晴らしい結婚相手だって思ってしまうに違いないよ」
僕はまだ納得できずに目を瞬いていた。
お嬢様だって、広田さんの本心に気付いていることだろう。あんなにずる賢いお方だもの。それで、何とかして、この縁談をぶち壊そうとしていたのか…? でも…
「なぜ、お嬢様は、ご自分ではっきり、こんな縁談はいやだとお父様におっしゃらないのです? あのご気性なら、広田さんに直接、告げることだって可能でしょうし、広田さんにも直接、意地悪をなさればいいじゃないですか? 僕にしてるみたいに、思い切り。そしたら、広田さんだって、さすがに…」
栄作さんは、僕の言葉を遮るように首を振った。
「あんなお嬢様だけどね、やはり心の隅では分かってらっしゃるんじゃないかな。いつか、自分はこのお屋敷を出なければならない人間だと。お兄様の宗助さんが外国からお戻りになったら、きっと奥さんをお貰いになるだろう? そしたら、この家も今ほど居心地が良くないだろうし、二階堂先生だって、いつまでお元気か分からない。なら、お屋敷を出て結婚すればいいんだけど、相手は誰でもいいというわけにもいかない。貧乏なんか我慢できないだろうし…恵まれているように見えるけど、しょせん、籠の鳥なんだよ。籠の外に出たら生きてはいけないから、どんなに嫌でも、結局は籠の中に差し入れられたものを受け取るしかない。…お母様は、お嬢様が生まれてすぐにお亡くなりになったし、お父様はご立派な方だけど、研究一筋だし、お兄様は洋行中だし…茂吉君、君が来てから、お嬢様は前より溌剌としているように見えるよ。お嬢様が君を特別、いじめるのは、君のことがお気に入りだからだと思うね、実際」
栄作さんは横目に、にっと笑ってみせた。
あんたを巻き込んだほうが面白いもん…
お嬢様の言葉が、ふと蘇って、僕は俯いた。